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「監督は優しい人だから、メールすれば多忙でもきっと返事をくれる」と過剰な期待をする一度しか会ったことない人? [my opinion]

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「監督は優しい人だから、メールすればきっと上映時間も教えてくれる」
と過剰な期待をする一度しか会ったことない人?

Facebook友達のトラブルで思い出したが、仕事柄いろんな会に呼ばれる。お世話になっている人たちの会もある。そんな時、業界の先輩なり、別業界の友人が連れて来たカタギの人。そんな人たちとは名刺交換する。後日、メールでお礼をくれたりする。Facebookではないのでお礼を返信する。それが業界関係の人であれば、あまり問題は起きないが、カタギの方の時はトラブルになることがある。

というのはFacebookと同じで、あれこれ質問をしてくる。まあ、先方にとっては映画監督と知り合えた。いろいろ話を聞きたい。女優の裏話を知りたい! それをメールで聞いてくるのだ。Facebook友達は会ったこともない人たち一線を引く。が、この場合は一度お会いしているし、友人や先輩の知り合い、女性であれば彼らの彼女である可能性もある。あまり無茶な対応もできない。

「その後、映画準備は進んでいますか?」

とか聞いてくる。そんなこと関係者でもないのに1人1人に説明してられるか?と思う。それ以前に僕のブログを読め!そのために克明に進展を毎回、記録している。その話も会った時にしている。でも、まだ、そのレベルは理解できる。酷かったのはこれ。先輩が連れて来たカタギの若い女性。超多忙な時にこんなメール。

「明日、監督の映画を見ようと思ってますが、新宿でもやってますか?上映は何時からですか?」

そんなことはネットで調べられるだろ? 映画館でも教えてくれる。こちら猫の手も借りたいほど忙しいのに、そんなことを聞いてくるか? 先輩の彼女かも?と思ったが、そう素直に返事してした。流石にショックだったのか、それ以降メールは来なくなった。あとで聞くと

「監督は優しい人だから、きっと上映時間も教えてくれると思ったのに...酷い...」

と先輩に不満を訴えていたらしい。が、そもそも僕はGoogleではない。質問を書き込めば答えが返ってくるものではない。おまけに上映中はあれこれ関係者への連絡で追われている。自分でできることを、わざわざ聞いてくる神経が分からない。そんなある時、あるPの話を聞いた。

「撮影現場でもそうだけど、あまりに皆に親切にし、愛想良くすると、どうでもいい問題まで頼ってくるですよ。それはお前の仕事だろ?というのを『どうしましょう?』って言ってくる。だから、現場ではなるべく愛想良くしないで、皆と距離を置くようにしてるんですよ」

それは大事かもしれない。僕は「いい人だ」「親切だ」「優しい」と言われることがあるが、それで勘違いして、あれこれ頼ってくる人が出てしまうのかもしれない。以前にも書いたが、「感謝の気持ちを伝えね」ばと撮影後に自宅に挨拶に行ったら、その後、

「最近は挨拶に来ない。失礼だ!」

と言われたことがある。あれは撮影で借りた物があったからお礼に行っただけであり、なんでその後も、挨拶に行かねばならないか?と思うのだが、

「監督は礼儀正しい。だから機会があれば挨拶に来る人だ。なのに最近は来ない!裏切られた。失望した」

ということなのだ。先のPの発想は正しい。これは先日書いた「嫌われることを恐れていはいけない」の話にも近い。先輩が連れて来た人だから、失礼のないようにしようとしたことで、映画館の時間まで問い合わせて来られる。感謝を伝えに行ったことで「裏切られた」と失望される。どちらも最初から距離を置いておけば、彼らも勘違いせず嫌な思いをすることもなかったのだ。

悲しい話だが、映画の仕事は本当に多くの人たちと出会うので、実は大切なことかもしれない。それとも出来る限り人に会うことを避けて生きるか? ウッディ・アレンやデビッド・ボウイの逸話を思い出すとそう思える。

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「誰とでも仲良くしてはいけない」「みんなに好かれるようではダメ」それが最近の僕のテーマ。 [my opinion]

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「誰とでも仲良くしてはいけない」「みんなに好かれるようではダメ」それが最近の僕のテーマ。

子供の頃、よく親が言ってたこと。

「誰とでも仲良くしなさい」

「みんなに好かれるような子供になってほしい」

これは関西でも関東でも、どこの親でもいう台詞ではないだろうか?これらの言葉を否定する人はまずいない。人として大切なことだからだ。

が、それらが間違っていることに気づいた。認識したのは最近、50代になってからだが、実は子供の頃から、それらに逆らうことばかりだったことに気づく。説明していこう。

「仲良くする」はいいことだ。喧嘩ばかりしているより、仲良くすることはいいことのはず。が、考えてほしい。「仲良くする」にはどうするか? 人はそれぞれに価値観が違い、主張がある、方向性もある。生活習慣、趣味、志向、全てが同じ人はいない。

それぞれが違う者同士が仲良くするには、

どうしなければならないか?それは我慢すること。洋食が好きな人が和食が好きな人と「仲良くする」には、好きでなくても和食を一緒に食べることが必要だ。たまにならいい。でも、結婚して妻が和食好きで「朝は味噌汁とご飯」がいいという。夫はトーストとスクランブルエッグ。どうすればいい?

1日起きに和洋変えるか?妻に合わせて、和食にするか? 夫は自民党支持。妻はれいわ新撰組。これも我慢して合わせるのは難しい。たまにならいいが、毎日、何年もとなると葛藤が生まれ、ぶつかってしまう。溝が生まれる。子供の教育はどうか? 健康管理はどうか? 

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「一流大学に行き、一流会社に就職する」

親がそれを期待する。子供にそれを押し付ける。でも、僕は違うと思っていた。だから、親と仲良くできなかった。「映画監督になりたい」というと、友達や教師までが反対。会ったことのない親戚にまで説教された。彼らは自らに正義があるようにいう。僕が新興宗教に入信したいと言っているように感じ止めようとする。

つまり「誰とでも仲良くする」というのは自分の価値観や志向、目標を抑えて、相手に合わせることなのだ。しっかり勉強すれば仲のいい親子になる。友達、教師とも仲良くできる。大学や就職だけではない。それなりの歳になると田舎では、近所の人や親戚がこう言いだす。

「結婚はいつ?」「子供はまだ?」

30を超えて1人でいると、あれこれ噂され、批判される。その人たちと「仲良くする」には、いい歳になったら結婚し、子供を作るという行為をしなければならない。要は自分を殺し、夢を諦め、一般的な価値観で生きなければ「誰とでも仲良く」することができないのだ。地方地方での習慣。業界での慣習。人は無意識にそれらを押し付けてくる。

仲良くするには、我慢し、

従わなければならない。何十年もその街にいる人。その業界にいる人を変えるのは難しい。仲良くするには自分が我慢し、変わるしかない。「誰ともでも仲良くしろ」というのは「長いものに巻かれろ」「郷に入れば郷に従え」ということ。これもまた「村社会ルール」であることが分かる。皆と同じことをしろ。勝手なことをするな。「みんなに好かれる」にはそれに従えということ。

振り返ると僕はそんなことに逆らい続けてきた。映画の仕事をするためではあるが、そうでない人も考えてほしい。時代は変わる。これから大切なことは「誰ともでも仲良くしないこと」「みんなに好かれる必要はないこと」だ。また、その辺を詳しく書く。



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「幸せって何だろう? どこにあるんだろう?」結婚、金持ち、有名になること? 考えてみた。 [my opinion]

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「幸せって何だろう? どこにあるんだろう?」結婚、金持ち、有名になること? 考えてみた。

多くの人は「結婚」を一つの幸せを考える。ま、結婚してみるとそうでもないことを痛感することも多いが、愛する人と共に暮らし、苦しみも喜びも共にし、人生を歩むというのは基本、一つの幸せだだろう。

金持ちになるーというのも幸せだと考える人が多い。生活に不安がない。ほしいものが買える。海外旅行に行ける。大きな家に住める。外車に乗れる。だが、これも1人では幸せと言えないだろう。一緒に喜びを感じるパートナーがいるからこそ、旅行に行っても、美味しいものを食べても、豪華な家に住んでもハッピーなのではないか?

さらに人々が求める幸せー「有名になること」がある。これは心理学でいう「認知欲求」だ。人に認められたい。褒められた。チヤホヤされたい。賞賛されたい。そんな思いを叶えるためには有名になること。事業で成功する。研究でノーベル賞を取る。色々あるが、芸能人になれば手取り早く有名になれる!俳優、タレント、歌手、作家、アナウンサー、映画監督、ミュージシャンとテレビにも出る仕事。

だが、これらの仕事も知られざる現実がある。例えば俳優。売れるまでが大変。売れるとチヤホヤされるが、妬みも凄い。誹謗中傷を受ける。プラバシーが踏みにじられる。街を歩けなくなる。利用しようとする輩が近づいてくる。誰が自分を愛し、誰が利用しようとしているのか?分からなくなる。極度の孤独に悩まされる。

有名になるという代償はとても大きい。先の金持ちも同じだ。以前にお会いした超富豪の社長。何不自由ない生活をし、スーパーカーを何台もお持ちだが、誰も信用できないという。揉み手で近づいてくる人たち。「金貸してほしい」「出資してほしい」「事業を応援してほしい」と笑顔で集まってくる。先の芸能人と同様、誰が敵で誰が味方か?分からなくなる。部下も信用できない。

つまり、どの幸せも、必ず見返りが付いてくる。それを知らない人が「金持ちになりたい」「有名になりたい」というのだろう。そう考えると愛する人と結婚し、子供たちの成長を見守るというのは先の2つとは違い純粋に「幸せ」なのかもしれない。もちろん、相性が合わない。浮気をする。酒癖が悪いということで不仲になり、毎日が地獄になることもある。僕が監督した映画「向日葵の丘」で主人公を演じてくれた常盤貴子さん。こんなセリフがある。

「幸せって何だろう? どこにあるんだろう? その答えを探して私はシナリオライターになりました」

そのセリフ。僕自身の思いを込めて書いた。僕自身がその答えを探して映画監督になった。その答え。今も探し続けている。

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他人をハッピーにすることで幸せになれる?=幸せの形を考えてみた。 [my opinion]

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他人をハッピーにすることで幸せになれる?=幸せの形を考えてみた。

「幸せ」の形。考えている。愛する人と結婚する。金持ちになる。有名になる。いろんな幸せを上げる人がいる。が、最近思うのは、人はわがままで、利己主義で、自己中心的だが、自分が役にたつ。誰かのためになることをした時、嬉しく感じる生き物でもある。

道に迷っている人に声をかける。電車で妊婦さんに席を譲る。被災地に行ってボランティアをする。どれも時間を食うだけで、お金には繋がらない。でも、人はそうやって誰かを助けよう。誰かの手伝いをしようとする。それは何かと言うと「僕の行動が役に立った」「喜んでもらえた」「感謝された」という喜びなのだ。

心理学的に説明すると認知欲求が認められたということ。自分が生きていていい。他人を助けることで自分の存在を感じることができる。意味のある存在であることを確認できるので、嬉しい。というのも現代社会では労働者は歯車であり、多くの人は取り替えの効く存在。怪我をすればクビ。死んでも誰も困らないという人も多い。

「自分なんてどうでもいい存在。何の役にも立たない無意味な存在」と思いたくなる。だからこそ、その意味を求めて被災地にボランティで行ったり、困った人を助けようという思いが出てくる。人は残酷なこともするが、困った人を助けよう。何か役に立ちたいという優しい気持ちもある生き物なのだ。

人の幸せというのは、自分がハッピーになることだけではなく、誰かをハッピーにする。誰かを苦しみから救う。困った人を助ける。そこで感謝されること。喜ばれることで、その人もハッピーになれるのだ。だから思う。人をハッピーにさせることもまた、幸せなのではないか?と。誰かに喜ばれることもまた幸せではないか?と思えてくる。


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与えられたことしかしない子供。与えられたことができない子供たち。夢があるといいながら何もしない若者。夢があるから行動する人たち [my opinion]

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与えられたことしかしない子供。与えられたことができない子供たち。夢があるといいながら何もしない若者。夢があるから行動する人たち

子供の頃から長年感じていた違和感。同年代の友達も同じことを感じていたのだろうか?と思う。高校時代の友人とも少し前に話した。「あの頃はそれなりに楽しかった。特に苦痛ではなかった」と言われた。

僕の場合、特に高校時代は最悪。同級生たちは無意味と思える与えられた課題をこなし、成績に一喜一憂していた。そんなことが将来何のプラスになるというのか? だが、皆は疑問を持つことなく、本当は遊びたいと思いながら勉強していた。僕には人生で最低の3年間だった。なのに友人は「それになり楽しかった」という。

その後、映画学校に通うようになり、親しくなった同級生たち。学校に不満を持ち、皆、途中で辞めてしまった。いずれも将来は映画監督になりたい!と夢見て上京してきた連中。なのに、何もしない。学校にも行かず。アパートで毎日テレビを見て過ごしている。その内に「現実は厳しい...」とか言って1人消え、2人消え、皆、実家に帰ってしまった。

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僕が通った高校は進学校だったので98%が大学に行く。専門学校とか就職という生徒は限りなく少ない。が、そんな専門学校に行った別の学校の後輩に聞いた。彼もまた映画監督を目指して上京し、僕とは違う映画学校に通っていた。

が、そこは「映画の勉強」らしきことをするが、入学するほとんどの生徒は「映画監督になるぞ!」という思いはなく「映画見るの好き〜」「面白そう〜」というレベル。「高卒ですぐ就職するのは嫌だし、2年間遊びたい〜。でも、勉強するのが嫌だから、映画学校なら楽しいかも!」という動機だという。

困ったものだが、当時(今は知らない)はそんな若者は多かった。受験レースから落ちこぼれ、勉強するのはもう嫌、無理に大学行きたいくない。と言ってすぐに就職するのも嫌だという子供たちが結構、存在した。考えると、もしかしたら、映画学校時代の僕の同級生も、その種の若者だったのかもしれない。

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学校で与えられることを真面目にこなす生徒たち。高校時代も、映画学校でもいた。高校時代に落ちこぼれて勉強を拒否した子供たち。無理して大学には行きたくない。遊んでいたい。専門学校に多いタイプ。ある教師に言われた。「お前は映画監督になりたいとかいうが、勉強するのが嫌で、そんな言い訳をしているだけじゃないか?」メチャメチャ腹が立ったが、今、思えば、そんな若者も多かったのだ。

そこから言えること。大学には行かない。でも、自分の夢を掴みたい。逃げではなく、口だけではなく、行動する。そんなタイプは僕の周りには、いなかったのではないか? 映画学校での友人たちは共に夢を追う仲間と思っていたが、そうではなかったのだろう。

が、やがて、同じように夢追う者たちと出会い学生映画を始める。皆、行動するタイプ。そこで僕はようやく自分らしさを発揮するのだが、また、それは別の機会に語らせてもらう。



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皆と仲良くするな。気の合う優秀な仲間と戦え=令和時代を生き抜く秘訣?! [my opinion]

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皆と仲良くするな。気の合う優秀な仲間と戦え
=令和時代を生き抜く秘訣?!

学生時代は毎日、同じクラスメートと顔を合わす。気の合う奴がいればいいが、鬱陶しい奴ばかりというクラスもあった。それが1年続く。担任教師もそう。10代でも大人の生徒は「何言ってんだ!」と思っても従う振りをしてやり過ごす。が、僕は違うと思ったら言い返し、質問をし、問いだした。度量のない教師は感情的になり、権力を振りかざした。

ただ、大学を出て会社員になれば、

そんな経験も生きるだろう。上司は選べない。最悪の同僚でも部署が変わるまで付き合わねばならない。いろんな奴とでも仲良くせねばならない。上辺だけの付き合いで問題を起こさないようにする。僕にはそれができない。卒業してから映画の製作会社で仕事をしてもトラブルがよく起きた。

先輩たちは「トラブルメーカー」と呼んだが違う。その会社の社長やプロデューサーが理不尽なことをする。約束を守らない。だから、抗議し、申し立てたのだ。僕のわがままではない。が、パワハラがまかり通る会社。上から押さえつけようとする。高校時代の教師と同じ。だが、僕は黙らない。実力行使に出る。だから、トラブルとなるのだ。

無駄なことに時間をかける社員たち。

効率の悪い仕事をさせる社長。無意味な手続きに強要する連中。彼らを見ていると、高校時代の同級生を思い出す。「勉強が嫌だ」と言いながら「有名大学に行きたい」「有名企業に入りたい」という。でも、勉強は適当。僕が「映画監督を目指す」というと「甘い!」「無理だ!」と批判。教師も事なかれ主義。その製作会社も同じ。

でも、会社とはそんなもの。そんな社会で働くための訓練が学校なのだろう。嫌な奴とも我慢するして付き合う。バカな担任にでも従う。訓練なのだ。ところが、映画の世界でバカと仕事をするといい作品が作れない。「やる気」のある。思いのある。出来る人たちと組むことで素晴らしい作品が生まれる。バカな社長やプロデューサーがいると足を引っ張られるばかり。

作品への愛がない。楽して儲けたい。

そのくせブランドが好き。大手にへつらう。高校時代の同級生と同じような連中。最初はそんな連中に雇われ、その手の会社に呼ばれて仕事をしていたが、監督をするようになり、環境改善を進めた。嫌な奴とは仕事をしない。バカは呼ばない。役に立たないと分かれば追放。裏でコソコソも許さない。誤魔化しもアウト。

それを実践すると嫌われた。「何様だ!」と言われた。しかし、映画業界。「あの監督はいい奴だ」と言われる人はロクでもない作品しか撮らない。「嫌な奴なんだよ。あの監督」と言われる人はヒットを飛ばしている。皆に好かれる監督はバカな人たちの顔を立て、誤魔化しに目をつぶるが、いい映画を作るためにはバカを相手にしない。それが背景だ。

「映画の世界だからそれで通用するんだよ。一般の会社は違うよ〜」

でも、間も無く一般の会社もそうなる。皆と仲良く出来る人では通用しない。我慢し、バカとも仲良くするからだ。いい仕事はできない。我慢してはいけない。バカの機嫌をとる必要はない。気の合う出来る仲間と仕事をしよう。そして成果を上げよう。それが令和時代の社会の合言葉となるはずだ。



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映画「ジョーカー」に登場する歪んだ人たち。日本にも大勢いるよね? [my opinion]

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映画「ジョーカー」に登場する歪んだ人たち。日本にも大勢いるよね?

映画「ジョーカー」に登場する歪んだ人たち。日本にも大勢いるよね?

この数年、僕が出会った「クソ野郎」と言いたくなる人たち。「ウジ虫」「困ったちゃん」「アホ」などと呼んで来たが、映画製作を邪魔したり、足を引っ張ったり、心ある人たちを踏みつけたりした連中。ドラマなら悪役となる人たちだ。ただ、昔の映画ならその手は権力欲が強く金のためなら人を殺し、踏みつける金持ち、政治家だった。だが、今の時代は多種多様。そんないろんな「クソ野郎」たちが見事に「ジョーカー」では描かれている。

①ブルース・ウェインの父 本来は街を浄化しようし、息子であるブルースに影響を与えた人物だが、この映画では庶民の痛みを理解しない実業家として登場。日本で言えば経団連会長や大企業のトップ。あるいは官邸にいるあの人のイメージ。ただ、これは従来からいる「クソ野郎」タイプ。そして、この人たちだけが悪でないことを映画は描いている。その他を以下で紹介。

②アーサーの上司 ピエロ派遣会社のマネージャー。彼はアーサーを「皆が君は変だというが、僕は君が好きだ」などと煽てて使うが、アーサーが災難に遭っても(子供たちに看板を盗られ壊されても)理解しようとせず、頭ごなしに非難。拳銃の件では会いもせずに電話でクビにする。社員を労働力としか見ず、問題点や職場環境を考えず、社員の苦労を理解しない。日本にも多い、ブラック企業の上司のような存在。この種のバカヤローが社員を苦しめる。


③アーサーの母 精神病による妄想で、ありもしないことを信じて、周りの人たちを巻き込む。本人は病気であり、悪意はない。が、息子がその妄想を信じたためにトラブルになり、人生が壊れて行く。実際、日本でもその種の事件は多い。患者が「私は酷いことをされた」と妄想し発言。周りが振り回され、罪のない人が加害者だと思われ関係者からバッシングを受け、そして反撃。諍いとなる。僕もこの種の人たちに何度も出会った。病気が原因での発言とは誰も思わず、無意味な争いを続ける。


④アーサー 病気の母の言葉を信じたばかり希望を持ち、そして破滅して、暴走して行く。彼自身が被害者なのに、加害者になってしまう。僕の周りにいた人たちも似ている。善良な市民だが、患者の妄想で酷い目に遭った被害者を加害者だと思い込み、批判、攻撃して追い詰め、孤立させ「当然の報い」と考える。妄想に巻き込まれたジョーカーが自分に正義があると感じたように、彼らも間違った正義を振りかざし、罪のない人を踏みつける自らの行動を把握できていない。

いずれのキャラも悪意はなく、自身の行動が誰かを傷つけていることに気づいていない。悪の組織や悪徳政治家だけではない。その種の人たちもまた、多くの人々を苦しめる。むしろ自分たちが被害者だと感じ、正義を振りかざすので始末に悪い。最後のシーンで暴動を起こす市民もまた同じ。もはや被害者ではなく加害者になっていることに気づかない。

そんな部分まで描かれていることで、多くの人が自分を重ね、いろんなことを感じたのだ。まさに日本も同じ。映画「ジョーカー」はそんな現代を映し出した作品である。



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喋りが下手な政治家、評論家、文化人。関西人は耐えられない?! [my opinion]

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喋りが下手な政治家、評論家、文化人。関西人は耐えられない?!

記事を書きながら「オプエド」を見ている。僕はシルバー会員なので、月3本まで過去のアーカイブを見られる。興味あるゲストを探しクリック。テレビ番組では決して報道されない事実や隠された事情も、この番組では発信される。フェイク・ニュースだらけの日本のマスコミではとても貴重な存在なのだ。

が、今回はその話ではない。あるゲストの回を見ていた。面白くない。話している内容は興味深いのだが、話が下手。下手過ぎる。実は僕もこの番組には2度出して頂いたので、それを見た方から

「お前がいうか!」

と叱られそうな気もするが、そのゲストは本当にイライラして途中で見るのをやめた。もちろん、スタジでライトを浴び、カメラを向けられ、制限時間ある中の生放送は超緊張する。司会進行の人もいるし、隣にあの上杉隆さんが座ることもある。緊張しない方がおかしい。でも、だからといって、話がクダクダになってもいい訳ではない。

流暢に喋れなくてもいい。ちょっとした努力で大きく変わる。同じトーンとリズムで喋る。これでは退屈。ときどきトーンやスピード、リズムを変えるだけでも、メリハリがつく。聞く人を惹きつける。が、誰もやらない。進行役にも問題ある人がいる。もし、ゲストが同じトーンでダラダラ喋ったら、うまく誘導し、転調させる質問をする。急に大きな声をあげたり、大げさなリアクションを取るだけも番組の流れが違ってくる。それに気づき盛り上げようとするのは上杉さんであることが多い。

僕は関西出身なので思うが、真面目な話でも、時はジョークを入れたり、シャレを入れて、笑いを取るべきだと考える。なのに、ずっと真面目に一本調子で話すゲストが多い。学校の授業のようで頭に入らない。もう少し言葉に感情を込めるだけでも聴きやすくなる。が、アナウンサーのように感情を配して喋ることが大事と思っているゲストもいるようだ。

「お前はNHKの解説委員か!」

と言いたくなる。そんな中、本日のゲスト・ぜんじろうさんはお笑い芸人ということもあるが、やはり話がうまい。そして世界各国でトークの仕事をしていることもあり、それぞれの国事情を興味深く話してくれる。つまり、話す技術があり、内容も興味深い。そうなると、情報はあるのに話が詰まらない人とか、もっと勉強すべきだと思えてしまう。

セミレギュラーの古賀茂明さんも決して話上手というのではないが、分かりやすく、聴きやすい。政治家でも小泉純一郎はうまい。共産党の志位さんも上手。問題はあるが蓮舫もうまい。まあ、元タレントだからね。その意味で太郎さんも抜群にうまい。それはとても大切なことだ。話上手な人はたいてい人気がある。

書かれた文章を読むような演説しかできない政治家も多い。最後まで聞く気にならない。だが、考えてみよう。俳優の太郎さんやお笑いのおしどりマコさんら「話す技術」のある人たちが「政治」や「社会」を勉強して発信している。なのに、それの専門家である政治家や評論家はなぜ「話す技術」を勉強しないのか? 

ケネディだって、マーティンルーサーキングだって、マルコムXだって海外にも参考になる人はいっぱいいる。今は映像の時代。論文を雑誌に掲載するより多くが知る事になる。その手の仕事をする人。もう少し、しゃべりを勉強すべきではないか? スピーチでせめて1回は笑いを取ってほしい。関西人なので、そんなことを考えてしまう。



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親は子供たちに何を伝えればいいのか?=好きなものを探せ、夢中になれることを見つけろ!それが子供を育てる。 [my opinion]

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親は子供たちに何を伝えればいいのか?
=好きなものを探せ、夢中になれることを見つけろ!それが子供を育てる。

日本の教育がもう機能していないこと。ここまでの記事でお分りいただけたと思う。近々、幾つのか教育改革が行われること関係者から聞いているが、根本的に直さなければ効果は期待できない。そんな時代に大人は何を子供たちに伝えればいいのか? 将来生きていくために何が必要だと教えればいいのか?

小学校の算数や国語は必要だろう。でも、そのあとの教育で学んだもののほとんどは役に立たない。それなら、そのあとの10年間、何か役立つスキルを学ぶとか、身に付けることが大事だと思える。それが何なのか? 具体的には分からない。これをすれば生涯安泰というものはない。ただ、僕が思うのは「好きなこと」を見つけること大事だ。

与えられたことをするだけの教育だと、与えられないと何もできない。だが、好きなことをする。カメラが好きだ。写真を撮るのが好きだ。そうなれば、「どうすればより良い写真が撮れるようになるか?」を考える。

望遠レンズか? シャッター速度か? 焼き具合か? 

そもそも機材か? センスか? 経験か?

それを試す、ダメなら違う方法を考える。そこで「考える」という訓練ができる。学校の授業のように方法を与えられて、それに従い作業する場合は、「考える」が抜ける。むしろ「考えてはいけない」のだ。与えられたこと方法以外ではいけない。そこから独創性も生まれない。

ただ、カメラに夢中になったからと、カメラで食っていけるかどうかは分からない。言えるのは、他の仕事を選んでも、カメラを学び、挑戦する過程でいろんなことを学ぶということ。問題があるとき、トラブルがあった時に、どう解決するか?経験になる。その方法は誰も教えてくれない。そこで考えることこそが身に着く。

カメラでなくても、楽器でも、料理でも、運転でも、機械を作る。野菜を育てる。動物を飼育する。なんでもいい。自分が好きになれること。夢中になれることを探すことが大事。それを親たちは勉強の邪魔になるからと、子供の頃からそんな機会や時間を与えない。我が子の将来を狭めているのと同じ。まず、それに気づくこと。スタートではないか?



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日本人は幸せになったのか? 戦後の選択を間違ったのではないか? =子供たちに何を伝えるべきなのか? [my opinion]

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日本人は幸せになったのか? 戦後の選択を間違ったのではないか?
=子供たちに何を伝えるべきなのか?

日本の教育が国策で経済大国を目指すための「優秀なサラリーマン」育成であったこと何度も書いた。そんな中で親は、大人は子供たちに何を伝えればいいのか? 僕の映画のテーマは毎回それなので、以前からずっと考えている。もちろん、こうすればハッピーと言う道はない。そしてハッピーとは何か? 幸せとは何か?から考えることが大事だと思える。

戦後の教育が目指したもの。「安定した経済と生活」だろう。食うに困らず、毎日仕事ができる。家族が安心して生活できる。それは戦時中の貧しかった日本の反省から来ているだろう。そして大物量作戦で日本を負かしたアメリカへの憧れ。物があると言うこと。つまり、お金があり、何でも買える。洗濯機、冷蔵庫、テレビ、車、マイホーム。そんなものが手に入る生活こそが幸せであると考えた。

戦後は二股の道、分岐点だった。日本人はその内の一つ「物があることが幸せ」を選び、突き進んだ。そのためにもう一方の「あること」を捨ててしまった。「物の幸せ」はバブル時代を頂点して達成された。誰もが全てが手に入る。ローンだったりはするが、車も家も買えた。しかし、何かが足りない。心が満たされないことに日本人は気づく。

何が足りないのか? それは「絆」。戦後の分岐点でその道を選ばなかった。昔の日本は貧しかったが絆があった。家族は同じ部屋で寝起きし、近所付き合いがあり、友達がたくさんいた。でも、裕福になった日本人は二階建ての家を建て、子供部屋を作った。お父さんは夜遅くまで働き、家族との交流がなくなる。

ビデオが普及して、テレビの前に家族が集まることがなくなる。携帯が手に入り、親は子供が誰と話しているのか?分からなくなる。電子レンジがあるので、家族揃わなくても暖かいご飯が食べられる。

豊かさが家族をバラバラにした。でも、日本人は無意識に「絆」を求めた。プリクラ、メール、カラオケ。みんな仲間であることを確認するツールだ。着信したら10分以内に返事。若者たちのそれも絆を確認する行為。そうやって日本人は昔は身近にいくらでもあった絆を探して、電化製品で絆を確認する。

戦後、日本人が選んだ道の結果だ。実は選ばなかった、もう一つの道が大事だったと言うこと。でも、後戻りはできない。物では幸せになれない。そして20年も続く不況はその物質的な幸せさえも奪おうとしている。幸せとは何か? 子供たちに何を伝えるべきか? まず、そこから考えたい。



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「俺には追いかける夢がないんだよ」 =自分を殺して10年勉強して来た若者の悲痛の叫び。あまりにも悲しい...。 [my opinion]

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「俺には追いかける夢がないんだよ」
=自分を殺して10年勉強して来た若者の悲痛の叫び。あまりにも悲しい...。

「夢は掴める! 諦めてはいけない」

と言う記事を書いたら「その夢が見つからないんだよ!」というコメントが若い人から来た。感じるところがある。僕らが若かった頃は「映画監督になりたい」「カメラマンになりたい」「俳優になる」「ロックバンドをやりたい」といろんな夢を持ってはいたが「世の中、甘くない...」とほとんどが諦めた。

でも、世の中が甘くないのではない。本人の認識に問題がある。「甘くない」という人のほとんどが何ら努力をしていない。行動すれば夢は掴めると言う話を書いたのだが、それ以前、夢が見つからないと言うのだ。意外だったが、これも先に書いた記事と関連する。

日本の教育が国策で経済大国を目指すための「優秀なサラリーマン」育成。僕らの時代はまだ、その管理教育が完成していなかったが、次第に完成されて、子供達のロボット化教育は完全なものになった。意見を言わない。持たない。言われたことを疑わない子供達だらけになった。

与えられないと何もできない若者に成長した。家畜と同じ。自分で餌を取る能力が失われ、餌を与えらるのを待つだけ。僕の時代にもこんな友人がいた。映画見るのが好き。高じて毎月、映画雑誌「ロードショー」を買った。テレビ洋画劇場も事前に調べて見る。そんな友人、成績が悪化。親に言われて雑誌の購入を止め、映画も見ないようにした。成績はまた上がった。

親も、教師もそれを喜んだ。が、喜ぶべきことか? 友人は映画が好きと言う趣味を封印。好きーと言う行動を抑えてしまった。コメントをくれた若い人は多分、友人よりも早い段階で「勉強の邪魔になるから」と自分が興味あるものを遠ざけた。

「夢中になったら勉強の邪魔になるから...」

それを一貫させ、夢中になるものと出会わなかった。大学になり時間ができた。でも、やりたいことがない。コンパにバイト、旅行。それだけで4年間が終わる。そんな時、有名ではない映画監督がブログにこう書いてあった。

「夢は掴める! 諦めてはいけない」

きっと彼は、何かしたかったんだ。夢中になれるものが欲しかった。若い人ならきっとそうだ。でも、勉強の邪魔になる!と避けてきた。だから夢がない......。

勉強してきたのは国策に乗せられて「優秀なサラリーマン」になるためだ。でも、そのシステムがもう崩壊しかけている。今、社会が求めるのは「言われたことをする人材」ではなく

「自分で考えて行動する」

人材だ。また、言われたことをするだけでは生き延びることができない。例えれば彼は野球選手になる教育を10年も受けてきて、社会に出ると

「もう、野球は人気ないので選手はいりません」

と言われたようなもの。それに薄々気づいていた彼は、僕の記事を読み感銘を受けた。でも、夢がない......だから

「その夢がないんだよ!」

とコメントしたと言うことなのだ。悲しい話だ。


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日本の教育に欠けるもの=年寄りが「最近の若い奴は文句が多い!」と言うようになれば向上している? [my opinion]

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日本の教育に欠けるもの
=年寄りが「最近の若い奴は文句が多い!」と言うようになれば向上している?

日本は三流後進国になった今でも「優秀なサラリーマン育成教育」を続けている。そんな人材で日本再生は不可能なのだが、育てる側も「考える教育」を受けてこなかった人たちなので無理と言えば無理。ロボットがロボットを作っている状態。

幕末に上級武士が役に立たなことが分かり、下級武士からも人材を募ったことで勝海舟が登場。軍艦奉行になり、最終的には薩摩の西郷隆盛と対決。無血開城に導いたように、今は一流大学を出た人材より、はみ出しもの、オタク、芸術家、とメインストリートから外れた人たちの知恵を借りて再生するしかないと思うのだが、そんな動きもまだない。

あるいはアメリカの教育に学ぶ。ディベート、ペーパー(小論文)という自分の考えを告げる(書く)授業がある。ディベートは議論。2手に分かれて1つのテーマを論じ合う。自分なりの意見を持つことが苦手な日本人。それを人前で言うことがさらに苦手。でも、ディベートではそれを論理的に、説得力も持って相手に伝える。

その能力は実社会でとても大事。だが、それを日本では教育の場で教えない。だから、ネット右翼みたいにイチャモンをつけるだけ、揚げ足を取るだけと言う程度の低い反論しかできない大人が多くなってしまった。

さらにペーパー。小論文。これは自分の意見を文章で主張する。形式があり、まず結論。それを3つの角度から訴えて弁証し、最後に結論つける。僕も留学中に何度も書かされたが、面白かった。いわゆる推理小説のクライマックスで

「なぜ、彼が犯人であるか?」

を探偵が説明するのと同じ構図。論理性が大事。思い込みや感情的、飛躍があってはいけない。アメリカでは日本と同じ詰め込み教育も存在するが、自分の意見を持ち、主張する教育も行われている。ただ、それを導入するだけでも10年後に日本は大きく変わるだろう。ただ、年寄りからは

「最近の若い奴は文句が多い。黙って目上の言うことを聞くべきだ。非常に失礼だ!」

と言う不満は出るだろう。が、それは日本がよくなったと言うこと。何でも黙って受け入れるのではなく、意見を持ち、伝えることはたいせつなことだ。



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ミステリー小説を読むと「考える力」が育つ?!=教育に取り入れることはできないか? [my opinion]

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ミステリー小説を読むと「考える力」が育つ?!
=教育に取り入れることはできないか?

僕の映画のテーマは毎回「子供たちに伝える大切なこと」だ。教育で必要なもの何か考えてみたい。何よりも自分で考えること。鍛える場が必要だ。僕自身がプラスになったことを思い出してみる。尾崎豊の歌ではないが

♫「いろんな意味が分かりかけてるけど、決して学校の授業で教わったことなんかじゃない」

というのがある。B・スプリングスティーンの歌にも同じように

「クラスではなく、1枚のレコードからいろんなことを学んだ」

というのがある。実際、僕もその通りで学校帰りに隠れて行った名画座で観た映画とか、友達から借りて聞いたレコードからいろんなことを学んだ。アメリカの歴史、差別問題、戦争、原発事故、結婚離婚、親子、教育、子育て、いろんな映画がそんなテーマを扱っていた。そこからそれら社会問題を知った。

授業で習った日本史や現代国語はあとあと思い出すこともなかったのも思い出す?知識以外も大事だ。ある鋭い人に言われたことがある。

「監督はいつもユニークな考え方をしますよね。それはどこから来ているのかしら?」

考えたこともなかったが、あれこれ思い起こすと小学生時代から読んでいた推理小説ではないか?と思える。江戸川乱歩、コナン・ドイル、モーリス・ルブラン、アガサ・クリスティ。小説ではないが、「刑事コロンボ」も大好きだった。

その後は、島田荘司、綾辻行人、我孫子武丸らも読み漁った。ミステリーのいいところは論理性である。最後、犯人は悪霊だった!なんてオチはない。偶然もない。ちゃんと論理的に犯人であることが証明される。本来、そんな論理性を鍛えるのが数学の「証明」ではないか?

「これが二等辺三角形であることの証明」

とかいうアレだ。あの授業は意外に好きだったのだが、詰まらないのは公式があること。つまり、連立方程式や因数分解と同じで、決められたものに当てはめて作業するというもの。対してミステリーは提示された状況や証拠を駆使して、誰が犯人であるか?を考える。どちらが面白いか?ということ。

多分、僕があれこれ現実を疑い、追求してしまうのは、ミステリーの影響だと思える。論理の飛躍、思い込みの強さ、個人的な感情、ずさんな計算、そんなことを交えてしまうと真相を突き止めることはできない。

現実も同じで、政府が強行採決したがる法案。素晴らしい理由があるなら、強行採決する必要はない。そうするのは何かバレるとマズイことがあるからだ。これはミステリーの基本。では、どんなマズイことがあるのか? つまり、国民にとっての不利益であり、犯人(政府)にとっての利益があることのはず。それを考えれば裏側が見えてくる。

なんか、そんな風にミステリーを教育に取り入れると「考える力」が育ちはしないか? 国語の授業で森村誠一や松本清張を取り上げるとか? 社会科の勉強にもなるし! そんなことを考えたりしている。

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日本人は意見を言わない? =控えめな国民性?いえいえ、意見を言う教育を受けてないのですよ! [my opinion]

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日本人は意見を言わない?
=控えめな国民性?いえいえ、意見を言う教育を受けてないのですよ!

居酒屋で友人と飲んでいると、隣のテーブルの中年サラリーマンの会話が聞こえてくる。聞いていると「会社の話」「政治の話」「最近の若者の話」がトピックに上がる。注意して聞いていると、まず、事実を話す。会社でどんなことがあった。「上司のバカな行動」***党の***が「迷惑だ」と発言した。「若い連中は本当にダメだ」と嘆く。全て実際に会ったことだ。聞いていると、ほとんどが事実の伝達。聞く方も

「笑っちゃうな」や「そんなものだよ」

と言う非常に安易な感想というより簡単な印象のみ。そして何より「分析」「追求」がない。「なぜ、その上司はそんなバカなことを言うのか?」「なぜ、その政治家は迷惑なんて発言したのか?」「若い連中はなぜダメなのか?」と言う追求、分析がない。聞いていると、もともとその事実に共感、同情して欲しいだけであることが分かる。

「俺はこんなバカな上司と仕事してんだよ〜」

それに共感して欲しい。解決法を求めてはいない。また、相手も「俺も似たようなことあるある。分かるよ〜」とこちらも共感して、心癒されると言う感じ。

これは大学生でも、OLでも基本同じ。もしかしたら日本人の会話って、ほとんどがこの公式なのかもしれない。言えるのは辛い事実、笑える出来事を伝えているだけで、「僕は***だと思う」「私は***が問題。なぜならば」と言う個人の意見が出て来ない。分析も、推測も、想像もない。ここにも日本の教育が反映されている。自分なりの意見を持つ。物事を分析する。推理する。意見を伝える。議論する。そんな授業がないからだ。つまり「考える」と言う訓練がされていない。だから、

「酷い」「笑った」「嬉しい」「ムカつく」

のような単純な感情表現しか出来ない。小学校の頃は作文を書かされる。が、中学、高校はほとんどない。「意見を書く」「言葉で伝える」「スピーチする」と言う練習がない。現代国語の授業では文学の感想文はあったが、先生の意図するものに近いと点数がよく、個性的なものはダメ。アメリカの大学ではペーパーと言う小論文を頻繁に書かされる。大事なのは自分なりの意見。論理性も必要。当たり前のことを書いたら評価されない。

また、日本人は人と違うことを恐れる。

批判を恐れて意見を言わない。支持政党を公言しない。宗教にも触れない。そんな習慣も加わり、意見を言わず、初対面ではニコニコするだけ。あ、まさに外国人の見た日本人像の典型ではないか? 政治家も同じ。国際会議に出ても意見が言えない。それでは世界に通用しない。そう、日本の教育と習慣はそんな人材を育て来たのだ。


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自分が「できること」を見つけられない日本の教育システム? [my opinion]

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自分が「できること」を見つけられない日本の教育システム?

高校卒業後、社会に出て感じたこと。学校の授業で教わったことは全く役に立たなかった。国語、数学、化学、歴史。役に立ったのは勉強せずに見に行った映画であり、隠れて聞いたレコード、好きで読んだ本。授業中に読んだ映画雑誌、受験勉強をせずに書いたイラスト。

英語はアメリカの大学で学んだ。

それは役に立っている。外国人と会話ができる。ハりウッド映画を字幕なしで観れる。なぜ、そんな英語教育を日本はしないのか? 

同級生は大学に行き、反動で遊んで回っていた。バイトとコンパ。旅行。そして就職。そこから仕事を覚え始める。要は高校時代に「与えられることを確実にできる能力」を鍛えられ、大学受験で測られ、その後4年間の猶予があり、優秀なサラリーマンとなる優秀な者を大手企業や国家公務員1種がまず採用していく。そのための教育制度なのだ。

でも、勉強が好きでもない生徒も、その方針に従い、それなりの高校に行き、それなりの大学に行く。「大学くらい出てないと恥ずかしい」というだけの理由。そして、それなりの会社に入る。
それを本人が望むならいいが、決して「与えられたことを確実にする能力」が優れていない人たち。要は優秀でないサラリーマンなのだ。

上司に叱られ、成績を上げられず、

給料も安く。誰でもできる仕事を延々とやる。終われば居酒屋で羽目を外し上司の悪口。それが日本の日常となったのだろう。しかし、もっと別の可能性があったのではないか? 

役に立たない授業を受けている年月に、別の意味あることを学べば? 技術を習得すれば違う未来が開けたのではないか? 昔ながらの形なら見習いで板前になるとか、技術者の助手をするとか? 大量の本を読む。絵を描く。踊りを習う。スポーツをする。それを極める仕事だって存在する。

なぜ、誰もが「能力を測る」ためだけの勉強をせねばならないのか? まるで野球選手養成教育。野球以外はダメ!というのと同じ。サッカーをすれば、バレーボールなら、マラソンなら、力があるという存在もいるはず。同じように、いろんな選択肢があり、いろんな学科があって、自分に向いたものを探せる教育はできないのか? 中学時代の友人はいう。

「太田は高校時代にやりたいことを見つけた。映画を作りたいと思った。羨ましかった。でも、俺は見つからなかった。何かそんなものが見つかれば大学に行かずに、夢中でやったかもしれない。でも、見つからなかった...」

その友人は京大に合格した。まわりは「凄い」と言ったが、本人はそれほどでもなかったようだ。経済大国になるための国策。全ての国民を決めた尺度で測り、優秀な者を選別。総サラリーマン化を推進。戦争時は「男は皆、兵士になる!」と思い込ませた教育と同じ。国の都合で若者が振り回される。

人の幸せとは何か? 

自分が持つ能力を見つけ出し、それを発揮し、誰かの役に立つことでないか? 自分しか出来ない何かを見つけ、真剣になることではないか? それができる環境が日本には備わっていない。戦前も、戦後も、同じなのだ。


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