SSブログ

それでも俳優になりたい!という人たちへ。表現の仕事を目指すことの意味?=腐ったはらわたを掲げて拍手される仕事? [映画業界物語]

43172433_2198164496924509_3540851079832928256_n.jpg

それでも俳優になりたい!という人たちへ。表現の仕事を目指すことの意味?=腐ったはらわたを掲げて拍手される仕事?

いろんな角度からいろんな視点で「表現の仕事」=俳優や歌手、作家や映画監督等になるための話を書いてきた。「鋭い感受性」「長期に渡る練習」「打たれ強さ」「有名になりたいーだけではダメ」

でも、鋭すぎる感受性があると日常生活が送り辛いし、打たれ弱い。アルコールやドラッグ。新興宗教に走ることにもなる。有名になることを夢見る若者は多いが、有名になることがどれだけ不自由で大変なことか?も伝えた。

つまり、俳優になり有名になることは今の生活プラス「有名人の生活」ではなく、マイナスになるということ。今まで当たり前のように持っていたもの。習慣。行動。友人を失うことになる。この辺はまだ詳しく書いていないが、表現の仕事に就くには茨の道が続く。

それでも俳優になりたい。作家になりたいという人もいるだろう。「私は鋭い感受性はないけど俳優になりたい」「俺は子供の頃から芝居をしている訳ではないけど、舞台に立ちたい」そう願う人もいるだろう。そんな人たちに向けて、もう少し書いてみる。

夢を追いかける。夢を掴むというと素晴らしいことのように聞こえる。「彼は努力の末にデビュー。歌手として活躍している」というとサクセス・ストーリーだ。お金も名誉も手に入った。皆がキャーキャー言ってくれる。テレビや雑誌に写真や記事が載る。芸能人として認められる。そんなことを目指している人が多い。

なぜ、そんな立場になりたいのか? 前回も書いたが、今、学校で、職場で自分のことを評価し、賞賛してくれる人がいない。街を歩いても誰も振り返らない。アイデンティティの確認ができない。それが積もり積もって、芸能人になれば…..ということで欲求を満たそうとしているのだ。

だが、今の若い人たちは「与えられる教育」で育って来たので自分から何かをするのではなく、会社や学校が導いてくれると思い込んでいる。大手芸能事務所に入ればデビューできる。デビューさせてくれると考えてしまう。

それでは無理だという話も書いたが、まず、そんなタイプの人たちがいる。映画監督になりたければ専門学校。漫画家になりたければ、最近はその種の学校もある。そんなところに行こうとする人たちだ。

次に、「役者になりたい」といい、そこそこやっているが、パッとしない人たち。そんな人たちがよくワークショツプに来てくれる。が、会場に入ってきて一目見て分かることがある。今年も一度だけ頼まれて、ある俳優事務所のワークショップをした。

皆、そこそこはできる。でも、芝居以前に彼ら彼女らがするべきことがある。というより、それが俳優を目指す裏の理由でもあるだろう。彼らは演技をしたいというより、自分探しをしているように思える。

少し前によく言われた「本当の自分探し」ー何をすべきかなのか? ー自分は何者なのか? ー自分には何ができるのか? そんな不安や疑問を感じている。その答えを探すために無意識に選んだのが俳優への道だと感じる。

これは作家や音楽家でも同じなのだが、作品を作る、表現する。その過程で自分を発見していく。表現は自分との対峙なのだ。それを無意識に感じて、「俳優になりたい」「芝居をしたい」と考える若い人が多い。

いろんな役を演じる。悪人。善人。サラリーマン。父親。母親。侍。ギャング。他人を演じることで自分が見えて来る。どんな役が似合うか? それが自分が持つ本質なのだ。悪女役を楽しむ女性がいる。その背景にはいつも自分を抑え、いい妻。かわいい女性を人生の中で演じている。

わがままを言えない。いい子でいなければならない。そんな抑圧から解き放たれた喜び。怒りや嫉妬を隠さなくていい。つまり、演劇によって精神を解放している。演技をしたいと思ってはいるが、実はそちらが無意識に目的となっていることがある。

だから、ワークショップをしていると、演技レッスンではなく、啓発セミナーをしている気持ちになる。演技をしてもらえば、その人が何で悩み、何に縛れているか? 何を求めているか?がよく分かる。が、本人はそれに気づいていない。心療内科のような気がする。

と書くと、サラリーマンが酒を飲んで、カラオケを歌い憂さを晴らしているのと同じだと思うかもしれない。同じなのだ。しかし、酒とカラオケでは癒せない苦しみや悩み。単にお金に困っているとかではない。どうすることもできない呪縛のようなもの。それを探し、解決しようとするのが、実は芸術。つまり表現なのだ。

その意味で、より深い悲しみや心の傷を持っている人が表現の仕事には相応しい。その闇を紐解く。見つめることは苦しい。できれば見ずに過ごしたい。自分は普通の人だと思い生活したい。なのに、引っかかる。心が渇望する。そんな人たちが選ぶのが「表現」なのだ。

だから、俳優を目指す多くの若者は悲しみを抱え、心に大きな傷を負っている。何もない顔をして日常生活を送っているが、本当は苦しくて仕方がない。それを気にせずに生きているレベルなら、俳優にならなくても生きて行ける。逆にいうと、そんな傷を負っている人が俳優になる素質がある。

ハリウッド俳優を考えみよう。アル・パチーノ、ジョン・トラボルタ、シルベスター・スタローン、皆イタリア系だ。バーブラ・ストライザンド、マイケル・ダグラス、ウッディ・アレン、ダスティン・ホフマン、皆ユダヤ系。監督でもスピルバーグはユダヤ系。コッポラはイタリア系。

皆、移民の子たちなのだ。様々な苦労をし差別を受け、理不尽な生活をして来た民族。その2世3世なのである。日本も同じ。芸能界には在日の人が多い。しかし、表現の世界ではそれが武器。悲しみを感動に変える仕事なのだ。

その意味では先の心療内科のようなワークショップに来た若い人たちは可能性ありということ。人種や国籍の問題だけでなく、様々な問題が心を傷つける。ビートルズのジョンとポールは子どもの頃に母親を亡くしているという。スティーブ・マックイーンは子どもの頃に両親が離婚。新しい父と反りが合わず、毎日殴られえていて、不良少年になったという。

チャップリンは子ども頃に母が精神病になり、子どもだったチャップリンが街で芸をして金を稼ぎパンを買い、母親に食べさせたという。そんな悲しみや苦しみを見つめることで、表現が生まれてくる。それが俳優の仕事なのだ。

他人を演じる仕事のように思うが、他人を演じることで本当の自分を探すのが俳優業なのである。だから、僕は演技とは心理学であると思える。それに気づかなくても、無意識にそれを感じて俳優を目指す若い人たちも多い。その心の闇が、心の傷が深く、ただれた人ほど、俳優として成功する可能性が高い。社会とは反対だ。

会社や学校ではそれらを隠して、普通であることを見せないと排除され、敬遠され、虐げられる。高校を出て、大学を出て、就職。普通のサラリーマンです。という顔をしないと、日本という国では生きて行きにくいところがある。でも、それに耐えられない人たちが目指すのが表現の世界。俳優であり、歌手であり、作家などなどである。

ある意味で俳優を目指すことは心の治療だ。しかし、難しいのは完治すればそこで終わってしまうこと。傷が深いほどに治療には時間がかかり、長い年月活動できるということもある。が、俳優として成功するしないは大きな問題ではない。

俳優を目指すことで、自分自身を知ることができれば。心の傷が癒されるなら意味がある。「芸能界は厳しい。俳優になんて簡単になれない」と人はいうが、そんなことはどうでもいい。俳優業は自分探しの旅。その旅に出ることは大きな意味がある。

前者の「有名になりたい」症候群の若い人たちも。日常生活の中で注目されない。異性にキャーキャー言われたいというだけの理由なら、俳優を目指してもすぐに諦めてしまうので問題ない。技術を磨く練習を何年も続けることの苦しさに比べれば、キャーキャー言われなくてもいいか?と思えるはずだ。

もし、それでもキャーキャー言われたいというのであれば、スポットライトを浴びて有名になりたい!と思うなら、それは後者だ。心の傷を踏みつけられたプライドを取り戻すための戦い。そんな子たちは可能性がある。

信頼できる友達がいて、理解ある両親がいて、普通に生活できる仕事があり、多少の不満があっても生きていける。そこに愛ある異性がいれば、表現の世界に行こうとは思わない。そんな安心できる環境がない。

苦しくて仕方がない。そんな人たちが自分を探す世界が「表現の世界」なのだ。もちろん、そうでない人たちも芸能界にはいる。でも、お笑いでも、歌でも、小説でも、映画でも、そして演技でも、それは自分を探す旅だ。

成功するしないは関係ない。有名なる。食えるも関係ない。まずは本当の自分を探すこと。自分は何に苦しみ、何に嫉妬し、どんな葛藤をしているのか? 見たくない醜い自分を見つめることが演劇である。

そこで腐った腸を引き出し、両手で掲げて「私の内臓はこんなに腐っています!」と叫んで、大きな拍手を受けるのが演劇なのだ。美しい衣裳を着て、魅惑的なヒロインを演じることではない。諦めずに挑戦してほしい。例えゴールできなくても、必ず、あなたの人生のプラスになるはずだ。


DmngW2aUwAASg97.jpg
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:映画

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。