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山田洋次監督の映画が大嫌いだった10代。アメリカで見た寅さん映画のこと。 [映画業界物語]

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山田洋次監督の映画が大嫌いだった10代。アメリカで見た寅さん映画のこと。

10代の頃。「男はつらいよ」シリーズが毎年、盆暮れに公開されていた。当時僕は日本映画が大嫌い。「ハリウッド映画こそが本物の映画!」と思っていた。が、いつしか将来は映画の仕事がしたい...と強く思うようになって「趣味だけでなく、いろんな映画を観なければ」と、高校時代に「男はつらいよ」を見に行った。

1978年の正月映画で19作目の「寅次郎頑張れ」(大竹しのぶ、中村雅俊)だったと思うが、異常に場内が盛り上がり観客が大笑いしているのに驚いた。が、いかにもの下町人情劇。当時、ハリウッドは「ガントレット」「私を愛したスパイ」「カプリコン1」が正月映画。その落差を感じた。高校を卒業。真剣に映画監督を目指すべく東京へ。その年に日本アカデミー賞を取ったのが「男は」シリーズの山田洋次監督の「幸福の黄色いハンカチ」だ。

その後、テレビで見たのだが、途中でオチが分かる!(というより、予告編でラストの大量のハンカチが映る!)展開。これが作品賞? と19歳の僕は憤慨した。「将来、監督になっても、山田洋次のような映画だけは絶対に撮らない!」と固く誓ったものだった。それが20歳を超え、いろんな人生を経験して、ふとまた「男はつらいよ」を観ると「意外にいいじゃないか?」と感じた。

それから盆暮れになると、寅さんを見に行くようになる。毎回は見れなかったが、ちゃんと映画館で見た(というか当時はまだレンタルビデオが普及し始めた頃)その後、アメリカ留学。LAで生活して感じたのは「男はつらいよ」に描かれている日本こそが、日本であること。

当時の日本映画はニューヨークを舞台にしたような、おしゃれな青春映画が多く、日本らしくない作品が増えていた。が、LAで見ると(この頃はもうビデオが普及。アメリカでも日本映画をビデオで観れた)恥ずかしいようなものばかり。例えれば地方に行くと、いかにも東京にあるカフェ風の作りだが、どこか垢抜けないセンスのない店があるが、そんな感じ。

あちこちで感じた。ディズニーワールドでも、ニューヨークのメトロポリタン美術館でも。日本は世界に通用する文化や風景がある。なのに、アメリカのモノマネばかり。田舎の人が田舎っぽいのを嫌い、都会の真似をした店やファッションを追いかけるのと同じ。そんな中で山田洋次監督の描く世界こそが日本であること。そこに僕らが生きていることを実感した。

その後、映画監督となり、気づくと田舎を舞台にした家族物語を描いていた。「ストロベリーフィールズ」も「青い青い空」も「朝日のあたる家」も、その後も全て同じ。まさに山田洋次の世界。「絶対に山田監督のような映画は撮らない!」と誓ったのに...。後日談がある。業界の先輩が教えてくれた。

「山田監督が松竹に入った頃は木下恵介監督の全盛期。泣ける家族ドラマが大ヒット。山田洋次は、俺は絶対に木下恵介のような映画は撮らない!と言っていたらしい。が、気づくとまさに木下恵介監督のような家族ドラマばかり作っていたんだと」

とてもよく分かる話だ。ははは。


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