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ハリウッド映画はなぜ面白いのか?!スケールだけでなく編集が凄い?(上) [映画業界物語]

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ハリウッド映画はなぜ面白いのか?!スケールだけでなく編集が凄い?(上)

僕の高校時代。映画ファンだった頃。アメリカ映画が断然おもしろい。日本映画は金を出して見たいというものがなかった。「何が違うのだろう?」もちろん製作費。ハリウッド映画は膨大な予算でスケールの大きな作品。日本映画はとても敵わない。

が、そればかりではない。あれこれ考えていて分かったこと。編集だ。編集が明らかに違う。日本映画はまるで舞台中継のようだ。スピード感がなく、テンポも悪い。では、なぜ、そうなるのか?勉強した。

その昔、日本映画の撮影は必要なカットだけを撮影した。というのもフィルムは高価だし、撮影したあとは現像せねばならない。フィルム代と現像代の両方の料金がかかる。ハリウッドではリハーサルのときからフィルムをまわすが、日本では本番だけ。

そして必要なカットだけを撮影する。対してハリウッド映画は同じシーンを通しで何度も撮影する。日本映画は裕福ではないので、フィルムを有効に使わねばならない背景があった。そんな訳で当時の日本では映画を撮影するとき、監督は最初に編集を考える。

引き絵=>主人公の寄り=>相手役の顔に切り返し=>2人が話すところを横から撮影

プランを立てて撮影する。無駄な撮影をしない。事前に決めたカットだけを撮影。フィルム代節約ーそれだけが理由。唯一このスタイルのメリットは撮影した素材を順番に繋げば基本的な編集ができてしまうこと。そのためにハリウッドのような動きのあるリズ感がある編集ができなかった。ここにハリウッド映画との大きな違いがある。そのことがさらなる自由をなくしてしまうのだ...。

(つづく)



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映画の宣伝は宣伝部だけの仕事ではない。監督が中心になってこそ情報が広がる。 [映画業界物語]

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映画の宣伝は宣伝部だけの仕事ではない。監督が中心になってこそ情報が広がる。

沖縄戦ー上映準備宣伝ツアーから帰京した翌日にマスコミ試写会。翌日には上映用のBD作成のために、工場へ。昨日はネット関係の作業。でも、休憩で横になると寝てしまう。流石に体力限界。集中力が続かない。

まだ、お礼メールが届いていない方。申し訳ない。応援いただいていることは感謝なのだが、今はまず宣伝の方を優先したい。お礼メールと連絡に1日を費やすのなら、3分の1にして、残りを宣伝や準備にかけたい。

チラシ、ポスターも持てる限り沖縄に持って行ったが、それでは足りない。郵送でも送らなければならない。どこにどのくらい送ればいいのか? 現地で体感できたので、急ぎ準備。ただ、ポスターは巻いて、傷つかないように梱包せねばならない。郵便料も高い。その辺を考えて送り先と枚数を決める。

チラシも同様だ。宣伝費は限られている。増刷はできない。時には宣材を送っても開けもしないで、棚に置いておく人もいた。僕が現地に行ってそれを開いて配ったこともある。地元の方は「忙しい」としか言わず、ほとんど宣伝をしてくれず「公開が楽しみです!」とお客状態の時もあった。

沖縄の皆さんは「多くの人に見てもらおう!」と頑張ってくれるのでありがたい。宣伝は大切だ。が、監督業。宣伝はするがギャラは出ない。とりあえず、沖縄上映会が終わったら、生活費を稼がなければ。1ヶ月働いたから給料1ヶ月分という仕事ではない。それが監督業だ。多くの監督たちは「宣伝は宣伝会社の仕事」というが、監督が中心になり動くことが一番宣伝になる。効果も大きい。本日も作業だ。


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映画監督という仕事は「X men」のプロフェッサーXと同じ? [映画業界物語]

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映画監督という仕事は「X men」のプロフェッサーXと同じ?

「Xmen」の話でいうと、ミュータントが俳優なら、映画監督というのはプロフェッサーXだろう。「スターレック」シリーズのピカード艦長が演じたあの役。ミュータントの能力を探し、伸ばし、守り、それを生かす立場にいる、あの人だ。

そんなプロフェッサーの能力は、目からレーザー光線も出ず、爪が伸びて大木を切り裂いたり、空を飛んだりする者ではない。人の心を見抜き把握するもの。まさに監督業だ。映画監督というと撮影現場で怒鳴っている怖い人というイメージがまだまだ強く(それは黒澤明監督の印象です)演技指導をする仕事を思われがちだが、そうではない。

芝居をしたことのない監督が演技指導できる訳がない。指導ではなく、自分のイメージを伝える仕事。もちろん、それだけではない。他の監督はよく知らないが、僕の場合は演技以前に、その俳優は何を思い、何を考え、何を求めているか? を考え把握することが大事と考える。有名になりたい人なのか? 大金を稼ぎたいのか? 何のために俳優を続けているのか?

できる俳優の多くはそれらが目的ではない。パーソナルな目的があり、本当の自分探しを無意識にしていることが多い。自分とは違う役をすることで自分の存在を確認する。そのことで自分を知る。そんな俳優さんがどんな役を演じることで、その助けになるか? そこがキャスティングで大切な点だ。そこにハマれば素晴らしい芝居を見せてくれる。

それを把握し、見抜くことがプロフェッサーXである監督の仕事。演技の指導ではなく、心を見抜く仕事だと思っている。


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「平成まぜこぜ一座 月夜のからくりハウス」を見て。 [2019]

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「平成まぜこぜ一座 月夜のからくりハウス」を見て。

少し前になるが、あるイベントを見に行った。東ちずるさんがプロデュースする「平成まぜこぜ一座 月夜のからくりハウス」これは何かと言うと、僕が子供頃に祭りの見世物小屋で障害者によるパフォーマンスというのがあった。少し前までは女子プロレスでは小人プロレスというのがあった。が、何だかんだで、それらができなくなってしまった。

それらの令和版というか、下半身のない男性のダンス。盲目の少女の歌。等、体にハンディキャップを抱える人たちのパフォーマンスイベントの記録映画と、そのメンバーによる実演イベントである。最初は子供の頃に見たおどろおどろしい祭りのイメージがあった。あるいは慈善団体による「応援してあげましょう」的な同情イベントかとも考えた。が、違った。障害者のパフォーマンスを見て、同情するとか、応援するとかより、励まされた。涙が溢れた。

並大抵のことであの芸はできない。尋常の努力であのダンスはできない。僕はよく「女優になりたい」という若い子と出会うが、あの障害者たちの芸を見せたい。努力とはこういうこと。人生をかけるとはああいうことなのだ。五体満足な者がちょっと可愛いだけで女優になれると勘違い、大した努力もせずにプライドだけが高くなる。障害者でも健常者でも同じ。人生を賭けた表現に観客は胸打たれるのだ。

もう一つ感じたこと。団体名「平成まぜこぜ一座」というネーミング。足の悪い人も、目の見えない人も、寝たきりの人も、いろんな形で障害を持つ人も、そうでない人もごちゃ混ぜにしてしまおう。そうすれば差別はなくなるという願いを込めた名称であるという。つまり、この日本という国は「障害者を見世物にするのは差別だ」「人権侵害だ」と祭りの見世物小屋も禁止。小人プロレスも無くなった。

結果、障害者が活躍する場をなくしただけ。彼らを人の目の届かないところに隔離したのと同じだ。それって臭いものには蓋をしろ的な発想ではないか? それを推進したのは世論。「可愛そうだ」「酷い」「許せない」その気持ちは分からないでもないが、彼らの活躍の場を奪っただけだと気づかない。その日のステージで踊る車椅子の青年の輝くような笑顔。日頃、邪魔者扱いされているであろう彼が、その瞬間は光輝いている。

精神病についての勉強をしていても、同じことがある。こちらも世間では目を背け蓋をしがち。僕が記事に書くだけで必ず「人権侵害だ」「差別を助長する」と批判がくる。それを恐れ萎縮したマスコミが何も伝えないことで、本当の症状を知らず、未だに「怖い病気」と思われ、それが偏見を助長している。大切なのは知ることで患者や周りの人が救われる。多くが知ることで偏見がなくなるのだ。いろんなことを感じた「月夜のからくりハウス」だった。再演の時はぜひ!



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「ドキュメンタリー沖縄戦」完成披露上映会@沖縄 終了後にデニー知事訪問。 [2019]

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「ドキュメンタリー沖縄戦」完成披露上映会@沖縄 終了後に知事訪問。

2日間で約1000人が鑑賞。絶賛、絶賛、また絶賛の声。その報告を県庁のデニー知事にお届けした。知事からも感謝「これは全国の映画館で公開し多くの人に見て欲しい」との言葉を頂いた。

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来年の終戦75年に合わせての映画館公開。それをスポンサーに提案している。映画館で上映することが多くの人たちに見てもらえる。日本中で上映することが大事。その辺の説明をスポンサー側に続け、来年度の全国公開を進めたい。これで終わりにしてはいけない。
ここからが始まりなのだ。

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ドキュメンタリー沖縄戦ー完成披露上映会@沖縄。お陰さまで満員御礼の連続。 [2019]

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‪ドキュメンタリー沖縄戦ー完成披露上映会@沖縄。お陰さまで満員御礼の連続。

千人の方がご覧になりました。そして「全国の映画館でこの映画を上映し、沖縄戦を伝えて欲しい」との声を数多く頂きました。何とか全国公開ができるように頑張ります。‬

「ドキュメンタリー沖縄戦」予告編=> https://youtu.be/81I-BLROlxY


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『ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶』と太田隆文監督のこと。by Saven Satow [映画感想]

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太田隆文監督『ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶』(2019)のこと。

by Saven Satow


「千島の奧も、沖繩も、
八洲の内の、護りなり、
至らん國に、勳しく、
努めよ我が兄、恙無く」。
『蛍の光』4番

 何度民意を示しながらも、安倍晋三政権は沖縄の思いを踏みにじる。なぜ政権がそのような姿勢を続けるのかと言えば、他の46都道府県の世論が沖縄の抱える問題への関心が低いからだ。いくら沖縄を虐げても、支持率に影響がないと官邸は高をくくっている。

 沖縄県は、46都道府県のほとんどと違い、第二次世界大戦において地上戦を経験している。当事者と非当事者の間では関心や知識に差が概してあるものだ。しかし、他と比べて沖縄県がほぼ全土に亘って激しい地上戦が繰り広げられた理由を認識していて、無関心を装うことはできないだろう。それが十分でないため、沖縄戦の実態を知ろうとする認知欲求がわかず、46都道府県の世論が冷淡な傍観者でいる。

 太田隆文監督『ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶』はこの現状に立ち向かう労作である。2019年12月9日(月)〜10日(火)に完成披露上映会が沖縄県那覇 パレット(県庁前)市民劇場において予定されている。

 太田監督はこれまで5本の物語映画を制作している。『ストロベリーフィールズ』(2006)、『青い青い空』(2010)、『朝日のあたる家』((2013)、『向日葵の丘 1983年夏』(2015)、『明日にかける橋 1989年の想い出』(2018)はすべて商業ベースで、一般の映画館で公開されている。

 主人公はいずれも思春期の少女で、友情や家族愛をテーマにしている。今、ピュアで傷つきやすい青春像を描かせたら、彼の右に出る映画監督はいない。ホラーやSFの要素が入っていたり、ハッピーエンドを迎えなかったりする作品もあるが、あくまで感動ドラマである。その作風は「アメリカの良心」フランク・キャプラーに通じるものがある。

 少女を主人公にした作品と言うと、大林宣彦監督が思い浮かぶ。ただ、大林作品は主人公を盛り立てるように他がキャスティングされている。一方、太田作品は全体のバランスの中で主人公を含め配役が設定されている。そのため、大林監督と比べて、太田監督は群像劇に力を発揮する。少女たちの織り成す人間関係の描写は非常に繊細で、太田作品の主要な魅力の一つである。

 近年の日本映画はすでに話題になった小説や漫画、ドラマを原案・翻案としている作品が多い。これは興行成績が振るわなかったときの言い訳のためである。無名の脚本を採用して当たらなかった場合、その決定者は組織内で責任が追及される。他方、知名度のある原作で失敗した場合、そうした事態は生じない。今の映画界はリスクをとる気概に乏しい。

 ところが、太田作品はすべて監督のオリジナル脚本である。全体を理解した上での撮影・編集なので、意図が不明瞭だったり、整合性が不明だったりするカットがない。また、制作意図が明確だから、俳優やスタッフとの共通理解がうまく形成されやすい。それはショットの構図のよさにも現われている。

 太田作品は大企業が出資することもない地方映画である。予算の制約などの厳しい条件の下で、脚本に惹かれた名優が出演したり、有望な新人が抜擢されていたり、心意気に応じたスタッフが参加したり、市民がボランティア協力してくれたり、監督が一人何役もこなしたりするなどして良質さを確保している。

 特筆すべきは『朝日のあたる家』だろう。これは、3・11を受け、静岡県湖西市を舞台に原発事故に翻弄される家族を描いた作品である。制作自体を反対されたり、映画館がなかなか上映してくれなかったりする困難に直面しながらも、商業ベースの一般公開にこぎつけている。このように太田隆文は気骨のある映画監督である。

 その太田隆文監督の『ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶』は沖縄戦をめぐる新事実の発掘を意図していない。通常のドキュメンタリーは新事実を提示して世間の関心を深めたり、高めたりしようとする。NHKを代表にテレビのドキュメンタリー番組は豊富な予算と人員、技術、時間を活用して新事実を発掘・検証する。他方、ドキュメンタリー映画制作は、概して、そうした資源に恵まれていない。そのため、小さい世界やよく知られた世界の裏側を扱い、それを観客に問う。しかし、沖縄戦に関して人々の間の認知欲求に格差がある。このような現状では、全体像を把握しないまま、新事実を知っても格差は必ずしも是正されず、知識の断片化にとどまりかねない。この映画は沖縄戦を局所的に撮るのではなく、時系列の編集が示すように、全体的に描いている。

 「知られざる悲しみの記憶」は沖縄戦における人の命の軽さである。戦争ドキュメンタリーは概して新事実を重苦しく突きつける。確かに、そうした事実は深刻で、重い。だが、それは人の命が軽く扱われることで起きる。重苦しい編集はそれが伝わりにくい。

 『ドキュメンタリー沖縄戦』は耳を疑うような凄惨な事実を抑制的に語る。インタビューの際、話の合間に関連映像が挿入される。ドキュメンタリー番組と違い、インタビュー・シーンは長々としておらず、その間のナレーションや効果音も禁欲的である。

 茶の間で見るテレビは音声だけで内容が分かるようにするため、新聞や雑誌などの活字媒体に近い。そのため、押しつけがましくなることもある。また、一般のドキュメンタリー映画は深みや重さを出す効果として無言のシーンを多用する。その言語化し得ない映像が重苦しさを観客に与える。しかし、あまりに陰惨な内容をそのように示しても、それはシニシズムにつながりかねない。

 その抑えた口調に重い事実を引き受けて生きざるをえなかった人の悔いや憤り、哀しさなどが入り混じった複雑な思いがにじむ。住民の命を奪ったのはアメリカ軍だけではない。日本兵も行っている。また、戦争は現実検討能力を奪い、認知行動にゆがみをもたらす。沖縄の住民は大切な人であるから守るのではなく、殺すと追いこまれる。体験者の淡々とした話し方が現実にあったことだと強く実感させる。

 そもそも軍部は本土決戦の捨て石として沖縄を軽く扱っている。また、戦前の皇民化教育もそれを用意している。悲惨な出来事は人の命を手段としてそのように軽く扱うことから生じている。それが知られず、内地の人々と共有されていない。そこに「知られざる悲しみの記憶」があり、今の沖縄にも関連する。『ドキュメンタリー沖縄戦』はこの記憶の共有への願いを人々に語りかけている。
〈了〉



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