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明日にかける橋ー編集日記 僕の映画音楽制作方法? [音楽]

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僕の場合。毎回、シナリオを書く段階でテーマミュージックを決める。いろんなサントラ版を聴いてイメージに近いものを選ぶ。そのCDを聴きながら執筆する。「ストロベリーフィールズ」のときは「ブラザーフッド」「朝日のあたる家」は「ミッドナイトクロス」「向日葵の丘」は「ニューシネマ・パラダイス」だ。

以前はそれらのサントラ版をテープにダビング。シーンを指定して、俳優にシナリオを渡すときに、そのカセットテープを聴きながら読んでほしいと頼んでいた。テープにはちゃんと物語順に曲が録音されている。

撮影が終わり粗編集をするときも、曲をタイムラインに貼り付けてみる。と完成型がよりイメージしやすくなる。ノンリニア編集以前の頃はラジカセを編集室に持参。イメージする曲を流しながら編集した。そして本来、音楽というのは編集された映像に合わせて作曲してもらうものだが、僕の場合にはある音楽に合わせて編集。さすがにその曲は著作権があるので使えないので、その曲風の音楽を作ってもらったこともある。

「青い青い空」で高校生たちが書道の練習をするシーン。イメージは「美しき青きドナウ」だった。だから音楽家さんにはそのイメージで作曲してもらった。墨かけ合戦のシーンは「天国と地獄」そうしたら、権利が使えるというので、モノホンを流させてもらった。そんなふうに編集し終わった映像に「さて、どんな曲をつけるか?」ではなく、最初から音楽はイメージしてシナリオを書き、編集をしている。

僕の知る先輩たちの場合は、まず編集。音楽のことは考えない。出来上がる。音楽家に注文「このシーンは芝居で見せたいから音楽は入れないでほしい」「ここは間がもたないから、何か音楽を軽く入れてほしい」「この場面。感動させる芝居が今イチなので、泣ける音楽を入れてほしい」とか頼む。

音楽をドラマの補強としか考えておらず、できれば使うべきでないという発想なのだ。その背景は以前書いたが、それ以外にも音楽を説明的な意味で使う監督は多い。悲しいシーンは悲しい曲。怖いシーンは怖い曲。泣けるシーンは感動的な曲。その発想は間違っていないが、音楽は説明や補強ではない。芝居+撮影x音楽=盛り上がる。足し算ではない掛け算なのだ。

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音楽はもう一人の主役といっていいくらいの存在。ある意味でナレーターだと思える。主人公の気持ちを代弁したり、慰めたり、応援したり。その意味では観客の気持ちでもある。プロレスでいえばリングアナ。その昔、古舘伊知郎さんが新日本プロレスの中継をやっていたように、迫力あるレスラーの戦いだけでなく、あの名調子があるからこそ、盛り上がった。

ある団体のプロレスを生で見たことがあるが、テレビ中継と違い、リングアナの声は場内に流れない。何だか盛り上がらず。いかにリングアナの存在が大きいか? 痛感したこともある。映画音楽もそれに近い。そして音楽というのは理屈ではなく、感情に訴えかける力がある。理屈ではどーしても理解されずらいことでも、音楽なら伝わる。

長くなったので次回詳しく書くが、とにかく映画音楽はBGMと思っている映画人が多い。芝居の後ろで流れるまさにバック・グランウンド・ミュージック。でも、前面に音楽が出てくることもある。その手法を使う日本映画は少ないが、かなり大きな効果を発揮する。

話を戻す。そんなわけで本編集が終わると、そこに既成の曲を貼り付けて音楽家さんに見てもらう。通常は映像を見ながら「はい。このシーンに悲しい曲!」とか指定する。あるいは「お任かせします?」という監督も多い。音楽家が見て必要と思うところに音楽をつけてくれる。ま、音楽に興味のない監督が多いということだろう。

それに対して僕は音楽にうるさい。毎回、音楽家さんを困らせる。音楽が始まるタイミング。終わるタイミング。1秒ずれてもダメ。この場面のこのカットから曲が流れると泣けるが、1秒遅いと泣けないということもあるからだ。本編集が終わればそんな音楽制作がスタートする。

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明日にかける橋ー編集日記 日本の映画人は音楽を重用視しないのはなぜ? [音楽]

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映画にとって音楽はとても大事だ。が、古い映画人は「音楽に頼らず、映像で勝負しなければならない」という人が多い。昔から意味分からなかった。そもそも映画は「総合芸術」と呼ばれ、演劇、カメラ、美術、音楽といろんな芸術の集合体。つまり総合芸術なのだ。にも関わらず、その中から音楽を排除してカメラ=映像で勝負するのが映画だなんていう背景が分からない。

「台詞に頼らず、映像=動きで見せるべき」というのもよく言われる。映画はもともとサイレント。チャップリンやキートンの時代は音がなかった。動きで勝負するしかない。だから、映画は動きで!というのは分かる。が、これも総合芸術で言えば演劇=つまり舞台演劇は台詞で進行する。それを排除して「動きで見せる」というのも少し違う気がする。

もちろん、テレビの2時間ドラマのように安易に台詞で全てを説明するのは問題だが、映画ファンのコメントによく「この監督は台詞は安易に多様し過ぎる」と評論家ぶったものがあるが、台詞もまた映画では大事な要素なのである。いずれも過去の形に囚われて、音楽や台詞を邪道扱いする映画人や映画ファンが多いように思える。

黒澤明監督も「スターウォーズは音楽を使い過ぎ!」とルーカス本人に直接批判したことがある。尊敬する師匠に厳しくいわれて、ルーカスは落ち込んだというが、僕はその「スターウォーズ」を見て「全編に渡って、こんなに音楽を使っていて凄い!」と感動したものだった。そこから考えて行くと、年齢層が高くなるに連れて、新しいものを拒否しがちになるのではないか?と感じる。

フィルムからデジタルに移行しつつあるときも、古い監督たちは「デジタルなんて映画じゃない」「フィルムに拘らねば!」と言っていた。音楽に関しても古い映画人は「音楽に頼ってはいけない」と思うのはサイレント時代からの習慣を守っていたのかもしれない。もうひとつには映画人で音楽に関心ある人が少ないということもあるだろう。

というのも僕は中学時代はビートルズ、高校時代はRストーンズ、その後はBスプリングスティーンと10代からロックを聴き続けて来た。50S、60S。Dボウイ、Jブラウン、プリンス。彼らのコンサートにも行く。CDも毎日聴く(今はiPadに入れているけど)だが、そもそものスタートは映画音楽だった。

自主映画時代からそうだが、8ミリ映画を作っていた大学生でも熱烈な音楽ファンは少なかった。映画はよく見ているが音楽はほとんど聴かない。せいぜい歌謡曲。ライブに行くほど好きなアーティストはいない。映画の世界で働き出してからも同じ。先輩たちにも音楽にうるさい人は非常に少なかった。

あるドラマの監督はこういう「この場面は大事だから、音楽を入れずに見せたい」「このシーンの芝居は今イチだから、後ろで音楽を流してもたせてほしい」音楽は本来、重要ではない。あまり使うべきではないという思いがあるのだ。そう、BGM。バック・グランウンド・ミュージックという扱いなのだ。しかし、音楽は後ろばかりではなく、前面に出ることもある。が、古い映画人にそんな発想はないようだ。

年配の映画人の多くは映画は好きだが、音楽については語らない。ロックでも、ジャズでも、演歌でもいいが、この歌手が好き!という人とお会いしたことがほとんどない。演劇の世界では劇団・新感線の演出家はジューダス・プリーストのファンだし、作家の山川健一さんはRストーンズのファンとしても有名。でも、映画監督で誰々の大ファンというのはあまり聞かない。

そんな背景があるせいか、日本映画(実写です=アニメは音楽に力を入れている)で誰もが知るスタンダードな映画音楽というのがない。アメリカなら「風と共に去りぬ」の「タラのテーマ」「スターウォーズ」「インディジョーンズ」のマーチ「ジョーズ」「ET」「ピンクパンサー」「007」ジェームズボンドのテーマ「カサブランカ」「ある愛の詩」「ゴッドファーザー」愛のテーマと、世代を超えたヒット曲があるが、日本映画はどうだろう?

つまり、古い映画人は音楽に関心がない。そして、映画は音楽の力を借りずに作るべき。という思いが強いということ。若い世代でも音楽に関心のない人が多い。後輩でビートルズが好きなのがいるが、映画関係者と会って音楽の話をすることはあまりないのを思い出す。だが、音楽は重要なのだ。今回の「明日にかける橋」もすでに音楽制作をスタートしている。粗編した映像を音楽家さんに送り、曲を考えてもらっている。

その音楽次第で映画が2倍面白くなったり、半減したりということになる。そんな映画音楽の話。制作の進行に合わせてまた紹介する。


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