(お知らせ)明日にかける橋ーマスコミ試写会・先日の第1回試写はほぼ満員。 [4月ー2018]
(お知らせ)明日にかける橋ーマスコミ試写会・第2回
先日の第1回試写はほぼ満員。反響の大きさに驚かされた。つづく第2回は5月初めに行なわれるが、これもかなりマスコミ関係からの予約が入っている。大変申し訳ないが、映画関係者で、この日に来ようと思っている方で、「他の日でも大丈夫だよ」という人はぜひ、別日に来てもらえるとありがたい。
早く見てほしいという思いはあるが、今回はマスコミの方により多く見てもらいそれをメディアから発信してもらうことが重要。その意味で協力してもらえると、ありがたい。
予告篇
人間関係でトラブル「卑劣な奴。許せない!」でも、もしかしたらその人は? [my opinion]
人間関係でトラブル「卑劣な奴。許せない!」でも、もしかしたらその人は?
職場で、友達関係で、近所で、ふとしたことでトラブルになり、それが長期化。精神的にも追いつめられ、大変な思いをしている人は少なくないだろう。あの人はなぜ、そんなことを続けるのか? 私がこんな辛い思いをしているのに?何の得があるの? 理由が分からない。そんな経験はないだろうか?
友人のA君がよく仕事をしていた製作会社。映画やドラマではないが、映像作品を作るところ。そこの社長は温厚で仕事のできる中年男性。気配りもあり、誠実な人。信頼できた。だが、次第に問題が起こるようになる。いつしか理不尽なことを始めた。人を踏みつけるようなことをする。担当者に断りなしにプロジェクトの方向転換をする。A君がやるべき仕事を黙って別のスタッフにやらせる。信頼が揺らぐ。やがて社員全員が社長を嫌っていることが分かる。
社長のことを「悪魔」と呼び。数ヶ月に1度、何人かが辞めて行く。そのたびに新人を入れ、2年も経つと全員が入れ替わった。A君のようなフリーのスタッフも、1本仕事をしたら、2度とそこで仕事をする者はいない。だが、その手の悪徳会社というのは映画界には多い。会社でいえばブラック企業のような感じ。社員をこき使うのに給与はちょっぴりみたいな。実はそんな人かと考えた。
しかし、社長を見ているとそう断定できないところがある。冷酷無比なタイプかと思い気や陽気でおしゃべり好き。冗談をよく言っている。夕飯とか奢ってくれたりする。費用のかかる撮影を自ら提案したりする。もし、ピンハネして儲けようという悪徳会社なら、製作費がかからないことをするはず。かと思うと、スタッフを長時間働かせても、夜食も出さない(業界的には深夜に及べば夜食を出すのがルール)終電を過ぎてからスタッフを解放するような理不尽なことをする(その際はタクシーを出すのが業界の常識)
若いスタッフは自腹でタクシー使い帰宅することもできず、居酒屋で時間を潰し、初電で帰るようなこともある。皆、怒り心頭だが、仕事を失うのを恐れて社長には何もいえない。スタッフだけではない。社長は映画に様々な面で協力してくれた別の会社や団体に対しても何らお礼も報告もしない。その1社が「どうなってんだ! うちがあれだけ協力したのに挨拶もなしか!」と連絡をしてきた。それを聞いた社員が社長に報告したところこういわれた。
「おかしいなあ。何度もお礼はしているし、何かあるたびに報告をしているんだけどなあ。勘違いじゃないかな?」
その社員が調べたところ。社長を始め誰もその会社にはお礼どころか一切の連絡をしていなことが分かり、あわててお礼状とお詫びの品を送ったこともあった。他にも必要ないことに大金を注ぎ込んだり、みんなで決めたことを守らず、スタンドプレーをしたり、見え見えのウソをつき誤摩化したり。言ってないことを言ったと言い張る。言ってないことを「いや、私はそう言ったはずだ!」と言ってきかない。質問しても全然関係のないことを延々と答える。「社長、質問に答えてください」というと「答えてるだろ!」と怒り出す。社員やスタッフはいつも振り回されていた。
プロジェクトが終わったあとA君は、二度とその会社と仕事をすることはなかった。ギャラも約束の半分しかもらえなかった。それをいうと
「そんな約束はしてない。あの話はその額を目指しましょうという意味です。ギャラは私が決めました。だから、それが全額です」
そう言われた。事前に何度も額を確認。「心配しなくても大丈夫です」と社長は何度も言った。目標額なんてことは一度も話していない。さらにいえば、なぜ、社長が額を決めるのか? ギャラは双方の同意で決めるもの。「もう、生涯。この男に会うことはないだろう」思った、仕事中の生活は全てサラ金でやりくり。もらったギャラでは返済できない。それから10年近くが過ぎたが、A君は今もその借金返済を続けている。
話を戻す。だが、A君は考えた。何かおかしい。単に金儲けしか頭にないブラック社長なら、無意味なことに大金を注ぎ込んだりしない。もしかしたらワンマンで閃きで動く出来る社長なのか? しかし、彼がやること成すこと失敗ばかり。必要のないことに金を注ぎ込み無駄にして、必要なことをケチり多くの関係者に迷惑をかける。御曹司なのか?それにしては基本的な部分は真面目で、会議の時間に遅れたりせず、プロジェクトはしっかり進めている。営業はうまいようで、いろんな仕事を取って来て会社はそこそも利益を上げているのだ。
まともな大学も出ている。会社を作り5年ほど運営して来たのは社長自身。暴力も振るわない。セクハラもしない。アル中でもない。ただ、以前からずっと不眠症で悩んでいるというくらい。そんな社長だが、彼の行為に社員は振り回され、次第に愛想が尽き、最後は全員が辞めてしまう。全ての原因は社長なのだが、ブラックという訳でなく、無能というのも違い、御坊ちゃまでもない。ただ、ただ、人の気持ちを逆撫でするようなことが頻発。皆、最後には離れて行く。
いろいろ考えていて、精神病か精神障害を考えた。以前にA君が勉強した統合失調症か?と思え、症状を調べてみた。一致するものも多いが、明らかに違うものもある。統合失調症によくある妄想が彼にはない。患者が持つある種のエネルギーもない。考え方も飛躍がなく、理屈が通るものが多い。そこで社長の行動言動を思い出す限り書き出し、精神科の先生に意見を聞いた。
「この人は統合失調症ではなく、双極性障害です。似た症状があるので医師でも判断を間違うことがあります」
双極性障害? 何? と思い勉強を始めた。別名は「躁鬱病」である。陽気になったり落ち込んだりするあれ?と思ったが、それでは理解できない。症状を上げてみよう。
●自尊心の肥大: 自分は何でもできるなどと気が大きくなる。
●睡眠欲求の減少: 眠らなくてもいつも元気なまま過ごせる。
●多弁: 一日中しゃべりまくったり、手当たり次第に色々な人に電話をかけまくる
●観念奔逸: 次から次へ、アイデア(思考)が浮かんでくる。具体的には、文章の途中で、次々と話が飛ぶことなども含まれる
●注意散漫: 気が散って一つのことに集中できず、落ち着きがなくなる。
●活動の増加: 仕事などの活動が増加し、よく動く。これは破壊的な逸脱行動にも発展しうる。
●快楽的活動に熱中: クレジットカードやお金を使いまくって旅行や買物をする、逸脱行動に出る
ほとんどが社長に当てはまった。そして答えが出た。社長は金儲けのために卑劣なことをするのではない。人を踏みつけるのも、スタンドプレーを取るのも、言ったことを言わない。言わないことを言ったと主張するのも、全て病気のせいなのである。そんな人が社長というトップを勤めることで、多くの社員が振り回され、傷つき、去って行ったということなのだ。
守銭奴ではない。だから、飯を奢ることも多い。なのにギャラを勝手に半額にする。無意味なことに金を注ぎ込むのは症状にある。不眠症も当てはまる。つまり、双極性障害を患っているのだ。そのことを友人に相談した。
「そんな病気本当にあるのか? あの社長は単なる嫌な野郎だよ」
「俺も社長とは仕事したし、嫌な奴だけど精神病じゃないな。まともだったよ。急に叫び出したり、神の使いだなんていわないしさ」
精神病=気が狂った状態と思う人が多い。これだけ健康ブームでその手の番組があるのに、精神病を解説するものはない。雑誌や新聞でもせいぜい鬱病。だから、一般の人は双極性障害といわれてもピンと来ない。包丁を振り回し暴れるのが精神病と思う人たちがとても多いのだ。別の友人はいう
「嫌な奴だけど、精神病というのは酷いと思うよ。彼にも人権があるし、可哀想だよ」
この手の反応も多い。精神病に触れること自体が差別という考え方。確かに精神病患者を差別することはいけない。が、その考えが過度になり、精神病に触れること自体がいけないことと思ってしまう。結果、その人がなぜ奇行を繰り返すのか? どう対処すべきか?を考えず、臭いものには蓋をしろ的な対応になる。
例えば、インフルエンザにかかった友人がいる。気付かずに会社に出て来た。それは危険。ウイルスがまき散らされる。彼は自宅で療養すべきなのだ。それを「インフルエンザなんていうのは可哀想だよ」というのと同じ。患者に「会社に来るべきでない」というのも差別ではない。そもそも、彼は会社に来てはいけない。他の社員に移るからだ。自宅で療養。治療を受けることが大事。人権とかいう問題ではない。
あの社長はもともと優秀な人だったのだろう。しかし、病気によってまともな判断ができない。そのために社員に嫌われ、同時に仕事もうまくいかない。本人は気付かない。自分は正しいと思う。病気によって「私は何でもできる!」と思い込み無謀な挑戦をして失敗する。社員の1人はいう。
「とにかく嫌な人で、悪魔と呼ばれるのも当然。でも、社外の人に言っても誰も信じない。まじめないい社長だよ。多少の社内トラブルはどこでもあるよと言われた。A君から病気の話を聞いて納得。けど、精神病だなんていうと差別だと言われ、私たちから言えないわ」
その通りだろう。世間は個人の辛さや悩みを理解しない。人間関係のトラブルと考える。まさか社長が病気とは想像しない。そして、精神病だというと「差別だ!」「酷いことをいうな!」と批判される。或は「社長はよく知っているけど、病気とは思えない」と取り合わない。精神病を知らない者がどうして「病気とは思えない」と言えるのか? でも、多くのがそんな対応しかしない。そんな3重の壁があり、1人の患者がいることで多くが傷つき、トラブルが起こる。ただ、患者に悪意はない。病気なのだ。
精神病は特別な病気ではない。統合失調症の患者は100人に1人いると言われる。なのに国もマスコミも精神病についての理解の輪を広げようとしない。国民も「怖い病気」と思い込み、触れないようにする。だから多くが気付かない。その社長は今も会社を経営している。噂で聞くところだと、社長は相変わらずだという。社員は次々に辞めて、2年で全員が入れ替わるという。誰にも悪意がないのに、悲しい事態は終わらない...。
「明日にかける橋 1989年の想い出」ロビーカード紹介⑥ 田中美里さんの場面 [キャスト]
毎週1枚ずつ紹介するロビーカード第6弾。今回は高校職員室。主人公みゆき(越後はる香)と母・桐子(田中美里)の場面。三者面談で、親子で担任の先生と向かい合っているところ。カメラ側にいるのが、山田先生(嵯峨崇司)。さて、一見学園ドラマ風に見えるこのシーンがSFになる?!
6月30日(土)東京先行公開 スバル座にて
ロケ地は静岡県袋井市、磐田市、森町。懐かしい昭和の風景が満載!
15秒スポット=>https://youtu.be/eKmMXriGJNk
ボランティアで働いたから見返りをくれという人々。はあ? [地方映画の力!]
地方映画の現場。市民が一生懸命に働いている。ほとんどがボランティア。映画によって故郷が全国にアピールされるのを願って、様々な形でプロのお手伝いをする。市民スタッフは交通費も食費も自腹。ギャラは当然なし。なのに朝から晩までお手伝い。仕事を休んで参加する人もいる。僕の映画もそんな方々が多いので、その熱い思いに、いつも頭が下がる。
だが、完成してから問題が起こることがある。後輩が監督した市民映画ではこんなことがあった。エキストラとして参加した人たちがこういう。
「俺たちはボランティアで映画出演したのだから、映画の招待券くらい配るべきだ!」
ギャラなしだから、せめて映画を無料で見せてくれというのだ。ある意味で、そのくらいのお礼をしてもいいかな?と思う人もいるだろう。だが、考えてほしい。映画館で映画を見ると1800円。つまり、その人たちは「1800円くれ!」と言っているのと同じ。ボランティアというのはギャラをもらわない。金品をもらわないという奉仕だ。それなのに1800円ほしいというのはおかしい。
ただ、彼らの意識としては現金ではなく、招待券という紙をくれと言っているだけだから、ボランティアだと思っている。が、現金だけでなく、一切のお礼をもらわないのがボランティア。最初に「ギャラはないけど、招待券をプレゼント」という約束があるなら別だが、ボランティアで!と言って参加しておいて、あとになって何かを要求するのは筋違いだ。また、撮影を手伝って招待券は出せない理由もある。
別の形で説明しよう。農家の手伝いで田植えをボランティアで手伝った。それを米が出来たとき「手伝ったんだからスーパーで売っている米をタダでくれ!」というのと同じ。入場券=米。物を要求するのもボランティアではない。そもそも、映画を作るのは制作会社=米を作るのが農家と同じ立ち位置。映画を上映するのは映画館=米を売るのはスーパー。作る側と売る側は別組織なのだ。
先のボランティの方は制作会社仕切りの現場でボランティアのお手伝いしながら、別会社である映画館の招待券をくれといっているのだ。米でいえばスーパーで売る米をタダでくれというのと同じ。流通は複雑。その辺の構図。一般の方に分かりにくく、撮影を手伝ったから映画館でタダで見せろという流通を超えた要求をすることがある。ま、そもそも、最初に約束がないのに、そんなことを言い出すこと自体が非常識である。
また、映画の場合は故郷をアピールするためであり、市民であればすでに恩恵を受けている。言い換えれば自身が労働した賃金を町のアピールのために寄付するのと同じ。その上で「何か、くれ!」はやはりおかしい。赤十字に募金して、「何かくれ!寄付しただろう?」という人はいない。なぜ、そんな勘違いをする人が出て来るのだろう?
これはまず、アルバイトと混同している場合が多い。アルバイトをすればバイト料がもらえる。「それがもらえないなら何か別のもものを寄越せ」と。現金がもらえないのがボランティアだと思い込んでいる場合。物も現金ももらわないのがボランティアだ。でも、中にはこんな人もいる。
「以前にエキストラ参加した映画ではボランティアだけどTシャツをくれたよー。なぜ、今回は何もくれないのー!酷いー」
シャツは制作サイドのご好意。企業映画なので製作費に余裕がありシャツがもらえた。というより、本来はギャラをはらえる余裕があるにシャツで済ませたということが多い。でも、その人が次に参加した映画は市民映画。だから本来の意味でボランティア。企業映画と市民映画を一緒にして「酷い!」「ずるい!」「利用された!」と騒いでいたのである。
最初にエキストラを募集するときに、ボランティアであることは明示されていても「前の映画でシャツもらったのによ」と言い出す人が必ずいる。その背景にも何かすれば何かもらえるというバイト感覚があるのだと思える。市民映画は祭りに近い。祭りに参加したからとギャラ寄越せとは言わない。それは町の様々なことを祝う行事だからだ。神輿を担いだからとバイト料はもらえない。市民映画も同じ。町を全国にアピールするために、神輿の一端を担ぐのがボランティアなのだ。バイト感覚と、それに加えてこんな発想を持つ人が多い。
「町をアピールするのは役所の仕事だろー! 俺たちは税金払っているんだからさあ」
そんな思いが背景にある。「何で市民の俺たちが?」という発想が町をアピールする市民映画というのが理解できないのだ。この発想は多くの日本人に根付いていて、何かあると「国がやるべき」「県に頼もう」「市が解決すべき」と自分たちは何もしない。
原発立地地区も同じ。町の過疎化が問題なのに自分たちで解決せず、「原発を誘致すれば莫大な交付金が出る!」と飛びつくことが多い。何でも政府頼み、県頼み。しかし、自治体も限界があり、税収も減っている。大きな組織は小回りが聞かない。企画して、実行するまでに何年もかかる。その間に時代や価値観が変わる。また、市民が陳情しても「出来ない理由」を探すことに、もの凄い労力を費やす職員も多い。その時間を解決に使えばいいのにと思うが、どこの自治体にもいる。
政府を見ても、役所を見ても、市民のためにスペシャルな何かできるというところは少ない。ただ、彼らを批判するだけでは何も変わらない。市民が自らの手で故郷のために出来る何か?をすることが早道であり、有効なのだ。そんなひとつが市民映画作り。その一端を担いボランティアでお手伝いして「金をくれ」「招待券をくれ」というのが、どういう意識なのか? もう分かってもらえたと思う。視野が狭く、自分のことで精一杯。何をやってもバイト感覚。故郷のことを顧みる余裕をなくしている人たちなのだ。
そんな方々にも「いかに意味ある活動であるか?」を理解してもらうことも、市民映画作りでは重要となる。ある意味で日本人の「お上頼み」の意識を変えること。自分たちの力で変えて行く活動でもある。どの町の市民メンバーもそんな問題と対峙しながらがんばっている。ただ、声を上げ変えようとする市民がいる町は、大きな希望がある。大きな翼を持つ街だ。がんばってほしい。
「市がやるべきだ。それは国の仕事だ!」と何もしない市民。でも、小さな力は大企業を超える! [地方映画の力!]
近年、注目されているのが町興し映画。聖地巡礼といって映画のロケ地を訪ねることがブームになっており、ヒット作の舞台となった町が注目されている。
「だったら、わが町でも映画を撮ろう!」
そんな動きが各地で起こっている。が、映画作りが大変ということだけでなく、同じ町の人たちの理解が得られないことが多く、苦労している方々がいる。
故郷のアピールがテーマであり、実行委員となった人たちのほとんどはボランティアで製作費を集める。交通費も食費も自腹。もちろんギャラも取らない。それらを経費にしていると、いつまで経っても十分な製作費が集らないからだ。そうして寄付を集めてまわるのだが、最初はなかなか理解が得られない。
「映画撮影?おもしろそう! 有名な俳優さんも来るの?」
多くの人は興味を示すが、寄付をお願いすると渋る人がどの町でもかなりいると聞く。これは花火大会と同じ構図。ある町の役所で働く友人に聞いたが、その町の花火大会は近隣の町の人たちを呼ぶことが目的だった。花火を見に来たときに食事をしてくれる。町の魅力が伝わる。宿泊してくれる。お土産を買う。何より経済効果が上がる。
役所が主導で花火大会は行なうが、税金を使う訳ではない。全て市民からの寄付。3千万円くらいが必要。しかし、それが毎年なかなか集らない。花火大会というと皆「楽しみです」というが、寄付というと渋る。そもそもが町をアピールし、近隣の人たちを呼んでお金を落としてもらう。つまり、町の人たちが儲かるイベントなのに多くの市民が協力しない。役所の友人は言う。
「そもそも市民のための花火。皆、喜んでいる。だから続けているのに寄付しない。ほんとやり切れないすよ!」
同じことが映画作りにも言える。町をアピールし、観光客を呼ぼう。知名度の低いわが町をPRしよう!とボランティアで頑張っている人たちがいても「映画、面白そう!撮影見に行くね」というけど、寄付というと嫌がる人たちと多い。これは特定の町に限ったことではなく同じ話をあちこちで聞く。映画であろうと花火大会であろうと、故郷をアピールする。観光客を呼ぶためのイベント。なのに多くの市民はこう考える。
「市が観光客を呼べばいい」「映画は面白そうだが、寄付はしたくない」「町の財政が大変なのは知っているが、自分たちには何もできない」「税金を払っているんだから、市が映画をやるべきだ」
でも、考えてほしい。行政が本当に意味で市民のために何かをやってくれたことがあるだろうか? 今の政府を見ていればよく分かるが、総理の友達なら大学を作るのに200億円がポンと出る。犯罪まがいなことをやった官僚でも莫大な退職金をもらう。震災後の福島の復興より、オリンピックに力を入れる。ある町の市民はいう。「役所はできない理由を探すことに努力している!」そんな現状を見ていたらとても期待はできない。
そもそも、映画作りも花火大会も町のため市民のためのイベントだ。観光客が来れば儲かるのは食堂であり、商店であり、ホテルだ。今、日本の地方は本当に大変。農業も、林業も、漁業も不振。だからこそ町興し映画というのが注目されている。それをボランティアでがんばる人たちがいる。なのに「撮影は見たいが、寄付はしたくない」というのは、意識がとても低いのだと思える。
市や国が何もしない理由のひとつは、組織が大きいとなかなか動けないこと。或は新しいことに取り組むのがむずかしいこと。その辺は多くの人が理解しているだろう。なのに「市がやるべき」「国の仕事だ」というのは責任転嫁をしているだけ、目の前にある町の状況を見ないで済ませているだけ。現実逃避。だから、楽しそうな撮影は行きたい。でも、僅かな額でも寄付は嫌だといってしまう。
もし、本当に映画が効果がないと思うなら寄付をしなくてもいい。しかし、町をアピールしたい、観光客に来てほしいという思いがあれば、市民の1人1人が考えて行動しなければ、町はどんどん錆びれてしまう。子供たちが故郷に誇りを持てなくなってしまう。観光誘致だけではなく、映画を作ることで、故郷をスクリーンで見つめることで、どれだけ自分の故郷が素晴らしい場所であるか?にも気付く。
なのに、多くの人は千円、1万円くらいを寄付する余裕があっても何か理由をつけて断り、現実を見ないようにしていることが多い。以前にも書いたが、そこに日本人特有の思いがある。「誰かがやってくれるはずだ....」「自分には力がない。何もできない......」そんな考え方が自身を封じ込めている。だから個人も、町も変わることができない。
でも、多くの人は気付いていないが、小さな力を集めることで、どれだけ大きなことができるか? 市や国では出来ない大きなイベントだって可能なのだ。僕が映画撮影をした町の人たちというのは、まさにそれを証明している。その気になれば出来る。毎回、ご一緒する地元の皆さんと映画作りをしていると、本当にそれを実感する。今回はたった3人のおばちゃんたちの思いからスタートした。それが大企業並みのプロジェクトとなった。諦めてはいけない。小さな力を集めれば巨大な力になり町をも変えて行くのだ。