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太田隆文第1回監督作品「ストロベリーフィールズ」 [思い出]

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「ストロベリーフィールズ」(2005年)

出演:佐津川愛美・芳賀優里亜・東亜優・谷村美月・波岡一喜・三船美佳

若手俳優たちの演技に涙が溢れる!

昭和40年代を舞台にした女子高生の幽霊ファンタジー。

カンヌ映画祭2005 フィルムマーケット招待作品
ジャパン・フィルム・フェスティバル・LA 201111招待作品

監督ブログ=>http://t-ota.blog.so-net.ne.jp

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映画「ロケットマン」のエルトン・ジョンと僕の高校時代。 [思い出]

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映画「ロケットマン」のエルトン・ジョンと僕の高校時代。

もう少し、今度は映画「ロケットマン」ではなくエルトン・ジョンについて書いてみる。先にも書いた通り。高校時代に映画「フレンズ」の主題歌を歌っていることで存在を知り、あれこれ聞き出した。アルバムとしては「ピアニストを撃つな」を擦り切れるほど聴いた。中学時代はビートルズとビー・ジーズを聴きまくったが、高校はエルトン・ジョンに始まり、クイーン、ローリングストーンズと進んだ。

映画「ボヘミア・ラプソディ」が昨年公開されたし、エルトン、クイーンは高校時代のメモリーだ。ただ、僕の場合。音楽は徹底して聴くが(ベストではなく、アルバムで過去に遡る)アーティストの歴史とか背景には興味がない。曲自体と向かい合う。だから、コンサートは行くが自伝を読んだりはしない。本人に会いたいとかもない。

ミックジャガーに会いたい!サインが欲しい!とかも思わない。曲を聴くことが何よりも彼らと接し、知ること。そんなだから、フレディがゲイでエイズで死んだとは知っていたが、インド人で、あんな家族がいて、あんな人生を送っていることは知らなかった。

エルトンも同じ。映画「フレンズ」のヒロイン・アニセーアルビナがロンドンのスタジオで会った時(1970年)は気さくないい人で、一緒にランチ食べたりしたけど、数年後に会うとプライドの高い嫌な奴になっていたという話をしていたことくらいしか知らない。その辺は映画で描かれている部分でもあり、感じるものがある。

高校卒業前にリリースされたのが「恋に捧げて」評判は良くないが、僕は好きだった。オープニングはなんと「ジョニーBグッド」のディスコバージョン。卒業後に名作「青い肖像」「グッバイ・イエロー・ブリックロード」を聴いた。これはオンタイムではない。後者も「ピアニスト」と同様に映画から影響を受けている。イエローブリックロードというのは黄色のレンガの道。そう「オズの魔法使い」で主人公のドロシーが歩んだあの道のこと。

そのアルバムは1000万枚のセールス。同じく1000万枚セールスの「キャプテン・ファンタスティック」何がいいのか?未だに分からない。1985年に公開されたアメリカ映画「ファンタンゴ」の主題歌はその「イエロー」に収録された「 Saturday Night Its all Right For Ftighting」だった。その監督がUSC映画科卒業生。そこに僕は2年後入学する。

その前後からエルトン・ジョンの曲はパワーを無くしていく。というより、高校3年から聴きだしたローリング・ストーンズの方が自分に合ったからかもしれない。メローで、美しいエルトンの歌は日本ウケする。「ユアソング」なんて何度CMソングになったか? 映画の主題歌にもなっていたし(就職戦線異状なし)。誰もに愛される歌だ。でも、高校を出て戦いを始めた僕は不良のロックであるストーンズに魅力を感じたのだろう。

そのあとは横浜で暮らしだして、ブルーススプリングスティーンの歌と出会い。さらに美しいエルトンのサウンドはかけ離れた、どちらかというと汚れた(?)ラブソングを歌うブルースの方が合っているとと感じたのだろう。しかし、その後、映画監督デビューして作った映画を音楽で例えるなら、不良ロックのストーンズではなく、エルトンの悲しくも美しいラブソングの方が近いように感じる。彼の歌が心に染み付いているのだろう。

そのエルトン・ジョンのライブはLA留学中に見ることができた。1989年。ウエスタフォーラム。3万人ほどのキャパ。そこで高校時代から聴いた彼の歌を生で聴くことができた。オープニングは「ベニー&ジェッツ」今回の映画でも流れた。ちなみにこれも「雨のロスアンゼルス」という映画の主題歌。そして、クライマックスは「ファンタンゴ」の主題歌!大盛り上がり大会。一昨年来日したが、入場料があまりに高く行けなかった。が、行った京都の「友達」は最高だったと絶賛。悔しい思いをした。

そんなエルトンがどんな人生を送っていたか? 今日の映画で知った。暑さが収まった深夜。部屋で一人、彼のアルバムを聴いている。


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ダウンしたベッドの上で思い出を追ってみる。 [思い出]

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ラスト舞台挨拶ツアーが終了。帰京してからダウンしていた。というより、前回の自宅入院状態の続きである。過労というのは本当に何もできない。1日に2度も3度も寝てしまう。起きているときもベッドに横たわっている。と書いても、過労を体験したことのない人は「怠け病だろ?」とか「さぼりたいだけだよ」という。倒れるまで仕事をした人でないと実感できないだろう。

ベッドの上で天井を見つめながら、iPadで映画の上映情報を打つ。このくらいはできる。HPや誰かの記事から情報をコピー。それを自分のFacebookやTwitterにアップする。iPadは写真も簡単に持って来れるので便利。集中力がないのでテレビは見ない。本も読めない。1日に1度、根性で起き上がり、近所のコンビニに食料を買いに行く。それ以外は部屋で寝ている。

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回復状態を計る目安がある。近所のコンビニ=5分まで行く気力がある。それがないと重傷。次が駅まで行けるか? 20分の道のみ。それでもダウンしていると、「無理…」と思えてしまう。以前、「そろそろ行けるか?」と挑戦して、途中で体力が尽き、引き返したこともある。さらによくなると近所の映画館。といっても歩きで40分。電車で数駅。これはかなり良くならないとダメだ。それらにチャレンジできる気力があれば、段階的によくなっている。

全快して駅まで普通に歩くと、なぜ、これだけの距離を歩く元気がなかったのか?と不思議に思うが、重度の過労になると、それすらもできない。ひたすらベッドで天井を見つけて寝る。或は酒を飲む。酔っぱらってまた寝る。そんな繰り返しだ。

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今回、映画公開で、LA、横浜、大阪に行った。それらは全てある時期を過ごした思い出の場所だ。
大阪は高校時代を過ごした街。LAには6年留学した。横浜は映画学校に通い、自主映画も作った街。いずれも多くの思い出がある。が、この数年は本当に戦いで、それを思い出す余裕もなかった。が、今回、それぞれの街を訪ね、思い出場所を通ることもあり、いろんなことを思い出した。当時のヒット曲を聴くと、まるでタイムマシーン。忘れていた思い出まで蘇り、涙が溢れる。

映画が好きで、ひたすら映画館に通っていた高校時代。映画監督を夢見て8ミリ映画を撮っていた横浜時代。憧れのUSC映画科に合格したLA時代。そして1990年に帰国。5年かかって脚本家になり、そこからさらに10年かかって映画監督デビューをした。今年、5本目の映画が全国公開。各地で上映されている。しかし、この先も監督業を続けられるかどうか?分からない。今回が遺作かもしれない。おまけにもう50代後半を迎えた。

時代はトランプ大統領が登場。朝鮮半島南北の和解。腐敗の極みを見せる安倍政権。沖縄知事にデニー玉城が当選。時代はもの凄い勢いで変わろうとしている。

過労で倒れたのも、何か過去と未来を見つめる時間を与えられたのかもしれない。といいながら「明日」の宣伝映像をもう1本編集せねばならないし、7月から遅れに遅れている別の仕事もせなばならない。リハビリもスタートしたし、早く復活したい……。



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横浜時代の想い出を訪ねてみた(2)〜横浜スタジアム、神奈川県民ホール、矢沢永吉 [思い出]

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 横浜に住んでいたというと、港の見えるおしゃれな街だと想像されがち。だが、そんな場所は関内から山下公園方面の観光地のイメージであり、僕の住んでいた地区はどこにでもある田舎街とほぼ同じ。田畑はないが、高いビルがある訳でもなく、由緒正しい建物がある訳でなない。商店街と住宅地。小さなビルがいくつかあるだけ。だから、何かするには関内駅や横浜駅にでなければならない。

 そんなことを考えながら久しぶりに横浜の街を歩く。関内駅を通り過ぎると、球場が見えて来る。横浜スタジアムだ。僕は野球もサッカーも詳しくないが、この場所には想い出がある。そう、1984年に矢沢永吉のコンサートがここであった。「I'll be back soon E'」ツアー。当時、ローリング・ストーンズやThe Who、Bスプリングスティーンと高校時代から聞いていた洋楽以外に、日本の歌も聴くようになり、一番熱心に聴いたのが矢沢永吉だった。

 1983年の「I AM A MODEL」ツアー以降。毎年行っていたと思う。聖子ちゃん。明菜ちゃんなら「一緒に行く」という友達はいたが、「矢沢」というと誰も興味を持ってくれなかったから、いつも1人だ。東京ドームはまだなく、東京ではいつも武道館。横浜は県民ホール。それがその年は横浜スタジアム! 会場は満員。4万人。新旧の矢沢ファッションに身を包んだファンでいっぱいだった。

 しばらく歩くと今度は大きな建物。横浜文化体育館。実はここでも矢沢のライブを観た。1987年。LA留学中に夏休みで一時帰国したとき。「Rock'n Roll Knight」ツアー。このときから、コンサートの定番となる「止まらない Ha~Ha」が歌われるようなったはず。今回は行かなかったが、神奈川県民ホールではリンダ・ロンシタットのコンサートを観た。あの名盤「What's New」のアルバムを出したときのツアー。衝撃だった。そこからビリーホリデーやナット・キング・コールを 聴くようになった。

 矢沢の話に戻るが、彼の歌には横浜を舞台にしたものが多い。「チャイナタウン」「ヨコハマ・フォギーナイト」「ニューグランドホテル」。僕自身がヨコハマに住んでいた時代に矢沢をよく聴いたので、他の歌を聴いても、ヨコハマ時代を思い出してしまう。iPadに入れた矢沢の歌をヘッドフォンで聴きながら街を歩いた。

 ♫「空のポケットに夢ばかり詰め込んで生きて来た」 〜「チャイナタウン」

 という歌がある。矢沢永吉は広島からロックミュージシャンを目指し上京。なぜか、ヨコハマで下車。そこでアルバイトをしながらバンドを始め、やがてキャロルというバンドでデビュー。ロックスターの道を歩んで行く。そんな彼がヨコハマ時代を思い作った歌だろう。その歌詞はまさにヨコハマ時代の僕自身でもあり、映画監督になる!と、大阪の高校を卒業後。東京を目指すが、なぜかヨコハマの映画学校に入学してしまい、この街で青春時代を送る。

 矢沢の「成り上がり」を読んでそれを知り、共感したことから、彼の歌を聴くようになる。横浜時代にアマチュア・バンド。僕は学生映画。彼の歌にも共感するものが多かった。そんなヨコハマ時代。その頃に聴いた懐かしい歌を聴きながら伊勢佐木町を歩いた。その通りをずっと行くと、ジャック&ベティがある。そこでは今、「明日にかける橋」を上映してくれている。30年前のあの頃には想像もしなかったことだ。

 当時、ヨコハマで8ミリ映画を作っていた。学校に失望し、ドロップアウトしたクラスメートたちと学生映画を作った。皆、空のポケットに夢ばかり詰め込んでいる奴ら。でも、1年が経ち、2年が経ち、3年が経ち。皆、夢破れてヨコハマを去って行った。「しょせん。夢は夢だよ」と言う言葉を残した奴。友人の下宿アパートを訪ねると部屋が空になっていたこともある。何の言葉も残さず去って行った奴もいる。

 そんな中で僕だけが生き残り、映画監督の仕事をしている。これはラッキーなのか? 嬉しいことか?いや、そんな簡単な世界ではない。「明日にかける橋」が僕の最後の作品かもしれない。世間が注目する監督でもなく、大ヒット作品を作ったフィルムメーカーでもない。どうにか、こうにか、毎回、映画を撮っているだけ。未だに生活は不安定。借金だらけで、結婚もできない。高校時代の同級生は皆、夫となり、父となり。子供たちも社会人になっている。

 そんな中1人。映画を作りたい!という10代からの夢を追い掛けて来た。ここ数年。いや、10年ほど。目の前の問題を片付けることに必死で余裕がなかったが、久々のヨコハマ。あの頃を思い出してしまう。あの頃を振り返ると、ここまで来たことも感じる。しかし、来年の今頃は仕事なく、路頭に迷っているかもしれない。それが映画界。昔からの知人で映画界で大ブレイクした奴がいる。が、失敗作が続き、膨大な借金をして、今はどこにいるか分からないというのもいる。僕もいつどうなるか?分からない。

 未来を想像しつつも、過去を振り返る。前回の記事で書いた映画館。蒲田パレス、横浜日劇、横浜名画座、今回は行っていないが、天王町ライオン座、大森キネカ、大井町ロマン座と、当時はいろんな名画座に通っていた。2本立て500円ほど。映画館の暗闇の中で、スクリーンを見つめる。ハリウッド映画が中心。暗い日本映画も観たが、あまり好きになれなかった。映画学校に来る奴はなぜか・芸術映画や暗い日本映画。特にATGが好きなのが多かったが、僕はハリウッド映画。

 そんな思いが嵩じて、LAに留学することになるのが、それはまた次の話。今はしばらく横浜時代を振り返ってみる....。

(つづく)


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横浜時代の想い出を訪ねてみた⑴〜横浜日劇、鶴見文化、蒲田パレス。 [思い出]

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先日、ネットテレビで番宣出演させてもらうのに横浜に行った。そこは18歳から5年間、青春時代を過ごした懐かしい街。出演は夜なので早めに出て街を歩いてみた。

当時住んでいたのは京浜急行線の新子安。そこからさらに20分ほど歩いたところにある下宿パート。トイレ共同。風呂なし。当時、学生は皆、そんなところに住んでいた。映画学校に通っていたが、あまりに退屈でプラスにもならないので、横浜市内にある名画座通いをするようになる。

そのときによく行ったのが、現在「明日にかける橋」を上映していくれているジャック&ベティ。当時は横浜名画座といって日本映画を上映していた。その向かいにあったのが横浜日劇。こちらは洋画の二番館。その後、「探偵マイクハマー」シリーズの舞台になったおしゃれな建物だった。

その2つが黄金町。他にも大勝館という名画座があった。ここは渋い映画の2本立て。当時、都内でもどこでもやっていない「シベールの日曜日」と「悲しみよ、こんにちわ」を上映。でも、客席は半分が映画ファンの学生。半分がその日暮らしオジさんたち(?)

多分、その日の仕事にあぶれた人たちが、入場料500円で1日潰せる映画館に来ているのだと思えた(当時は入れ替えなし)。 或は家のない方々の宿となっている(?)中にはトイレまで行かずに場内でオシッコする人もいて、凄い映画館だった。近所にはかもめ座という映画館もあったが、そこは行ったことがない。

新子安に住んでいたのでお隣は鶴見駅。そこには鶴見文化という映画館があった。いつか行こうと思いながら、結局1度も行っていない。今回、その映画館に行ってみた。当時の写真をネットで探し、比べてみる。まわりの景色が少し だけ当時の面影を残していた。1度でもいいから、来ておくんだったと後悔。

京浜急行でもう少し品川方面に行くと、蒲田駅。あの「砂の器」で最初に殺人事件が起こる街。或は「蒲田行進曲」のあの蒲田である。松竹の撮影所あ大船に移る前(今は大船の撮影所もないが)蒲田に撮影所があった。その蒲田駅から5分ほど行ったところにも名画座「蒲田パレス」があった。

ここは洋画の2本立て。「ザドライバー」と「ウォーリャーズ」を観たのを覚えている。が、今は蒲田工学院の建物が建っていて当時の面影はない。僕が90年にアメリカ留学から帰ったときは、まだ営業しており、一度でも来ておくんだったと思える。それでいうと、横浜日劇も当時まだ健在だったし。80年代の想い出の場所がいくつか存在していた。

にも関わらず、映画監督を目指し、バイトしながらシナリオを書く日々。その頃は新宿に住んでいた。生活で精一杯で、青春時代を振り返る余裕もなかった。が、近年、思うのは過去を振り返ることの大切さ。「向日葵の丘」も「明日にかける橋」も過去の物語。振り返ることで気付く大切さ。その意味で建物がある内に、もう一度、訪れてけばよかった。後悔しながら、蒲田パレス、鶴見文化の跡地を訪ねた。

(つづく)


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明日にかける橋ースチール写真紹介③ [思い出]

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これも、またまた昨年紹介したものだが、完成披露試写会をご覧になった方は「あーーーあのシーーーーン。あの撮影のあとだなあー」と思ってくれるはず。観てない方は秋頃に「あーーー」と言ってもらえるはずです。


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明日にかける橋ースチール写真紹介② [思い出]

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これも、すでに昨年紹介したものだが、

完成披露試写会をご覧になった方は

「あーーーあのシーーーーン」

と思ってくれるはず。観てない方は秋頃に

「あーーー」

と言ってもらえるはずです。


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明日にかける橋ー夏の決起集会記念写真。 昨年の8月。撮影直前に撮った集合写真。ここから本格的な戦いが始まった。それから4ヶ月後に完成披露試写会が迎えられるとは!実行委員の方々の奮闘がそれを可能にした。 [思い出]

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明日にかける橋ー夏の決起集会記念写真。

昨年の8月。撮影直前に撮った集合写真。ここから本格的な戦いが始まった。それから4ヶ月後に完成披露試写会が迎えられるとは!実行委員の方々の奮闘がそれを可能にした。




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明日にかける橋ー撮影時の想い出 雨の中の委員会スタッフ [思い出]

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雨の中、撮影準備に「明日橋」の石碑(発泡スチロールではなく本物の石! 石屋さんが本当に文字を掘ってくれた)設置に奮闘中の実行委員会メンバー。まさに縁の下の力持ち。彼ら彼女らがいたから無事に撮影を終えることができた。そうして完成した映画は今年、全国に発信される!


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明日にかける橋ースチール写真紹介 [思い出]

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すでに昨年紹介したものだが、完成披露試写会をご覧になった方は「あーーーあのシーーーーン」と思ってくれるはず。観てない方は秋頃に「あーーー」と言ってもらえるはずです。



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明日にかける橋ースチール写真紹介④ [思い出]

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これも、これも、すでに昨年紹介したものだが、完成披露試写会をご覧になった方は「あーーーあのシーーーーン。ここ泣けターーーー」と思ってくれるはず。観てない方は何のことだか分からないけど、秋頃に「あーーー」と言ってもらえるはずです。



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2015年11月19日 に書いた記事 [思い出]

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2015年11月19日 に書いた記事

【ふと、この10年のことを思い出してみたら、さらに15年の思い出が!?】

1980年代は年代ごとにしっかりと覚えている。高校を卒業して本当の人生を歩み出した年でもあるからだ。その意味で「向日葵」の1983年というのは明確に覚えている年だ。が、1990年代に入ると不明確だ。そんなことを考えながら歩いた。

1990年 アメリカ留学から帰国。29歳。秋に戻ったので、本格的なスタートは91年から。その年の2月に東京のアパートを契約。新たな生活が始まる。目標は映画監督になること。アルバイトをしながら、シナリオを書き続けた。この辺のことは以前書いたが、昼はレンタルビデオ店で働き、夜は居酒屋で皿洗い。映画会社や製作プロダクションに何度も持ち込みしたが、「面白い。映画にしよう!」といってくれたところは1軒もなかった...。

92年、93年、94年と、新たにライター業をスタート。雑誌や週刊誌に記事を書く仕事をしていた。仕事をもらうだけでなく、自分で取材、それを出版社に売り込んだり。「週刊プレイボーイ」「ペントハウス」「コスモポリタン」等で書かせてもらった。が、それだけでは食えず、ビデオ屋やベビーシッターのアルバイトもしていた。あと、映画学校や演劇学校の講師もあちこちでした。

95年に日米合作ドラマ「Gaijinー開国」にスタッフ参加。同年、シナリオライターデビュー「アルティメット・クライシス」「女子高生コンクリート詰め殺人事件」96年、Vシネマ「82分署R」「ゼロウーマン」を担当。97年映画のメイキングで演出。98年「太陽娘と海」スタッフ。同年、ドラマ「風の娘たち」監督デビュー。99年、映画「死びとの恋わずらい」メイキング担当。Vシネマ「真・恐怖体験 投稿編」を監督。

00年、Vシネマ「真・恐怖体験 ドラマ編」担当。01年ー02年 映画「ストロベリーフィールズ」営業。03年、ドラマ「怪談・新耳袋」監督。大林宣彦監督「理由」メイキング担当。04年 新作準備。05年「ストロベリーフィールズ」監督。

こんな感じか? この先は明確に覚えている。「ストロベリーフィールズ」「青い青い空」「朝日のあたる家」そして「向日葵の丘 1983年夏」。だが、これ以前は毎年、過酷な戦いの連続だったので、どれが何年で、何が何年でと覚えていない。しかし、今、振り返ってみると、「何でも来い!」という感じで、一進一退している。製作会社とは何度も喧嘩しているし、理不尽な仕事も大かった。ギャラの不払いも何度もあり。仕事を依頼して来ておいて、別の人にまわされて、それを知らずに待ち続けていたこともある。

けど、そんなこんなで15年。15年だ。これをどう捉えればいいのか? どう、解釈すればいいのか? 考えてしまう。このあとの2005年から映画「ストロベリーフィールズ」を監督。そこから怒濤の戦いが続き、現在に至る。それでさらに10年。その最初の段階で、総括をする余裕がなく、その前の15年が曖昧なのだろう。帰国して15年。映画監督デビューして10年。ひとつの節目だと思えている。


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2年前に撮ってもらった写真。辛い思いが込み上げる。 [思い出]

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下の写真を撮ってくれたのはニュー八王子シネマの支配人だった中島さん。2年前の今日、「向日葵の丘」舞台挨拶後に撮影した写真。その中島さんが先日亡くなっていたことを知りショックを受けた。

彼との出会いは「朝日のあたる家」だ。原発事故を題材とした映画だったので上映拒否する映画館が多かった。とはいえ、そのことが反発を呼び「だったらウチで上映しよう!」という心ある映画館の支配人たちが手を上げて全国23館で上映されたのだが、その内の1館が中島さんが当時支配人をしていた沼津のジョイランドシネマだった。

「朝日」は静岡県湖西市で撮影されながら、静岡県で上映された映画館は中島さんの沼津のみ。静岡市内の映画館は皆拒否という中、勇気ある決断。公開に踏み切ってくれた。地元の応援もあり大ヒット。その年1番の興行成績を上げ、お正月をまたいで3週間のロングランとなった。

その後、中島さんはニュー八王子シネマに移り、「向日葵の丘」はなんとゼロ号試写に来てくれた。映画を見た彼は大感動「必ず、ウチでやります!」といってくれた。その約束通り2年前の今日。八王子公開。舞台挨拶にも呼んでくれた。そのときの写真が上。

「向日葵」も3週間上映してくれた。八王子で3週はきつい。大ヒットする映画でも2週間程度。聞くとこう答えてくれた。「この映画館にくればいい映画をやっている。それをアピールしたい。そのために『向日葵の丘』は最適の映画ですよ」

嬉しかった。映画愛を感じた。その中島さんが亡くなった。彼は背が高く、禿げているので、恰幅もよく、いい歳に見えるが僕よりもずっと若い。「インディジョーンズ最後の聖戦」を見たのが高校生と聞いて驚いた。そんな方が亡くなるなんて....。

今回の「明日にかける橋」も中島さんに見てほしかった。きっと喜んでくれたに違いない。何だか「向日葵の丘」の梶原支配人のようだ...。そんな中島さんが天国から見れるように「明日にかける」完成させ多くの人に見てもらいたい。


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「明日にかける橋」の物語を思いついたのは11年前のサウナ?② その町の美しさが物語を花開かせる。 [思い出]

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名古屋のサウナで考えついた物語。「かなり行ける!」と思っていたが、早10年が経つ。その間に日本はさらに酷い状態となり、当時「お父さんを応援しないと!」と思っていたが、お父さんだけでなく日本人の誰もが大変な時代になってしまった。バブル経済を知らない子供たちが大人になり。日本はもう経済大国ではなく不況が20年も続く国に落ちぶれてしまった。

そんな時代に「お父さん。がんばれ!」では意味がない。しかし、過去にタイムスリップする物語は昔から好きで一度挑戦したいと思っていた。そして過去を旅する訳ではないが前作「向日葵の丘」はバブル前夜と言える1983年ー日本人が将来に希望を感じていた時代を舞台に映画を作った。その時代と現代を対比することでいろんなものが見えて来た。だったら、次はバブル前夜ではなく、バブル全盛期を見つめるとどうか?そう考えた。

思い出したのは名古屋のサウナで考えた物語。今回は回想の物語ではなく、実際に過去に行くことで何かを見つける話にしよう。そうだ。バブル全盛期である1989年にタイムスリップする物語はどうか? 先の企画は昭和40年代を考えていたが、それを1989年。つまり平成元年にする。そして先に物語ではお父さんが中学時代に好きだった初恋の女性を助けに行くという設定だったが、それをヒロインが過去に事故で死んだ弟を助けに行くという話にするとどうか?

物語の骨格は同じで行ける。そして、1989年という時代。バブル時代を見つめ直すことができる。あの時代何を間違ったのか? 日本はなぜ、こんなになってしまったのか? を弟の事故にダブらせることができる。もし、こうしていれば? ああしていれば? あのことを理解していれば? きっと今の日本は違っただろうということを家族の物語として描ける。かなりいい話になりそうなので、いい加減な形ではやりたいくない。「ここぞ!」というときに撮りたい。そう思いながらまた月日は流れた...。

昨年の今頃。静岡からの映画制作の話が来た。その町で映画撮影するのにいい企画はないか?ということになる。監督という人種は日頃からいろいろと企画を持っている。僕も暇さえあれば、れこれ考えているのだが、得意の涙と感動の青春もの以外にも、ミステリーものも何本か企画がある。精神病をモチーフにしたかなり危ないもの。女探偵が活躍する本格ものといくつかある。が、やはり美しい緑に囲まれたその町を舞台にするなら、相応しいものにしたい。

よく地方映画では、自分たちの町を誉め称え。観光地や名産品を劇中で紹介するものがある。PR映画か?劇映画か?分からないものがよく作られる。以前にも書いたが、それは自画自賛。他県の人が見ればうんざりするだけ。PR映画ではなく1本の映画として、感動物語を作るからこそ、他県でも、日本中でも、世界ででも観てもらうことが可能になり、その町の美しさが観客の心に残る。それを取り違えて映画を作る町が多い。だから、まず感動物語。そしてその町の美しさが前面に出る設定が大事。

それをふまえた上で、あれこれ考えていて、ロケハンし町の美しさを実感。実は以前にあるきっかけで、この町をロケハンしたことがあり、そのときから素敵なところだと思っていた。さらに町のことをあれこれ知るにつれ、感じるものがある。が、やってはいけないこと。地方映画を撮る監督には「この町のために書いた物語です!」とかいって、地元の名産品にまつわる美談のようなことを、サラサラと数週間でシナリオにする人がいる。が、それは最悪。手抜きの仕事!

町の人には受けるかもしれないが、他県では通用しない。それこそ先に上げたPR映画だ。そうではなく時間をかけて考え抜いたストーリーを骨格にして、その町に合わせて物語を紡ぐことが大事。安易なものを作りたくない。そう考えていたら、先のタイムスリップものが相応しいのではないか?と思えて来た。ロケ地の1つ袋井市は花火大会で有名。クライマックスを花火の夜にしよう。本当に素敵な魅力的な橋も見つけた。タイムスリップするのに橋を渡るのはどうか? 

そんなことから想像が膨らみ、10年前の物語が相応しいと思えて来た。その町を舞台に最初から物語を紡いでみた。花火や橋。古い町並みや伝統あるお寺の数々。それらが背景となり10年前の企画は奥行きのある、素敵な物語として形になって来た。花火大会がなければならないストーリーだと気付く。この町のために、物語が存在したかのような見事な融合。運命とは往々にしてこういうもの。「ここぞ!というときに撮ろう」そう思って大切にしていた企画、どうしようか?とも思ったが、とっておきの物語はこの町を舞台にすることで花開く.....そう感じた。

「ここぞ」というのは今! こうして10年前に考えた物語の「種」が静岡県の町ー袋井、磐田、森町に降り立ち、そこで根を降ろし、地面から町の魅力を吸い上げ、大きな花を開いたのである。これらの町だからこ、その美しさで咲いたのである。それはまるで夜空に上がる花火のようにも思える。こうしてタイトルは「明日にかける橋」となり、翌年に撮影がスタートすることになるのである。



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「明日にかける橋」の物語を思いついたのは11年前のサウナ?① [思い出]


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映画のシナリオ。多くは原作ものである。だが、僕の場合はこれまでの5本全てオリジナル脚本。つまり、原作がなく、僕自身が物語を考えて書いている。なのでよく「監督はどんな風にして物語を作るんですか?」と聞かれる。今回の「明日にかける橋」はどうだったかな?と思い出してみた。

なんと11年前。僕のデビュー作「ストロベリーフィールズ」の名古屋公開のため前日から名古屋入り、翌日は舞台挨拶という夜。交通費&宿泊費は自腹だったので、駅近くのサウナに泊まった。客は皆、疲れた中年男性ばかり。店内には食堂もあり生ビールを飲めるのに、ロビーの自動販売機で安い缶ビールを買って飲む人の方が多い。

この手の店に泊まる客は中小の会社員が多い。出張費が少なく、ホテルに泊まれない。サウナに泊まるが生ビールを飲むのも節約。疲れ果てて缶ビールを握ったまま眠っている人もいる。その光景を呑気に僕は見つめていた。皆、40代以上。妻も子供もいる人たちだ。当時から不況の風は日本中に吹き捲くっていて、皆、疲れ果てるまで家族のために働いているのだ。

しかし、そんなお父さんたちの苦労も知らず、子供たちは毛嫌いし、若い娘は「お父さんの服と一緒に洗濯機に入れないで!」という話や「亭主は粗大ゴミ」という話も当時よくされた。そんな話を思い出し、あー父親って何だろう? そんなお父さんたちを元気つける映画を作れないか?と考えた。思いついたのが40代男性がタイムスリップ。昭和の時代に戻ってしまうという話だった。

これはいい!いつか映画化したいと考えた。が、結局、2作目は書道を題材とした青春映画「青い青い空」となる。その後、311があり原発事故が起こり、そこから「朝日のあたる家」を撮ることになり、なかなかチャンスがなかった....。(つづく)



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