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太田組式シナリオの書き方=俳優さんは頑張ってくれる役とは何か? [映画業界物語]

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太田組式シナリオの書き方=俳優さんは頑張ってくれる役とは何か?

シナリオを書くときは、まずテーマがある。それを伝えるための事件を考え、物語を進行させるためのキャラクターを配置する。登場人物もただ「いい人」「悪い人」「親切な人」「意地悪な人」というだけの設定ではダメ。子供向けアニメーションでも今時、そんな単純なキャラはいない。物語が面白くならない上に、俳優さんも演じがいがない。伊丹十三監督はいう。

「二重構造が大事。表面的にはあることを訴えているのだけど、裏では別のことを企んでいる。表と裏が別。二重構造になっている。そんな芝居は難しいがやりがいがあり、俳優は張り切ってくれる」

さすが元・俳優。俳優の心理を熟知している。言い換えれば、熱血刑事なら誰でも演じられるし、そんな役を演じた俳優は多い。でも、悪徳刑事。表では真面目な刑事を演じているが、裏ではワイロ漬け。ヤクザの悪行を見逃すような感じ。つまり、俳優は刑事を演じるが。その刑事は良い刑事を演じている。本当は悪徳刑事という二重構造。確かに演じがいがある。

他にも長台詞というのがある。

シナリオの見開き2P以上の台詞。覚えるだけでも大変。おまけにただ、喋ればいいというものではない。どこで盛り上げて、どのように着地するか? これは力がなければできない。長年俳優をやっていても、楽々できるものではない。大変だが挑戦しがいがある。あと、感情を爆発させるシーン。泣きわめくシーン。告白シーン(秘めた思いを告げる。人には言えない悲しみを伝える)

それらの場面は物語としても盛り上がるし、俳優もやりがいがある。ただ、それができそうな俳優にお願いしないと、映画自体がそこで盛り下がる可能性がある。危険な賭け。うまく行けば盛り上がるが、失敗すると大変。シナリオを読んだ俳優は当然、それを感じるので物凄いプレッシャーとなる。が、それに挑戦したくなるのも俳優だ。

なので、監督はその俳優が有名か?大手事務所か?ということではなく、

その芝居をこなせる人かどうか?を考える。ただ、楽々こなせるなら張り切ってくれない。逆に失敗されたら大打撃。できそうだが、簡単にはできない俳優を選ぶことが大事。先に俳優が決まっていれば、その人にとって「これは厳しい!」という芝居をどこかに織り込む。

そんな風に俳優陣がやる気になる芝居、場面を入れ込むことは大事。と言ってそれに気を取られると、物語自体がダメになる。一時期の「007」シリーズ。ストーリーよりアクション場面を中心に考えてシナリオにし、後から物語でつないでいるようなものがほとんど。アクションにはハラハラするが、中身がないので人気も下降した。

あと製作費内でできる規模か? 

ロケ地は地元で賄えるか? 3週間で撮影ができるか? そんなことを全て考慮しながらシナリオを書く。単にいい物語を書くというだけではダメ。そこが難しいところ。俳優さんが「これはやりがいある!」と思ってもらえる役、そして芝居を盛り込むこと。とても大事であること。分かってもらえたかな?




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「映画クレヨンしんちゃん 超時空!嵐を呼ぶオラの花嫁」は感動作! [映画感想]

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「映画クレヨンしんちゃん 超時空!嵐を呼ぶオラの花嫁」は感動作!

amazonプライムでは「クレヨンしんちゃん」映画版シリーズを全て見ることができる。嬉しくて毎日1本見ていたのだが、あまりに勿体無くて、最近はここぞ!という時に見るようにした。

昨夜は「クレヨンしんちゃん 超時空!嵐を呼ぶオラの花嫁」毎回、いろんな設定を考えて作ってあるが、今回はしんちゃんが近未来に行って、未来の花嫁と共に、大人になったしんちゃんを救うという物語。近未来の春日部(しんちゃんたちが住む埼玉県の町)は「ブレードランナー」のように高層ビルが立ち並ぶ大都会。でも、周辺は貧民街に取り囲まれている。

隕石の墜落で世界は暗闇に閉ざされ、1日中夜が続く。明るい世界を取り戻そうと大人しんちゃんが動くのだが、町を支配する大企業の社長に見つかり、銅像にされてしまう。それを助けるのが未来の花嫁の5歳のしんちゃん。そして巻き添えで未来に行ってしまった春日部防衛隊の仲間たち。果たして!という物語なのだが、

今回もハラハラドキドキ、笑えた上に、

感動の涙! 

毎回、レベル高いが今回は名作選に入れたい1本。ネタバレになるので、「よし、見よう」という方はこの先を読まないでいただきたいが、

(ネタバレ)



















万策尽きたしんちゃんたちを助けたのは、何と家族と本人たち。そう、近未来なのでしんちゃんの両親も健在。ひろしはハゲて頭がツルツルになっており、みさえはデブデブに太っていたが、すぐにしんちゃんのことを理解する。そして、風間くん。ねねちゃん。ボーちゃん。マサル君らが育ち大人になった彼らもまた、しんちゃんたちを助ける。

ここで素晴らしいのは、大人になり力があるので、子供時代の自分を助けるのではないこと。皆、ダメな大人になっており、社会に潰されて希望を持てずに生きている。そこに登場した子供時代の自分は絶体絶命の危機を前にして努力し続ける。その姿に励まされて応援に行くのだ。この辺のエピソードは本当に泣ける。

そして「明日にかける橋」を思い出す。「明日」は過去の自分や友達が主人公を助けるが、こちらは未来の自分たちが助けてくれる。そして忘れてはいけない「あの子」も大人になっていて、「ここぞ!」という時に助けに来る。それもキャットウーマンのように!

この物語は多分、「バック・トウ・ザ・フューチャー PART2」の冒頭エピソード。マーティが近未来に行き、自分自身に会う話から着想を得たと思える。が、非常に良い出来で、「どうなるんだろう?」「頑張れ、しんちゃん!」と応援せずにいられなくなる。「大人帝国」に次ぐ感動巨編だ。



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監督が俳優を好きになれないと、映画の中の俳優は輝かない? [映画業界物語]

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監督が俳優を好きになれないと、映画の中の俳優は輝かない?

後輩監督。恋多き男性。そんな彼の映画は毎回ヒロインが可愛い若手女優だ。でも、ある映画の主人公はよくなかった。演技力がないのか? とも考えたが違う。理由は別にある。映画界ではこう言われる。

「監督がその俳優を好きになれないと、映画の中の俳優は輝かない」

つまり、その女優を後輩監督は好きになれなかったのだろう。本人に聞くと驚いていた。

「よく分かりましたね! あの子は悪い子じゃないんですが、僕は最終候補のもう一人の方が良かった。でも、あの子は大手事務所の所属だからとPに言われて、仕方なしに選んだんですよ」

目に見えるものではないが、監督の思いは映画に出るのだ。愛とか、恋とか、好み、趣味が作品を盛り上げる。だからヒッチコック映画のヒロインはみんなヒッチさんの趣味。自分のタイプなのだ。皆、輝いているのはそれが理由。だからと言って監督が毎回、主演女優を口説いたり、実生活で付き合ったりということではない。(まあ、ヒッチさんはグレースケリーを口説いて振られてらしいけど!)

その意味で俳優も監督に好かれようと頑張る。そもそも、人気女優というのは魅力的であり、気遣いをする。一度会うと多くの人がファンになる。それでこそ女優。スタッフも「この人のためなら」と頑張る。高倉健さんなんてまさにそれ。でも、俳優にとって好かれることは大事。文句の多い監督でもファンになるくらいでないと、主役は貼れない。

ある先輩監督が物凄く文句の多いベテラン女優と仕事をした。業界でも評判のわがまま。嫌う人の方が多い。女優では珍しいタイプ。でも、先輩はなんとかいいところを探し、好きになろうとした。でないと作品も輝かない。完成後。その作品を見に行ったが、女優はあまり輝いていなかった。先輩に聞いた。

「頑張ったんだけど、本当に好きにはなれなかったんだよ。やっぱ画面に出るんだなあ〜」

その答えには笑った。


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15年前の退屈極まりない映画=その監督と仕事をした話? [映画業界物語]

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15年前の退屈極まりない映画=その監督と仕事をした話?

ある映画会社。娯楽作品が専門だった。そんな中で一番酷いと感じた映画がある。青春もの。キャストは当時人気の若手女優と、実力派の男優。原作は超人気。制作費も億単位。なのに、その映画は本当に退屈で、退屈で、仕方がなかった。共感できない。全てが他人事。笑えない。泣けない。感動できない。問題は監督だろう。脚本も兼ねている。

それから15年後。ある仕事でホンを書いた。監督デビュー前だ。社長が気にらないというので、別の先輩ライターが呼ばれ共同脚本でやることになった。名前を聞き、驚いた。あの退屈映画の監督だった。

かなりな変人か?!と思ったら、礼儀正しい。地味なシャツにGパン。あえて例えるならこだわりのコーヒーショップのマスター。愛想がないがコーヒーにはこだわりがある。物静かで必要がないと喋らない。そんな感じの人だ。作業がスタート。僕の書いた脚本を見てもらう。青春もの。驚いたのは悲しみを共有し、頑張る主人公たちをこう評したこと。

「こんなお涙頂戴シーンでは、観客の共感は得られない!」

一番、観客が感動する場面だと思っていたのに、一刀両断。彼が直しをすることになる。本筋は同じだが、別物になった。まさに15年前に見たあの映画と同じテイスト。お涙頂戴と言われた場面はバッサリ。クライマックスも「何でそっちへ行くの?」という展開。笑えない。感動できない。ハラハラしない。全てを面白くならない方向に進めている。

別の例で説明すると「これから彼女に恋を告白しに行くぞ!」というシーンで、恋人とは関係のない男友達と喧嘩する場面になり、それで盛り上げる感じ?

「そっちじゃないだろ? 彼女に思いを伝えに行けよ!」

と思ってしまう。何より健気に頑張る若者を見たなら、普通は共感して「応援したい!」と思う。だが、彼は

「悪足掻き。そんな奴らは応援したくない...」

と感じるようだ。また、脚本家というのは物語の主人公に愛を感じ、ヒロインなら恋心を持って書き進めのだけど、彼はそれがないようだ。シビアというか、冷酷というか? 思い出すのは15年前の映画。見ていて共感したり、応援したい、と思えなかったこと。

あの映画でも彼は主役の女優にも、相手役の男優にも愛を持ってなかったのではないか? シナリオ上のヒロインにも、他のキャラにも、愛も恋も感じていない。監督が好きになれない俳優に、観客が魅力的に感じることはできない。だから、見ていて退屈した。それが理由だろう。

人の「弱さ」を軽蔑し「ひたむきさ」をバカにしている。それは彼の感性であり価値観。否定すべきものではない。「グロリア」のような乾いたアクションを撮れば合うだろう。が、青春ものには向かない。センスが一般の人とかなり違う。だから、彼が書いたギャグは笑えない。

結局、その作品は製作中止。その後、彼はどこかで1本監督したようだが、その後の消息は分からない。僕は監督デビュー。泣ける映画を5本撮った。思うこと。監督の性格や価値観が映画に出るということ。そして監督が好きになれないと、俳優の魅力は観客には伝わらないということ。映画は目に見えないものを伝える。


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日本人は意見を言わない? =控えめな国民性?いえいえ、意見を言う教育を受けてないのですよ! [my opinion]

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日本人は意見を言わない?
=控えめな国民性?いえいえ、意見を言う教育を受けてないのですよ!

居酒屋で友人と飲んでいると、隣のテーブルの中年サラリーマンの会話が聞こえてくる。聞いていると「会社の話」「政治の話」「最近の若者の話」がトピックに上がる。注意して聞いていると、まず、事実を話す。会社でどんなことがあった。「上司のバカな行動」***党の***が「迷惑だ」と発言した。「若い連中は本当にダメだ」と嘆く。全て実際に会ったことだ。聞いていると、ほとんどが事実の伝達。聞く方も

「笑っちゃうな」や「そんなものだよ」

と言う非常に安易な感想というより簡単な印象のみ。そして何より「分析」「追求」がない。「なぜ、その上司はそんなバカなことを言うのか?」「なぜ、その政治家は迷惑なんて発言したのか?」「若い連中はなぜダメなのか?」と言う追求、分析がない。聞いていると、もともとその事実に共感、同情して欲しいだけであることが分かる。

「俺はこんなバカな上司と仕事してんだよ〜」

それに共感して欲しい。解決法を求めてはいない。また、相手も「俺も似たようなことあるある。分かるよ〜」とこちらも共感して、心癒されると言う感じ。

これは大学生でも、OLでも基本同じ。もしかしたら日本人の会話って、ほとんどがこの公式なのかもしれない。言えるのは辛い事実、笑える出来事を伝えているだけで、「僕は***だと思う」「私は***が問題。なぜならば」と言う個人の意見が出て来ない。分析も、推測も、想像もない。ここにも日本の教育が反映されている。自分なりの意見を持つ。物事を分析する。推理する。意見を伝える。議論する。そんな授業がないからだ。つまり「考える」と言う訓練がされていない。だから、

「酷い」「笑った」「嬉しい」「ムカつく」

のような単純な感情表現しか出来ない。小学校の頃は作文を書かされる。が、中学、高校はほとんどない。「意見を書く」「言葉で伝える」「スピーチする」と言う練習がない。現代国語の授業では文学の感想文はあったが、先生の意図するものに近いと点数がよく、個性的なものはダメ。アメリカの大学ではペーパーと言う小論文を頻繁に書かされる。大事なのは自分なりの意見。論理性も必要。当たり前のことを書いたら評価されない。

また、日本人は人と違うことを恐れる。

批判を恐れて意見を言わない。支持政党を公言しない。宗教にも触れない。そんな習慣も加わり、意見を言わず、初対面ではニコニコするだけ。あ、まさに外国人の見た日本人像の典型ではないか? 政治家も同じ。国際会議に出ても意見が言えない。それでは世界に通用しない。そう、日本の教育と習慣はそんな人材を育て来たのだ。


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自分が「できること」を見つけられない日本の教育システム? [my opinion]

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自分が「できること」を見つけられない日本の教育システム?

高校卒業後、社会に出て感じたこと。学校の授業で教わったことは全く役に立たなかった。国語、数学、化学、歴史。役に立ったのは勉強せずに見に行った映画であり、隠れて聞いたレコード、好きで読んだ本。授業中に読んだ映画雑誌、受験勉強をせずに書いたイラスト。

英語はアメリカの大学で学んだ。

それは役に立っている。外国人と会話ができる。ハりウッド映画を字幕なしで観れる。なぜ、そんな英語教育を日本はしないのか? 

同級生は大学に行き、反動で遊んで回っていた。バイトとコンパ。旅行。そして就職。そこから仕事を覚え始める。要は高校時代に「与えられることを確実にできる能力」を鍛えられ、大学受験で測られ、その後4年間の猶予があり、優秀なサラリーマンとなる優秀な者を大手企業や国家公務員1種がまず採用していく。そのための教育制度なのだ。

でも、勉強が好きでもない生徒も、その方針に従い、それなりの高校に行き、それなりの大学に行く。「大学くらい出てないと恥ずかしい」というだけの理由。そして、それなりの会社に入る。
それを本人が望むならいいが、決して「与えられたことを確実にする能力」が優れていない人たち。要は優秀でないサラリーマンなのだ。

上司に叱られ、成績を上げられず、

給料も安く。誰でもできる仕事を延々とやる。終われば居酒屋で羽目を外し上司の悪口。それが日本の日常となったのだろう。しかし、もっと別の可能性があったのではないか? 

役に立たない授業を受けている年月に、別の意味あることを学べば? 技術を習得すれば違う未来が開けたのではないか? 昔ながらの形なら見習いで板前になるとか、技術者の助手をするとか? 大量の本を読む。絵を描く。踊りを習う。スポーツをする。それを極める仕事だって存在する。

なぜ、誰もが「能力を測る」ためだけの勉強をせねばならないのか? まるで野球選手養成教育。野球以外はダメ!というのと同じ。サッカーをすれば、バレーボールなら、マラソンなら、力があるという存在もいるはず。同じように、いろんな選択肢があり、いろんな学科があって、自分に向いたものを探せる教育はできないのか? 中学時代の友人はいう。

「太田は高校時代にやりたいことを見つけた。映画を作りたいと思った。羨ましかった。でも、俺は見つからなかった。何かそんなものが見つかれば大学に行かずに、夢中でやったかもしれない。でも、見つからなかった...」

その友人は京大に合格した。まわりは「凄い」と言ったが、本人はそれほどでもなかったようだ。経済大国になるための国策。全ての国民を決めた尺度で測り、優秀な者を選別。総サラリーマン化を推進。戦争時は「男は皆、兵士になる!」と思い込ませた教育と同じ。国の都合で若者が振り回される。

人の幸せとは何か? 

自分が持つ能力を見つけ出し、それを発揮し、誰かの役に立つことでないか? 自分しか出来ない何かを見つけ、真剣になることではないか? それができる環境が日本には備わっていない。戦前も、戦後も、同じなのだ。


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町のための故郷映画を、批判し邪魔する人。 =不勉強なオヤジたちが老害になる? [地方映画の力!]

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町のための故郷映画を、批判し邪魔する人。
=不勉強なオヤジたちが老害になる?

地方で映画を作るとこんなことを言う人が必ずいる。大抵は年配以上の親父だ。

「結局、監督は自分が撮りたい映画を撮っているだけだよ。だから、最近できた港公園もロケしない、わが町の名産物の野菜も映画で紹介してくれないんだ。俺たちを利用しているんだよ。協力なんてしない!」

本当に悲しい話だが、作品を作ること。アピールすることに対して不勉強なので出てくる言葉だ。解説しよう。まず、

「監督は自分が撮りたい映画を撮っているだけ!」

では、撮りたくない映画を嫌々撮ることが大事なのか? おかしな話だ。ここに誤解がある。多くの人は本当に好きな仕事ができずにいる。嫌でも生活のため家族のために働く。だから、仕事というのは「好きでないことをする」という思いを持っている。

「好きなことをする」

というと趣味とか、甘えていると考える。だって「仕事は嫌なことをするものだから」という発想。その意味で「監督は好きな映画を撮る」=「自分たちの願いを無視して勝手な映画を作る」という批判なのだ。が、地方映画を作る上で大切なのは、町のアピールになること。それを勝手に街と関係のない「芸術映画」にしたり、「ホラー」にするのはアウト。

だが、僕はそれをしたことはない。映画でも、音楽でも、小説でも、作家が本当に関心があり、これをやりたい!と思う作品を作るときに傑作が生まれる。嫌々作ったものが観客の心を打つことはない。

では、監督である僕が作りたい作品とは何か? 

それが先の「芸術映画」や「ホラー」を地方映画でやるのはいけないが、究極は観客が、笑い、泣き、感動する映画こそが「作りたい映画」だ。そんな感動作になることこそが、観客が喜び、映画館に人が詰めかけ、大ヒットする。そうすれば舞台になったロケ地は注目を浴び、アピールする。それこそが僕が「作りたい映画」だ。

つまり、監督が作りたいものを作ることこそが、レベルの高い、街をアピールする映画になる。「自分が作りたい映画を作りたいだけ」と批判するのは当て外れ。そんなことをいうのは「映画作は嫌々作っても良いものはできない。

野菜を使わないのも、それをクローズアップして「この大根美味しいなあ。**市が最高だなあ」という台詞を入れて欲しいとか、意味のないシーンで野菜が出てくることは避けたいということ。また、タイアップでもないのに、無理やり「***を使え」というのはダメ。いくら市役所のイチ押し公園でも、あまりにダサければ町のイメージダウンだ。それが分からずに「ロケしてほしい」という。町のためにも使ってはいけない。

結局、映画とは何か? 

アピールとは何か? どうすれば街の魅力を伝えられるか?を深く考えず、映画とCMを混同=画面に出せば宣伝になると勘違い。勉強不足が招いた問題なのだ。町のためにプラスになる作品を撮っているのに、「利用している」「身勝手!」と当て外れの批判をする。本当に悲しい。ただ、完成した作品を見ると、その手の人は何も言わなくなる。当て外れな批判だったと分かってくれるのだ。

同じことは別の世界でも言える。国民のためにがんばる若手議員を批判し、国民から搾取するための法律を通そうとする老害議員を応援。騙されていることに気づかない。「集団的自衛権」の意味も知らず、「戦争とは関係ない。批判する奴は馬鹿だ!」という人。「馬鹿はお前だ」と言いたくなる人がよくいる。何事も本質を知るところからスタートするべきなのだ。


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