和歌山県の女の子から「明日にかける橋」の感想が届きました。 [明日にかける橋=感想]
和歌山県の女の子から「明日にかける橋」の感想が届きました。
【太田隆文監督の映画 私たちの夢】by 小玉虫シスターズ
私たちは太田隆文監督のデビュー作のストロベリーフィールズから見続けています。
「ストロベリーフィールズ」
「青い青い空」
「朝日のあたる家」
「向日葵の丘1983年・夏」
どれも傑作・名作です。どれも大泣きします。太田監督の映画は制作費が何億円もあるわけでなく、派手なアクションシーンがあるわけでもなく、VFXやCGが駆使されてるわけではないです。
でも、感動するんです。めちゃめちゃ泣けます。
それは太田監督の映画はどれも見る人の目線で表現されてるからだと思います。
親は親目線。子供は子供目線。それぞれが等身大で見れるのが太田監督の映画です。
等身大で見れて、等身大で泣けて、自分自身が映画のキャストになって、スクリーンで想いを伝えてる感覚になります。
私たちは小さいころから太田監督の映画を見て、泣いて、笑って育ちました。
1番泣いて感動した映画は小学生のときに見たストロベリーフィールズ。私たちの地元、和歌山県で撮影されました、友達の大切さ、親と子の繋がりの大切さを教えてくれた映画。私たちが生まれて初めて涙した映画。一生の記憶に残る映画です。
太田監督の映画のテーマは「親と子に伝えたい大切な何か」
太田監督作品はどれも「大切な何か」が詰まっています。
そして、最新作「明日にかける橋1989年の想い出」
お父さんが撮影お手伝いしてたので私たちの手元には昨年の夏から台本がありました。台本読むだけで涙ポロポロです。
今年の夏、待ちに待った大阪公開見ました。スクリーンではキャストさんが演技して、音楽が流れて、頭の中で台本のストーリー追いかけながら泣いて、笑って、また泣きました。
泣く場面は本当に悲しい涙と、感極まった感動の涙があります。私たちは越後はる香ちゃんの「みゆきちゃん」と草刈麻有さんの「アヤカちゃん」に気持ちがシンクロしました。
明日にかける橋もキッチリ私たちに大切なことを教えてくれましたよ。私たちも強い想いを持って、やりたいことを実現できるように頑張ります。ニャハハン。
「明日にかける橋」大ロングラン! 袋井市役所のシティプロモーション室の職員さんが ブログを書いてくれました!感動! [10月ー2018]
「明日にかける橋」大ロングラン!
袋井市役所のシティプロモーション室の職員さんが
ブログを書いてくれました!感動!
ららぽーと磐田で9週目の上映中。
=>https://fukuroicity.hamazo.tv/e8222944.html
人はなぜ自分の価値観を盲目に信じて、押し付けてしまうのか? [my opinion]
人はなぜ自分の価値観を盲目に信じて押し付けてしまうのか?
先に書いた記事。「価値観」について、もう少し考えてみる。先に登場した後輩監督の話だ。映画撮影後、地元のあるオヤジが怒っているとの声。何だろうと聞いたそうだ。
「撮影が済んで1ヶ月経つ。一度、地元へ来てお礼をいうのが常識だろ? なのに監督からは何の挨拶もない!」
意味が分からない。その時期、彼は編集中。朝から深夜まで編集機に向かっていた。映画が完成すれば地元で完成披露上映会も予定されている。そこでお礼に伺える。なぜ、中途半端な1ヶ月という区切りでお礼に来いというのか?不思議に思ったそうだ。
その上、ロケ地は遠い、その交通費はどうするのか? 低予算映画なので、1万円、千円を節約している。意味のないお礼に費用を使えない。また、時間も大事。完成披露上映会までに映画を完成させねばならないのだ。にも関わらず挨拶を要求してくる意味が分からなかった。
実はその方。ある業界の方。その世界では仕事を終えた1ヶ月にはお礼に行くという習慣があったのだ。でも、今回は映画だ。映画界でそんな習慣はない。というより、まだ完成していない。
もし、映画が完成してから1ヶ月後にお礼に来いというのならまだ分かる。自分たちの業界の習慣だからそう言ったと解釈する。が、映画は完成していない。撮影が終わっただけだ。それも編集で多忙。後輩がいろいろ考えて分かったのは、その人は
「撮影が終われば映画は完成!」
と思っていたこと。それが一つ目の間違い。次に、自分の業界の習慣を映画業界に押し付けたこと。業界はそれぞれに独自の習慣がある。それは守るべきことだろう。が、それを他の業界に押し付けるのは違う。例え、その町の独特の習慣でもそれを東京の映画人に押し付けるべきではない。
もちろん、そんな習慣はその町にもない。その人が働く業界だけなのだ。それはあとで分かったこと。もし、その人が懸命なら「だったら、映画人はいつお礼に来るのか?」と考えるだろう。が、そうは考えず、自分の業界の習慣を守らないと怒り、あれこれ嫌味を言ったり、試写会にも協力せず、後輩のことをこう言っていたらしい。
「失礼な奴。常識がない。映画を撮らせてやったのに恩知らず!」
しかし、常識がないのはその人の方だろう。自分の業界の礼儀を他業界の人に押し付け、それも直接言わないで、礼に来なかったからと悪口を言ってまわる。それなりの年齢なのに情けない。が、そのオヤジに聞くとこういうらしい。
「礼儀というのは、言われてやっても意味がない。俺がいちいち言わなくても1ヶ月経ったら、手土産持って挨拶に来て、お陰で映画ができました。ありがとうございます。と頭を下げるのが当然だ。そんなこともできない奴はダメ。応援してやったのに、本当に失望したよ」
自身の業界でなら、それは正しいかもしれない。が、他業種の人に何も言わず「言われなくてもお礼に来るのが当然」というのはおかしい。だが、彼は長年、その業界で仕事をしているので、いつしかそれが全てになってしまっていたのだろう。考えたら、1ヶ月後のお礼なんて、他の業界ではない。パソコンを買ったら、1ヶ月後にアップルからお礼の挨拶があるだろうか?
もし、これが業界が違うのではなく、宗教ならどうか? 教えで食べてはいけないものがある。その料理をその人に出す。食べれない。「失礼な。せっかく料理したのに!」と、そのオヤジは怒るのだろうか? 価値観や決まりが違うのだ。それを互いに押し付け合うのは無意味。まして、そのことで悪口を言い触れ回るとか、いい大人がすることではない。僕も経験がある。あるお寺をロケハンで訪問したとき、そこの住職が
こう言った。
「まず本堂に行ってお参りしてください」
スタッフは本堂に案内され、本尊に向かい住職がお経を唱える。スタッフは合掌して頭を下げるようにと言われる。これもおかしい。スタッフに他の宗教を信じる人がいたらどうするのか? キリスト教徒やイスラム教徒がいたらどうなのか? その人たちに別の教祖を祈れというようなものではないか?だが、住職はいう
「お寺に来たらお参りするのが当然です!」
ま、そんなことを強要する寺はなかなかないが、その人も「それが常識だ」と思い込んでいるのだろう。他の宗教を信じていてもも本人が望んで参るのならいい、が、それを「当たり前だ」という理屈で強要するのはおかしい。なぜ、いい年の大人たちがそんなふうに自分の業界、あるいは自分が信じる「常識」を他人に強要するのだろう?それは先の例だけではない。子供に
「しっかり勉強しなきゃダメよ」
という親。勉強することで、今の時代どんな展開があるのか? これは僕が映画でよく描く部分だが、多くの親は勉強して、いい大学に行くことが子供の幸せと思い込んでいる。が、バブル崩壊以降、一流企業に入っても安泰ではないことは分かっている。にも関わらず、古い価値観を押し付けようとする。
「戦争に行ってお国のために死ぬのが日本人」
と教えていた戦中の日本。もう、敗戦が確実になっても、多くがそう信じていた。これは人の命より国が大切ということ。今では考えられない価値観が横行していたのだ。「しっかり勉強して一流大学へ」も、あと数年経てば、「あの頃の日本人はおかしかったよね。戦中と同じだよ」と思うだろう。ブラック企業も戦時中を彷彿とさせる。
戦中は「国のために」今は「会社のために」
そういって身を粉直して、体を壊しても、命を失ってもがんばる。そこまでして国や会社のために尽くすという価値観。それがおかしいことは多くの人が感じているはずだ。そんな歪んだ価値観を押し付ける。撮影1ヶ月後にお礼に来ないと怒るオヤジも、過労死するまで働かせる会社も、ある価値観を人に押し付けるという意味では同じなのだ。
しかし、押し付ける方はそれが正しい、常識だ、正義だとすら思っているだろう。分からない奴に教えてやっているんだ。と感じているはずだ。アメリカが独裁国を解放すると、戦争を仕掛けて独裁者を排除する。でも、それは本当に独裁者であったのか? アメリカから見たときにそう見えただけではないか?それぞれの価値観はあっていい。それを他者に押し付けることで問題起きる。
映画を作るのなら映画のルールで、そこに別の業界を持ち込んで来る人がときどきいて揉めることがある。「なぜ、あの人たちはあんなことを言い出すのか?」考えたとき、価値観の押し付けが行われていることが多い。同じことが日常でもよく行われていること感じた。ある価値観を盲目に信じてしまったとき、人は正義を感じて、それを人に押し付けてしまう。そんな構図があること。感じている。