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地方映画の作り方(第10回)宣伝〜東京、全国公開② [地方映画の力!]

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地方映画の作り方(第10回)宣伝〜東京、全国公開②

東京公開の初日はメインキャストが集まり、舞台挨拶を行う。多くのマスコミも集まり、華やかなものとなる。ロケ地はそこから大々的にアピールされる。映画を観て、ロケ地を訪ねないまでも街の名前を覚えてくれる。

これも大きい。企業は新しい商品を売り出す時に、商品名を覚えてもらうためだけで何億円もかける。それほど名前を覚えてもらうというのは重要なのだ。1980年代「尾道」という街の名前を若い人たちが覚えたのは大林宣彦監督の映画の舞台となったから。

映画を見れば街の名前だけでなく、どんな街で、どんな魅力があり、何が名産で、どんな人たちが生きる街か? 伝わる。それを観光パンフレットにして日本中に配っても、しっかり読んでくれる人は何人いるだろう? でも、映画にすれば自分たちでお金を払い、映画館まで来て、映像でわが町を見てくれる。それこそが故郷映画の強味なのだ。

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太田組作品はこれまで5本の劇映画がある。いずれも20箇所以上の映画館で公開。これはフジテレビの大作等が100館公開(宣伝費も何十億円)クラスに比べると少ないが、TBSが製作する映画は全国区で10数館なので、それよりも多い。低予算でマイナーな町おこし映画の多くは地元でしか公開されない。良くて東京だけ。頑張って3大都市ということが多い。

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が、太田組作品は毎回、全国で公開。海外の映画祭からも招待されている。これは街のPRを全面に出す典型的な故郷映画にはせず、物語優先の作品を作っているからだ。つまり、PR映画にしてしまうと結局、全国では上映されず、PRにはならないということ。大事なのは感動ありきに作品を作ることである。

(つづく)


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地方映画の作り方(第9回)宣伝〜東京、全国公開 ① [地方映画の力!]

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地方映画の作り方(第9回)宣伝〜東京、全国公開 ①
                             
故郷映画は盛り上がり、地元では多くの人たちが喜んでくれる。で、「終わった。終わった」になりがちだが、本当の目的はこれから。映画を全国の映画館で公開。地元の魅力を多くの人に伝えなければならない。

そのために配給会社を雇い、映画館をブッキング、宣伝して、全国公開。新たに宣伝費も必要だ(あるいは製作費と込みで用意。完成披露上映会を有料でやり、それを宣伝費にする方法もあり)。

大事なのは宣伝の仕方。地元をアピールする映画だからと「**市オールロケ作品」とポスターに書いて欲しいという人が必ず出てくる。が、これはマイナス。京都ロケ、北海道ロケなら多くの興味を引くが、有名でない地名をあげても宣伝にはならない。むしろ興味をなくす。また、町おこし映画が各地で作られる状況なので「ああ、また、安易な観光映画ね?」と思われてしまう。

大事なのは宣伝で町をアピールするのではなく、映画をアピールすること。感動作品なのか? 笑える映画なのか? それで客を呼び、スクリーンに映し出される美しい風景を見て、感動の物語を感じてこそ観客は「あの町に行ってみたい!」と思う。これが一番大事だ。

(つづく)


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山田洋次監督の映画が大嫌いだった10代。アメリカで見た寅さん映画のこと。 [映画業界物語]

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山田洋次監督の映画が大嫌いだった10代。アメリカで見た寅さん映画のこと。

10代の頃。「男はつらいよ」シリーズが毎年、盆暮れに公開されていた。当時僕は日本映画が大嫌い。「ハリウッド映画こそが本物の映画!」と思っていた。が、いつしか将来は映画の仕事がしたい...と強く思うようになって「趣味だけでなく、いろんな映画を観なければ」と、高校時代に「男はつらいよ」を見に行った。

1978年の正月映画で19作目の「寅次郎頑張れ」(大竹しのぶ、中村雅俊)だったと思うが、異常に場内が盛り上がり観客が大笑いしているのに驚いた。が、いかにもの下町人情劇。当時、ハリウッドは「ガントレット」「私を愛したスパイ」「カプリコン1」が正月映画。その落差を感じた。高校を卒業。真剣に映画監督を目指すべく東京へ。その年に日本アカデミー賞を取ったのが「男は」シリーズの山田洋次監督の「幸福の黄色いハンカチ」だ。

その後、テレビで見たのだが、途中でオチが分かる!(というより、予告編でラストの大量のハンカチが映る!)展開。これが作品賞? と19歳の僕は憤慨した。「将来、監督になっても、山田洋次のような映画だけは絶対に撮らない!」と固く誓ったものだった。それが20歳を超え、いろんな人生を経験して、ふとまた「男はつらいよ」を観ると「意外にいいじゃないか?」と感じた。

それから盆暮れになると、寅さんを見に行くようになる。毎回は見れなかったが、ちゃんと映画館で見た(というか当時はまだレンタルビデオが普及し始めた頃)その後、アメリカ留学。LAで生活して感じたのは「男はつらいよ」に描かれている日本こそが、日本であること。

当時の日本映画はニューヨークを舞台にしたような、おしゃれな青春映画が多く、日本らしくない作品が増えていた。が、LAで見ると(この頃はもうビデオが普及。アメリカでも日本映画をビデオで観れた)恥ずかしいようなものばかり。例えれば地方に行くと、いかにも東京にあるカフェ風の作りだが、どこか垢抜けないセンスのない店があるが、そんな感じ。

あちこちで感じた。ディズニーワールドでも、ニューヨークのメトロポリタン美術館でも。日本は世界に通用する文化や風景がある。なのに、アメリカのモノマネばかり。田舎の人が田舎っぽいのを嫌い、都会の真似をした店やファッションを追いかけるのと同じ。そんな中で山田洋次監督の描く世界こそが日本であること。そこに僕らが生きていることを実感した。

その後、映画監督となり、気づくと田舎を舞台にした家族物語を描いていた。「ストロベリーフィールズ」も「青い青い空」も「朝日のあたる家」も、その後も全て同じ。まさに山田洋次の世界。「絶対に山田監督のような映画は撮らない!」と誓ったのに...。後日談がある。業界の先輩が教えてくれた。

「山田監督が松竹に入った頃は木下恵介監督の全盛期。泣ける家族ドラマが大ヒット。山田洋次は、俺は絶対に木下恵介のような映画は撮らない!と言っていたらしい。が、気づくとまさに木下恵介監督のような家族ドラマばかり作っていたんだと」

とてもよく分かる話だ。ははは。


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夢破れた友人たち。生き残り夢を掴んだ者たち。=その違いは何か? [映画業界物語]

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夢破れた友人たち。生き残り夢を掴んだ者たち。=その違いは何か?

僕が通った高校。進学校なので99%が大学に行く。が、同級生たちは夢を語ろうとはしなかった。希望する大学名も口にはしない。受験して落ちたらカッコ悪いからだ。また「将来は商社に入って海外と取引がしたい」なんていうと「お前が商社に入れるのか? その前にまともな大学に行け!」とか言われるからだ。

そんな中でも、親しい友人たちは密かに夢を語った。「会社員になるより、カメラマンになりたい」「コピーライターになろうと思う」「本当は小説家を目指している」僕は当時から映画監督を目指していた。当時からシナリオを書いていたし、8ミリカメラを回していた。

友人たちは大学に進学。4年間のバケーションを手に入れた。僕は大学を拒否。映画学校に入学したが、すぐに絶望。学生映画を始めた。ミュージシャン志望の若者が仲間を集めて素人バンドをするようなものだ。友人たちも、それぞれの夢を追って行動を開始。新たに出会った仲間たちは監督、シナリオ、俳優を目指して努力した。

しかし、若い頃は自分に何ができるか分からず、あれこれ葛藤する者。監督になりたい者は「自分に感動的な映画が作れるか?」作家志望は「俺にベストセラー小説が書けるのか?」俳優を目指す奴は「俺はテレビで活躍するような演技ができるのか?」と苦しんだ。それから40年。ああ、もう40年も経つんだ...。

夢追った多くの友人は夢破れ、去って行った。でも、彼らを見ていて思うのは、夢を追うと決めながら「俳優になりたい」と言いながら、彼女を作ることにも努力していた。脚本家になると宣言しながら、バイトバイトで生活。最後まで書き上げることはなく、人に見せることもなかった。4年の大学生活はあっという間。就職。多くが似たようなことで夢破れた。

漫画家を目指すという後輩もいたが、描いたものを出版社に持ち込むこともなかった。見ていて思ったのは、多くが趣味のレベル。大学生なら講義に出て、バイトして、コンパして、旅行して、その残った時間で趣味の活動。写真撮ったり、小説書いたり、8ミリ映画を作ったりしていた。何もしていないのに「世の中は甘くない」と諦めて就職する。世の中が厳しいのではなく、本人の意識が甘いことに気づいていない。

一方、僕は幸運にも映画の世界で仕事ができるようになった。同じようにここまで辿り着いてきた人たちを見ていると、別のものを感じる。全てをかけて戦っている。大学を中退して学生映画を作り続けた人。就職せずにカメラを選んだ者。アルバイトをしながら俳優を続ける奴。生活の残った時間で、趣味レベルで夢を追うのではなく。生活を人生を賭けて、ここまで来た人たちだ。まだまだ、書きたいことあるが、長くなったのでまた。


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