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今年2019年の出来事ー「ドキュメンタリー沖縄戦」のみで1年終了!それが公開中止。虚しい。 [2019]

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今年2019年の出来事ー「ドキュメンタリー沖縄戦」で1年終了!

1月、「沖縄戦」編集
2月、「沖縄戦」編集
3月、「沖縄戦」編集、完成
4月、過労でダウン
5月、過労でダウン
6月、「明日にかける橋」稚内映画祭上映
7月、過労でダウン
8月、過労でダウン
9月、過労でダウン
10月、沖縄完成披露上映会が決定。宣伝開始
11月、宣伝活動、
12月、沖縄完成披露上映会。

はあ、「沖縄戦」で1年が終わっている....。3年間全力でかかったので春に過労でダウンして、自宅入院状態が何ヶ月も続いた。毎度、医者が「休まないと死ぬよ」いうのだが、そうも行かずと映画が終わると倒れるのだが、3年分の疲労回復には数ヶ月かかる。

ようやく起きられるようになったら、完成披露上映会。何で3月に完成しているのに、9ヶ月もかかるの?っという感じだが、上層部は上映会必要なしとの意向だったが、現場職員の努力で開催できた。が、宣伝活動をしたことのない彼らでは無理。宣伝会社を雇い、僕が中心となり活動した。

映画は評価され、沖縄の方々から「ぜひ、全国で公開して欲しい」との圧倒的な声。デニー知事からも熱い要請。だが、スポンサーはそれを拒絶し、団体内のみで自主上映することを決めた。それでは数百人しか見ることができない。映画館公開をすれば数十万人、その後のテレビ、ケーブル、衛星、ネット、DVD展開も可能なので、数百万人が見ることになる。

それを伝えても映画館公開を拒否し、団体を優先する意味が分からない。何より今回は沖縄の皆さんとの合作というべき作品。なぜ、そこまで沖縄の声を無視するのか?映画スタッフもかなり低い額で全力で頑張った。それは日本中に沖縄戦を伝えたい!という思いがあったから。それもまた無視されている。平和活動をするスポンサーの意図が分からない。「政府への忖度」という関係者もいるが、それが信憑性を持ってしまう。


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映画監督業ってどんな仕事=女優と飲みに行ける羨まれる仕事か? [映画業界物語]

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映画監督業ってどんな仕事=女優と飲みに行ける羨まれる仕事か?

僕の仕事は映画監督。これまでに6本の映画を作った。ある先輩には「1本で撮って消えていくと思ったけど、まだやってんだ?」と言われた。多分、褒めているのだろう。先輩の言うように監督作1本だけで終わる人も多い。昔からの友人はこういう。

「高校時代から監督になるって言ったけど、本当に監督になったよなあ!」

高校くらいまでは人に言わないまでも夢があり、将来は小説家になりたい。バンドをやりたい。漫画家になりたいと夢見る若者がいる。が、ほとんどが夢破れて、サラリーマンになるのが現実。それだけに友人は褒めてくれる。最近はこんな人が多い。

「映画監督は有名な女優さんと飲みに行ったりするんですよね〜羨ましい」

そんな監督もいるが、僕はしないということ何度も書いた。もちろん、打ち上げでは一緒に盛りがる。が、プライベートでは会わない。おまけに僕は捻くれ者なので、有名な人と親しいことやご飯を食べることを自慢する人の気持ちが分からない。むしろ面倒だと思ってしまう。が、羨ましいがれることは多い。

映画監督業は孤独であり、人生の物凄い時間を費やしてプライベートを犠牲にせねばならない仕事。9時5時では済まない。起きてから寝るまで考え続ける。主人公には何をさせるべきか? 物語を通じて描くべきものは何か? どの俳優にお願いするのがいいか? どの街で撮るべきか? 何日も何ヶ月も考え続ける。

また、監督業だけではなく、脚本も、編集も、プロデュサーも、宣伝も担当する。毎回7人分の仕事をする。映画製作は企画から公開まで2−3年。その間、ずっと映画のことを考え続ける。もちろん、そうでない監督もいる。競馬が好きで会議があるのに競馬中継を見ている人。女好きで女優を口説いてばかりいる人。酒が好きで飲み会ばかりしている人。

でも、映画にかける時間が作品のクオリティを決める。他に時間を費やしている監督たちの作品はやはり、そこそこ。対して巨匠たちは人生そのものを映画に捧げているというべき存在。だから名作が撮れる。ただ、そんな生き方をしていると失う者も多い。親の死に目に会えないのは、この世界の常識。今の映画界で監督はまず金持ちになれない。妬みも買う。誹謗中傷も受ける。足を引っ張られる。

来年どうなっているか?分からない。何度も医者から「過労死するから休みなさい」と言われる。「いつ死んでもおかしくない!」と何度も言われた。実際、後輩監督が過労死した。僕に負けないくらい仕事していた。次は僕の番? 映画公開が終わるとダウン。数ヶ月寝たきりとなる。それに見合うだけのギャラはもらえない。そんな現実を知っても「羨ましい」「夢を掴んだ」「女優と飲みに行ける」と思うだろうか?

多分、俳優も、ミュージシャンも、作家も、漫画家も、似たようなものだ。外から見るほとハッピーな仕事ではない。血を吐きながら続けるマラソンのようなもの。しかし、その多くはこう思って頑張っているはず。「自分が演じたドラマ。自分が書いた物語。自分が監督した映画。それで多くの人がハッピーになってくれれば嬉しい。それなら、血を吐くマラソンも悪くない」と。


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他人をハッピーにすることで幸せになれる?=幸せの形を考えてみた。 [my opinion]

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他人をハッピーにすることで幸せになれる?=幸せの形を考えてみた。

「幸せ」の形。考えている。愛する人と結婚する。金持ちになる。有名になる。いろんな幸せを上げる人がいる。が、最近思うのは、人はわがままで、利己主義で、自己中心的だが、自分が役にたつ。誰かのためになることをした時、嬉しく感じる生き物でもある。

道に迷っている人に声をかける。電車で妊婦さんに席を譲る。被災地に行ってボランティアをする。どれも時間を食うだけで、お金には繋がらない。でも、人はそうやって誰かを助けよう。誰かの手伝いをしようとする。それは何かと言うと「僕の行動が役に立った」「喜んでもらえた」「感謝された」という喜びなのだ。

心理学的に説明すると認知欲求が認められたということ。自分が生きていていい。他人を助けることで自分の存在を感じることができる。意味のある存在であることを確認できるので、嬉しい。というのも現代社会では労働者は歯車であり、多くの人は取り替えの効く存在。怪我をすればクビ。死んでも誰も困らないという人も多い。

「自分なんてどうでもいい存在。何の役にも立たない無意味な存在」と思いたくなる。だからこそ、その意味を求めて被災地にボランティで行ったり、困った人を助けようという思いが出てくる。人は残酷なこともするが、困った人を助けよう。何か役に立ちたいという優しい気持ちもある生き物なのだ。

人の幸せというのは、自分がハッピーになることだけではなく、誰かをハッピーにする。誰かを苦しみから救う。困った人を助ける。そこで感謝されること。喜ばれることで、その人もハッピーになれるのだ。だから思う。人をハッピーにさせることもまた、幸せなのではないか?と。誰かに喜ばれることもまた幸せではないか?と思えてくる。


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