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「明日にかける橋 1989年の想い出」 東京完成披露試写会〜舞台挨拶 鈴木杏x越後はる香 [再掲載]





2018年06月05日(火) 澁谷ユーロライブ

鈴木杏x越後はる香=Wみゆき! 

登壇者:鈴木杏、越後はる香、太田隆文監督


尾崎豊さん好きの役者が集まった!?
撮影秘話など、貴重なトーク内容、要チェック!




主人公のみゆき(鈴木杏)は30代のOL。とある田舎町で
暮らしている。弟・健太(田崎伶弥)が交通事故で死んで
から家族は崩壊。母(田中美里)は病気で入院。父
(板尾創路)は会社が倒産、酒に溺れる。みゆきが両親
を支え働く日々。そんな2010年の夏のある日、夢がかなう
という明日橋を渡ったことでなんとタイムスリップ!
弟が死んだ1989年に戻ってしまう。バブル全盛の時代。
そこで出会う若き日の両親と元気な弟と若き日の自分
(越後はる香)。みゆきは、もし、この時代で健太を救う
ことができれば、家族を救うことができるかもしれないと
希望を見出すが、その先には、様々な困難が待ち構えていた。

出演:鈴木杏、板尾創路、田中美里、
越後はる香、藤田朋子、宝田明 ほか

監督・脚本・編集・プロデューサー:太田隆文


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「有名なりたい」という若い人たち。それでは俳優にも、歌手にも、作家にもなれない=何がいけないのか?説明する。 [映画業界物語]

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ここしばらく俳優等、表現の仕事をしたい人。あるいはどんな人がそんな仕事に向いているのか? 等をいろんな角度から書いてきた。それらを読み「私は向いている!」と思った人。「俺は無理だな….」と感じた人。「無理かもしれないけど、俳優になりたい」「作家になりたい。歌手になりたい!」という人。いろいろいるだろう。

そんな人たちに向けて、もう一度書いてみる。基本、表現の仕事=俳優とか、歌手とか、作家、映画監督、他、それらの仕事をしたい人は多い。でも、多くが

「かっこいいから」「有名になりたいから」

ということが動機。その背景を考てみる。人にはいろんな欲がある。「金持ちになりたい」「****の車が欲しい」「モテたい」「おいしいものを食べたい」そんな中で「人に認められたい」という欲求がある。

戦後、日本人は貧しく、食べることにさえ事欠いた時代があった。が、食えるようになり、生活ができるようなったら、それで満足か?というと、今度は「人に認められたい」という思いが出てきた。それはもともと人が持っている欲求。貧しい時代はそれより「食べる」「寝る」が優先されただけだ。それなりに生活できる時代になると、多くの人が感じるようになる。

「褒められたり」「評価されたい」「チヤホヤされたい」

なぜ、それを求めるか? というと、自己証明=アイデンティティの確立ができるからだ。自分の存在が認められる。必要とされることで「自分は生きて行く意味のある存在」と喜びとなる。逆に「俺なんか誰も必要としない」「私なんかいなくていいの」と思うと辛く、苦しい。だが、現代はそんなふうに必要とされたり、賞賛されたりし辛い時代だ。

学校生活では成績がよくないといけない。評価されるのは一部の生徒だけ。そんな彼らよりも、もっと優秀で彼らの行けない一流大学に行く連中がいることを知っているので満足できない。あとは運動会や体育祭で活躍するくらいしか注目されない。

会社員になっても代わりが効く仕事がほとんど。1人の活躍で大きな事業を成し遂げることは少ない。集団の仕事。個人は評価されにくい。特に女性は会社で認められ、褒められることは少ない。日本社会はまだまだ女性に厳しい。主婦になっても褒められることは少ない。夫を懸命に支えても次第に当然のような顔をするようになる。

となると小学校時代に運動会で一等賞になるとか、学力テストで1番になるとか、そんなことでしか評価され、褒められることがない。子供が「ロボットの絵を上手に描けた!」といっても

「あら、上手ね。でも、勉強もしっかりするのよ」

と大人たちに言われてしまう。今の日本。結局、褒められ評価されるのは一流大学に入学したとか、一流企業に就職したということくらい。ま、オリンピックで金メダルというのは評価されるが、それはさらに手の届かない世界なので置いておく。つまり、日常を暮らしていて褒められたり、評価されることが極めて少ない。そのために多くの若者が自己確認=アイデンティティの確認がし辛い。

分かりやすくいうと、「自分なんかいなくてもいい。必要とされていない。ダメな人間だ。何の役にも立たない」というコンプレックスに苛まれ、悩み、苦しむ。生きている実感がない。「私なんか死んで方がいいんだ」という感覚。最近の「エヴァンゲリオン症候群」も近い。喪失感とも言える。勉強もできない。運動もできない。そんな若い人たち。でも、そんな彼ら、彼女らが一気に挽回できるものがある。何か?

芸能人になること。

俳優や歌手や作家。そんなものになれば多くの人に愛され、賞賛され、尊敬され、チヤホヤしてくれる。そう、若い人たちがよくいう「有名になりたい」というのは、そういう状態。だから「芸能人になりたい」となるのだ。アイドルになり、男の子にキャーキャー言われたい。テレビに出られる。コンサートでステージに立つ。そんなことでアイデンティティを確認できて、生きている実感を持てる。芸能人志望の多くは無意識にそれを求めているのである。芸能事務所のマネージャーはいう。

「事務所に入れてほしいという若い子がよく訪ねてくる。何をしたいの?と聞くと、有名になりたいという。歌手だ。俳優だ。タレントだ。いう前に有名になりたいって…..」

その言葉に全てが現れている。しかし、大きな間違いも分かる。その子たちは芝居をしたい。歌を歌いたいではなく、有名になることが目的。そこに現代の病巣を感じる。自己肯定されない社会。学校。家庭。その中でアイデンティティーを確認できない子たち。芸能人になることで、圧倒的な肯定をされたい。近所や学校レベルでない評価を受けたいーそこまで病んでいるということだ。

ただ、そんな子たちは与えらえるだけの教育しか受けておらず、そんな苦しみを癒そうとするときも、同じことを繰り返す。こう考える。事務所に入れば、いろいろしてもらえて、レッスンがあり、売り込みをしてくれて、テレビや映画にすぐ出られる。学校と同じように、与えてくれると考える。

つまり、自分が努力して何かになるのではなく、事務所が全てしてくれると考える。そして「自分なんか大したことない。誰も必要としていない」という寂しさを払拭して、バラ色の日々が掴めると思っているのだ。社会が産み出した自己否定に悩む子たちが、教育によって努力することさえ学んでいないのだろう。

そしてこのシリーズを最初から読んでくれている人はもうお気づきだろう。俳優や歌手。作家やミュージシャン。それらの仕事はそんな動機で、そんな過程でできるものではない。しかし、以前にも書いたようにテレビを見ていて

「この子ブス。私の方がまだ可愛い...」

「この俳優下手だなあ。俺の方がまだ演技力あるよ!」

てな勘違いで「私は出来る!」と思い込んでしまう若い人が多い。が、それで通用するものではない。何度も、何度も書いて来たが、「表現」という仕事はインプットだけではなく、アウトプットが大切。その訓練の繰り返しを何年も何年も続け磨いて実力を付ける。

さらに鋭い感受性が必要。他人の悲しみを自分のこととして受け止めてしまうような、日常生活が送りづらいほどの感性を持つ人が「表現」の仕事に向いている。みんなにキャーキャー言われたい。何でもいいからテレビに出たいということではないのだ。

しかし、そんな動機で芸能事務所に押しかけてもまず、入れてもらえない。万が一、コネで入っても続かない。全てを事務所がやってくれてデビューさせてくれるーなんてことはない。当然、テレビ局だって、多少可愛いだけで何もできない子を番組に出すことも出来ない。優れた技術がある。ずば抜けた表現力があるからこそドラマや歌番組に出演させるのだ。が、その手の若い子たちは

「大手事務所に入れば番組に出るのは簡単!」「一流の講師のレッスンを受ければ、すぐにうまくなる!」

とか、安易に考えている。それも月日が答えを出す。そう簡単にデビューはできず。1年やそこらレッスンをしただけではものにはならない。少しばかり可愛いだけでデビューできる時代でもない。こうして夢多き「有名になりたい」子たちは挫折していく。そしてこういう

「世の中、甘くない。芸能界は厳しい....」

違う。全て事務所がやってくるとか思い込み、自分でも通用すると勘違い。実力を伸ばそうとか、これをやりたい!ということもなく、「有名になりたい!」ということだけでは、最初から無理なことは分かりそうなものだ。

大切なことは「芝居がしたい」「歌が歌いたい」「物語を書きたい」そんな思いだ。「有名になりたい」ではダメ。「CMタレントになりたい」という子もいるが、本来CMは有名な俳優が出るもの。あるいは売り出し中の若手を出すもの。これも「CMタレントになりたい」ではなく、「CMに出て有名になりたい」というのが本当のところだろう。いずれにしても大切なのは何をしたいか?である。それ以前に時代が専門化(?)している。

70年代。山口百恵の時代は歌歌って、ドラマやって、映画に出て、CMに出るということがあった(百恵ちゃんはテレビでは「赤い」シリーズが高視聴率。映画では友和コンビ作品がヒット。歌は毎回ベストテン入り。CMでも活躍した)が、その後、80年代。松田聖子は歌とCMでは活躍したが、ドラマと映画はイマイチだった。

さらに90年代。宮沢りえの時代になると、CMにはたくさん出ていたが、ドラマ、映画、歌では大ヒットが出ていない。同世代の子たちも皆同じ。つまり、歌手は歌手。俳優は俳優というふうに仕事が分業されて来たのだ。歌は下手でも可愛いから!とレコードが売れた時代ではすでにない。

そんな中、歌でも、俳優でも、何でもいいから有名なりたいでは通用しない。もう少しいえば俳優業。演技というのは誰にでもできると思われがちなので、そんなふうに勘違いする若い人がいるのだろう。でも、演技はスポーツと同じ。アイススケートと同じ。技術を磨き、センスも必要。

絶え間ない練習と挑戦。それによってなし得る表現なのだ。ま、野球でも、ボクシングでも、レスリングでも同じだが、熟練された技術なのだ。それを有名になりたい!という動機でスタートすること自体。無理がある。が、絶対に無理か?というとそうでもない。

「有名になりたい!」「女にモテたい!」

という理由でスタートした人たちがいる。が、そのために努力した。練習し、腕を磨いた。若い頃からステージに立ち演奏。自分たちで歌詞を書き、曲を作った。それがビートルズだ。ま、天才たちの話をしても…と思うかもしれないし、ジョン・レノンはバンドのきっかけを「モテたかったから」と言いながら、そうではない理由もあったとは思う。が、動機のひとつだったのではないか?

バカにした奴らを見返してやろう。そんなコンプレックスがエネルギーになったはずだ。実際、ジョンは父親と仲が悪く、母は早くに死んでいる。家庭も貧しかった。日本の矢沢永吉もこういう

「金持ちになりたかったから!」

自伝「成りあがり」を読むと彼も少年時代貧しい生活。不満と怒りの少年時代。それらがバネになっているのだろう。先の子たちと何が違うか? ハングリーさではないか? 

「てめえ。今に見てろよ!」

という気持ち。先の若い子たちは、有名になることで喪失感から逃れようと考えたが、そのための努力を事務所任せにした。ジョンや矢沢は貧しや怒りをエネルギーにして楽器を買い、練習し、ステージに立つ努力をした。時代の差かもしれない。与えられたことをすればいいだけの教育で育った若い人たち。まだ、混濁と喧騒が続いていた時代の彼ら。

でも、時代のせいだけではない。ジョンや矢沢は音楽が好きだった。先の子たちは「有名になりたい」だけが理由だったことが大きいと思える。大事なのは演技がしたい! 歌が歌いたい! 小説が書きたい! という熱い思いだ。もし、本当にそうなら

「バイトあるんで、オーディションには行けません....」

と絶対に言わない。「時間がないのでまだ小説は書いてないんだ。余裕ができたら書きたい物語があるんだけど」とか言わない。歌いたいなら毎日カラオケルームに行く。「まだ、本気だしてないですから...」なんて言い訳はしない。

本当に自分が好きなことを、寝る時間も惜しんで続けてしまうことだから、上達する、うまくなる。磨かれる。それをまず考えてほしい。「有名になりたい」という思いもあり。エネルギーになる。でも、次に

「だったら本当に芝居が好きか?」

と考える。そしてすでに実践しているか? まだ何もせずに「俳優になりたい...」と言っているのなら、それは憧れでしかないのかもしれない。考えてみてほしい。いや、自分はダメかもしれない.....でも、俳優になりたい!という人もいるだろう。次回はそんな人たちへの助言をさせてもらう。

(つづく)

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「明日にかける橋」パンフレットが他の映画と違う理由? [映画宣伝入門]

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「明日にかける橋」パンフレットが他の映画と違う理由?

地方ではときどきチラシのことをパンフレットと呼ぶ人がいる。が、チラシは1枚ペラの広告の紙。パンフレットは何ページもある。文章や写真の載った有料のあれである。なぜ、そういうのか?わからない。地方によるのか? でも、正解はチラシはチラシ。パンフレット(あるいはプログラム)はパンフレットである。

さて、「明日にかける橋」パンフレットは非常に評判がいい。これは嬉しい。いつもパンフは僕が企画する。どんなページが必要か? どんな写真を載せるか? 全て決めた上でライターさんを呼んでページ割をして、デザイナーさんに写真と文章の配置、大きさを決めてもらう。毎回、同じお2人。センスも趣味もいい、できる方々なのだ。いつも素敵なパンフができる。

パンフの基本内容はこうだ。「解説」「あらすじ」「俳優インタビュー」「ロケ地マップ」「撮影エピソード」「スチール写真」「撮影風景」「監督からのメッセージ」今回は特に「時代背景解説」1989年が舞台なので、当時何があったか?を説明。

というのも、最近の映画のパンフレット。本当に中身がない。スチール写真を何ページも載せて、映画評論家にどっちでもいい批評かかせて、あらすじと解説だけ。みたいな。これ完全に手抜き。スチールが多いと簡単なのだ。それも雑誌やネットで見たような写真ばかり。俳優や監督のインタビューもなし。単なる薄っぺらい写真集。その割に高い。

パンフを作るのは配給会社。そこが手抜きしている。そもそも、作品に対する愛情がない。楽して、はい。出来上がりー次の映画ー。って感じ。だから、もう30年以上。僕は映画館でパンフを買わない。超感動した映画で背景を知りたいときだけ。30年で10冊買ってないだろう。買う価値ないから。映画雑誌読んだ方がまだ俳優のインタビューとか読めるし。

だから、太田組作品はそうしない。まず、メインキャストのインタビュー。毎回、全員載せる。今回は鈴木杏さん。板尾創路さん。田中美里さん。越後はる香さん。藤田朋子さん。宝田明さん。5人全員のインタビュー。それも見開き2P。やはり、観客は俳優がどんな思いで演じたか?撮影現場はどうだったか? 知りたいはずだ。でも、インタビューは大変だ。それぞれに俳優が都合のいい日に都合のいい場所にライターさんに行ってもらい、取材。その音声を書き出し、それを構成。もの凄く手間がかかる。

時間もかかる。何日もかかる。当然、ライターさんにはそれなりのギャラを払わなければならない。だから、配給会社は面倒だし、費用がかかるのでメイン全員インタビューなんてしない。でも、これは手抜きでしょう? 観客に対する裏切り。スチール載せるなんて簡単だから。でも、太田組はやる。また、そのライターさんがすごい人で、かならず事前に撮影現場に来てくれる。現場の空気を把握する。その俳優の撮影も見る。その上でインタビュー。

これが現場を知らないライターがありきたりな質問で「今回の撮影はどうでしたか?」「はあ、そうですか。大変でしたね〜」というのと、現場を知っている。撮影を見ていた。そのときに挨拶も受けた人がインタビューに来るのと俳優の気持ちも違う。「この人は真剣だ。ちゃんと現場も見ている。いい加減なことはいえない」と熱く語ってくれる。それが現場も知らない。映画についてもよく分かってないライターが来たら、差し障りのないことしか話さない。

だから、太田組作品のパンフ。インタビューが他とは違い、俳優がかなり踏み込んで語ってくれている。観客が知りたい話をしてくれる。でも、そのためにかなりな労力と、時間と、費用がかかっている。ライターさんの情熱と努力にはいつも頭が下がるが、毎回、そこまでやってくれる。だから、他の違うものができる。(なのにギャラいつも安くてすみません)

原稿についても、全て僕も確認する。勘違いはないか? 事実誤認はないか? 名前は間違っていないか? そしてスチール写真もスナップも徹底して選ぶ。もちろん、全て俳優の事務所から承認を得たもの。その中からいかに現場や物語を伝えるか?を考える。完成までには何ヶ月もかかる。1冊の雑誌を作るのと同じだけの労力をかけている。そして監督自身がここまで関わるパンフレットも他にないだろう。なぜ、そこまでやる? 

映画というのは形のないもの。DVDにはなるが(ならないこともある)それでもプレイヤーを通さないと画像は見れない。何か形のあるものを映画を観てくれた人たちだけでなく、関係者、俳優、スタッフ、そして地元の方々の手に残るものを作りたい。それがパンフレットだ。

言い換えれば思い出のアルバム。学生時代の卒業アルバムなのだ。だから、手抜きできないし、思い出を詰め込みたい。関係者は一生捨てないで取っておいてくれる。「青い青い空」のときのパンフも未だに大切にしてくれている人もいる。もう、10年だ。だから、想い出を残せる素敵なパンフレットにせねばならない。

また、パンフレットは劇場でしか買えない。あとでAmazonで注文できない。古本屋を探せばどこかにあるかもしれないが、それも大変。だから貴重。そんな「明日にかける橋」パンフレット。上映中の映画館で発売中なのでぜひ、お買い求め頂きたい。この売り上げも実行委員会は、今後の宣伝費にまわすとのこと。映画を全国に発信する意味でも買って頂けるとありがたい!


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「妖怪と人間は仲良くしてはいけない」という鬼太郎の言葉に共感 [10月ー2018]

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 Facebookを見ていると、ちょうど数年前に自分が書いた記事が出てくる。本日は3年前の記事が出てきた。それを読むと僕はめっちゃ怒っている。再録してみよう。

 *************************

基本的にこのFBは僕の映画を応援してくれる人たちへの進展報告。或いは、その映画を知らない人たちに「見たいなあ!」と思ってもらうための告知活動と考える。

だが、「友達」承認をすると、「野菜が足りませんよ!」「そんな薬は飲んでは駄目!」とか、プライベートについてコメントしてくる人がいる。また、記事の意図とは違う勘違いな批判をしたり、上から目線で「分かってないなあ〜」「考え過ぎなんじゃないのぉ〜」という無神経な書き込みもある。

アドバイスのつもりなのだろうが、ほぼ全てが当て外れ。会った事もなく、経歴も知らない人たちからの説教は必要としていない。そしてFacebook上の議論をするつもりはない。その種の無神経なコメント、批判は警告なしに削除。これまでは我慢していたが、酷いものは「友達」からも削除させておらう。

その種の説教は身近な方々にして上げてほしい。ここでは「Facebook友達」であることをご理解の上でコメントしてほしい。すでに「お友達」になっている方は良識ある方が多く感謝しているが、新たにお友達になる方。了解の上でお読み頂けるとありがたい。(2015年10月)


*****************************

 あれから三年かあ。この頃は本当に大変だった。毎日のようにあれこれ説教コメント。健康について、言葉使いについて、考え方について。上から目線で、それじゃダメだ。反省した方が、注意しなさい。

「お前は俺の何だーーー!」

と怒鳴りたくなるコメントの連続。もちろん、会ったこともない人。プロフィール写真さえ動物の写真。生年月日も記していない。住居もどこか不明。そんな奴にあれこれ言われたくない。頭に来てブロックまでした。本人は親切のつもりなのだが....。そうしたら、また別の人が

「そんなに狭い心では、一流監督にはなれませんよ」

とコメント。その人の基本データを見る。映画界とは無関係。普通の主婦だった。「あんたに映画監督の何が分かるのぉ!!」でまたブロック。そんなことが多発。それから三年。最近はその手がなくなり、本当に感謝。しかし、その構図は今も変わっていない気がする。

 三年前に書いたことは、マナーの悪い人がいて迷惑したという話ではない。映画監督がFacebookやってる「おもしろそー」と近寄ってきた。ら、当時の僕は垣根を作らず、誰とでも普通に接した。相手は思う。

「監督って怖い人かと思ったけど、いい人じゃない?」

親しみを持つ。毎日の記事を読んでいると、意外にしっかりしておらず、心配になる。何か無茶なことを記事に書いたりする。大丈夫かな? 気づいていないんじゃないかな? 健康にも無頓着だし、一言注意して上げよう。とコメントする。まったく悪意はなく、善意だけでの助言である。僕も大きなお世話とは思うが、最初は怒らずに感謝する。「じゃあ、これからも応援して上げよう」とその人たちは思い、助言コメントを繰り返す。その人たちは近所のおばちゃんのように、あれこれ言いたくなる。いろんなことを言い出す。

細かなことまで注意。自分の知らない映画の世界のことまで、あれこれ指示するようになる。僕の方はいい加減うんざり。あれこれ言われるのが一番嫌い。まして、その人たちが映画の世界の人間ではないことは分かっている。明らかに何も知らない。にも関わらず、間違ったことも言ってくる。押し付ける。プライベートまで口を挟む。食べ物。言葉使い。考え方。上に書いた通りだ。

多少でも頷けるところがあればいいが、全く当て外れ。想像でものをいう。最初は返事をしていたが、数が増えて行く。そのために毎日数時間。僕は爆発し、その人をブロック。あるいは「友達」から削除。特にシナリオを書いているとき、編集中は普通の状態ではない。そんなときにあれこれ言われると、いや、注意でなくても、連絡してくる自体が許せない状態だ。ただ、異常心理状態であることは、その人たちにはわからない。こうして僕は

「コメントはいりません」「交流が目的ではありません」

と繰り返し告知することとなる。多くの人はそれを理解。あれこれ言わずに記事を読んでくれるようになった。「偉そうによう〜」と思われ「友達」が減るかと思ったが、もの凄く増えている。要は

「映画監督。おもしろそうだな。コメントしてみよう!」

というタイプや、先にも書いた「この監督さん。頼りないわね〜。気づいてないこと多いから注意して上げよう」という親切タイプだったのだ。でも、その人は正しいことを言っているつもりでコメントしても、映画界の価値観からすると、間違っている場合。

また、世代によって違う価値感もある。コメントする側は悪い人ではないが、長年生きてきた人生を省みても「これは正しい」ということを書き込んでいる。でも、こちらから見ると間違ったことを押し付けてくるばかり。まして、会ったこともなく、プロフィール写真は動物。覆面をかぶった人に説教されているようなもの。素直に聞けるわけがない。不気味でさえある。で、「てめー俺の何なんだ!」となり「友達削除」。

最近はFacebookでそんな手の事件はほとんどない。あ、最近も一度あったが、かなり減った。が、これはネット上だけのことではない。現実社会でも同じなのだ。撮影時、舞台挨拶時に1、2度会った方からメールをもらう。電話をもらう。手紙を頂く。

「***会に参加してください」「****に賛同してください」「寄付をお願いします」「芝居を見に来てください」「シナリオを読んでください」

彼ら彼女らとはFacebook友達と違い面識はある。相手の住居も分かる(名刺をもらうので)といって、上記のような連絡。たくさん来るので、1つ1つにお返事できない。でなくても、いつも仕事で忙殺。やるべきこともやれない日々。過労で倒れて、何週間も寝込む。そんな事情は僕のFacebookやブログを読んでもらえば分かる。にも関わらず、時間やお金を使うことを平気で要求してくる。こちらの事情を知ることができるのに、あるいは知ろうとせずに、あれこれ要求してくるのはどうか? でも、それらの多くはお構いなしに頼みごとをしてくる。でも、手紙を出しても返事なし。電話をしても留守電。メールも反応なし。

「失礼な人だ。馬鹿にしている!」「駄目なら駄目で返事をするべきだ!」

と思うだろう。それは正しい。しかし、その前にこちらの事情を知り、考えてほしい。それをせずに、

「あんな素敵な映画を作った人だから、いい人だと思ったのに裏切られた! 返事もない。無視された」

と思う。あるいは

「撮影であれこれ、お手伝いしたのに、一度の現場で挨拶されただけだ。せめてお歳暮とか、礼状くらい出すべきだ」

と考える人もいる。結果、

「私は利用されたんだ・・・」

こうして恨まれることになり「え? なんで、この人。撮影時にお世話になったよな」という人が僕の悪口を言っていたりする。映画製作では多くの人にお世話になる。が、その1人1人全員に僕個人はお礼はできない。それを真剣にやると、膨大な時間と費用が必要だ。

監督業はそれより、撮影を終えたら早くより良い作品にするために編集作業に入ることが重要。編集を止めてお礼状を書いたり、お歳暮を贈ったりするのは違う。それ以前にお世話になったところは、製作担当が挨拶に行く。だが、こんな人もいる。

「それでは十分ではない。監督や俳優もお礼にくるべきだ」

これって、ホンダの車を買ったときにディーラーの担当者が「ありがとうございました」というだけでは不足。ホンダの社長が来ておお礼をいうべきだ。というのに等しい。

また、会って挨拶するだけで十分という人もいれば、家まで訪ねてきて礼をいうべきという人もいる。その上で、ハガキで礼状を出すべきという人もいる。撮影終了の1ヶ月後に訪ねて。感謝を伝えるのが大切という人もいる。年齢、地域、業種によって、いろんな形がある。だから、ある人は「十分です」といい、ある人は「感謝が足りない!」という。こうして、自分の思う形の礼がなかった場合に

「失礼だ!」「見損なった!」「裏切られた!」「踏みつけられた!」

と怒り出す人たちもいる。映画製作なのに、自分たちの業界の慣例を持ち込み批判したり。近所付き合いと同様の対応を求めたりする。でも、そうは行かないことが多い。例えば、連絡をもらったら返事する。お誘いを受けて行けなければ断る。というのは常識だ。が、芸能界や映画界。俳優やタレント。そして映画監督もそうだが、そんな連絡が山ほどくる。対応できない。やることは山済み。それよりも、よりよい映画を完成させることが、応援、協力してくれた人への感謝。なのだが「返事をしないのは失礼だ」と怒り出したりする人がいる訳だ。

この構図と先のFacebook事件は非常に似ている。そもそも、映画の世界と、一般社会のルールや価値観。慣習はかけ離れている。国が違うほど違う。国と国との交渉で揉めるように、あるいは海外へ行くと日本人が戸惑うように映画界と一般社会は別。かならず摩擦や軋轢が生まれる。国が違うならそのことを皆、理解するが、同じ日本人同士。日本という国なので、それに気づかず。自分たちの価値観を押し付けてしまうのだ。どちらが正しいではない。一般社会と映画界は違うのだ。

そんなとき。「ゲゲゲの鬼太郎」というアニメを見ていて気になるセリフがあった。鬼太郎ー妖怪ですーがこういう

「妖怪と人間は仲良くしてはいけないんだよ」

妖怪は特別な力を持っている。時には人間を助けたりするが、決して仲良くできない。必ずもめてしまう。だから、距離を置くべきなんだという鬼太郎の言葉だ。

映画人って、妖怪に近いのかもしれない。いや、映画人でも技術スタッフなら一般的な付き合い方ができるだろう。俳優とか芸能人。そして映画監督とか作家が妖怪とイーコールなのだろう。

それはそうかもしれない。僕はすでに俳優やスタッフとは一線を引いている。仕事以外では会わない。馴れ合いになり、互いに甘えないためだ。これはかなり前から実践している。が、一般の人には、特に距離は置かないで来た。

それこそ一度、感謝を伝えて終わりではなく、機会あれば、街の近くに行けばご挨拶に伺う。が、それもいけないことだったのかもしれない。A市に行くと近所のB市の人に

「なぜ、こちらには来てくれない....」

と恨まれる。B市に行くと「C市もお礼に行くべきだ」行けないというと「感謝が足りないなあ」と言われる。お礼に行くことでトラブルが起こるのだ。前にも書いたが、デビッド・ボウイやウッディ・アレンというアーティストは人嫌いと言われ、インタビューもなかなか受けない。

それは人と関わることで、いろんな軋轢が生まれてしまうのを避けているのかもしれない。もちろん、有名人や芸能人ならそうだが、僕のようなしがない映画監督でも同じなのかも...。

「無名の監督でやんす〜」

と思っていても、向こうから見ると「おー映画監督。有名俳優と仕事してるんだ〜」と興味を持ってくれる。有名女優の裏話を聞かれる。多くがワイドショーのノリで、プライベートにどんどん踏み込む。そんな風にFacebookでも、現実の世界でもトラブルが起こる。興味を持つ人たちは罪がない。が、その人たちの要求に応えていると、こちらも大変。鬼太郎の言うことが正しいのかもしれない...。

矢沢永吉は芸能界での交流は少ないと言われている。家族と、バンド、会社、それだけ。歌手仲間と交流したり。そんな話はほとんど聞かない。ある人はいう

「あれだけ有名で、金持ちなのに、彼は孤独。友達呼んで飲みに行ったりとかしないと聞くよ」

そうかもしれない。あるベストセラー作家も、こういう。

「友達とは数年に1回しか会わない。何度もあっていると嫌いになるから、大切な友人とはなるべく会わない」

ま、アーティストがわがままというのもあるだろう。が、一般の人には理解されない部分が多い。結局、トラブルになる。悲しい思いをする。相手も自分も傷つく。何だか、そういうことなのかもしれない。僕のような無名監督レベルでも、そうなのだから、国民的アーティストとか、有名俳優とかになると、すごいことになるんだろう。若い子はいう。

「有名になりたい!」

が、有名ということがいかに大変で、孤独なものか?想像できないのだろう。1人でコンビニにも行けない。変装せずに街も歩けない(高倉健さんなど、変装してもバレるだろう)、自分を利用しようと、もみ手でやってくる人ばかり。誰が信頼できるか? わからない。昔の友達も信頼できない。あーそういえば、友人で大ブレイクした奴がいて、しばらく変だった。「もう誰が味方で敵か?わからない」といっていた。

それが有名になるということ。その代償。まあ、僕なんか全然そこまで行かないので平気で街を歩ける。とはいえ、ロケ地を歩くと、すぐに「監督!」と声をかけられるので、本屋でエロ本の立ち読みもできないことがあったが、ま、その程度。でも、

「あの監督。あんな素敵な映画を作るから、人としても、素晴らしいはず!」

とか勘違いされて「頼みごとは絶対に断らないよ〜優しい人だから!」と思い込まれていたのに、断ると

「裏切れた〜酷い....あんな冷たい人とは思わなかった....」

と言われたことになる。誰も悪くないのに、好意や感謝からスタートしているのにトラブルになり。傷つけ合う。相手を怒らせてしまう。やはり、僕らは妖怪に近いのだろう。映画作りを続けていくということは、まわりとは距離を置き、孤独に耐える.....ということが大切なのかもしれない...。

映画監督や俳優を目指す若いみなさん。これが「有名になりたい」と、あなたたちが思う職業の現実。それでもがんばる!という人。がんばってほしい。



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「明日にかける橋 1989年の思い出」予告編ー市民俳優編 [動画]



「明日にかける橋 1989年の思い出」予告編ー市民俳優編





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