日本の企業映画はいかにして作られ? なぜ、詰まらない作品が多いか?(中) [映画業界物語]
日本の企業映画はいかにして作られ? なぜ、詰まらない作品が多いか?(中)
どんな面白いシナリオがあっても、オリジナル脚本だとダメ。原作ものでないとまず映画化はされない。
もし、無名の新人ライターが書いたシナリオがもの凄く面白くて、映画化すればヒットしそうだとしても、映画会社は決して採用しない。作品自体の知名度がないからだ。例えば若いPが
「これ面白いですよ!映画化しましょう」
と提案しても、こういわれるだろう。
「その映画がヒットする保証はあるの? 原作が500万部売れていれば、10%の50万人が映画館に来るという計算ができるが、原作がなければ、そんな計算もできない。何よりお前がそのシナリオを面白いと思うだけで、一般の人は興味を持たないかもしれないだろう?」
もし、その若いPが何らかの手段で映画化しても、ヒットしないと
「お前が面白い、絶対にヒットするといっただろう?」
と上司から責任を追求される。だから、そんな提案をするPはいなくなるのだ。さらに、ベストセラー原作を提案して、ヒットしなかった場合は
「500万部売れたマンガを原作にして駄目なら仕方ないですよ」
という言い訳ができる。だから、若手Pも次第にオリジナル・シナリオを提案することはなくなる。この構図の基本的な問題点は、映画化の決定権を持つ重役たちがベストセラー原作の知名度にこだわるということだけでなく、シナリオを「読む力」がないということ。
そして「これは当たる!」という商売的な勘がないということ。だから、売れた原作ものに頼る。 いずれにしてもシナリオを「読む」力も、時代を「読む」力もないということなのだ。
(つづく)
日本の企業映画はいかにして作られ? なぜ、詰まらない作品が多いか?(上) [映画業界物語]
日本の企業映画はいかにして作られ? なぜ、詰まらない作品が多いか?(上)
映画館で毎日上映されている映画。有名俳優が出ていて、それなりに製作費がかかっている。
基本的には映画会社が企画、最近では、テレビ局。ビデオメーカーが企画した作品の方が多い。或いは、製作会社が企画したもの。いずれにしてもプロデュサーという肩書きを持つ社員が企画会議でプレゼンをする。
「ベストセラーの****を原作にした映画を、人気のタレント*****を主演で映画にしたいと考えます」
最近はマンガ原作が多いが、まず、その版権を押さえる。「少年ジャンプ」では新連載が始まったとたんに各社から映画化、ドラマ化依頼が来るので、「***というマンガが人気!」といわれてからではすでに手遅れ。
というのは、映画にするにはベストセラーということが不可欠なのだ。せめて人気作家の作品であること。最低でも書籍になっていなければ、企画会議では絶対に通らない。
つまり、知名度のない作品を映画化すると、タイトルからまず伝えて行かねばならない。そのためには膨大な広告料が必要。だが、ベストセラー原作だと「ああ、あれね! 映画になるんだ」と思ってもらえる。
映画会社にとって大事なのは「内容が面白いかどうか?」よりも「作品や作家に知名度があるか?」が重要なのだ。幸い、ベストセラーであれば、面白いからこそ売れた訳で、そこもクリアーできる。でも、逆にいえば、どんな面白いシナリオがあっても、原作ものでないと映画化はまずされない。そこを解説しよう。
(つづく)
「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」12月9日(月)〜10日(火) 沖縄、完成披露上映会 [告知]
「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」
予告編=> https://youtu.be/81I-BLROlxY
12月9日(月)〜10日(火) 沖縄、那覇市、
パレットくもじ(県庁前)市民劇場
9日 ①午後3時〜 ②6時30分〜
10日 午前9時40分〜
「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」ー授業では教えられない戦争の真実? [My Movies]
「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」
日本、唯一の地上戦が行われた沖縄戦。それを描いた映画やドラマは少ない。学校の授業でも駆け足で終わる。そのため多くの日本人は沖縄戦を知らない。
それは子供達には伝えられない凄惨と絶望。そして禁断の背景があるではないか? 当時、負け続けていた日本軍は本土決戦の時間稼ぎのため、沖縄を捨て石にした。十分な兵力と武器も送らず、米軍50万8千人に対して、日本軍は11万6400人。
「1人が5人殺せば勝てる!」
と精神論で戦わせた。さらに足りない兵を補充するため、沖縄県民の14歳から70歳まで、兵役についていない女性、子供、老人までを徴用。戦闘協力を強制。結果、全戦没者20万656人の内、沖縄県出身者12万2282人。当時の人口で言えば3人に1人が死んだことになる。
さらには、軍の強制により住民が自決する事件も相次いた。死に切れない子供を親が自ら手を下し殺す。そんな地獄絵が展開した。
その沖縄戦。当時を知る体験者、専門家の証言を中心に、米軍が撮影した記録フィルムを交え紹介。上陸作戦から、戦闘終了までを描く。
監督は原発事故の悲劇を描いた劇映画「朝日のあたる家」(山本太郎出演)で話題となった太田隆文監督。原発事故に続き、沖縄戦をドキュメンタリーで描く。
「米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー」「沖縄スパイ戦史」「主戦場」に続く、戦争ドキュメンタリー作品の傑作。
予告編=>https://youtu.be/sGFjWg0fo00
12月9日(月)〜10日(火) 沖縄、那覇市、パレットくもじ(県庁前)市民劇場
9日 ①午後3時〜 ②6時30分〜10日 午前9時40分〜
10代の頃から感じていた違和感の正体。ムラ社会ルールに縛られた人たちの攻撃。それが日本という国。 [映画業界物語]
10代の頃から感じていた違和感の正体。ムラ社会ルールに縛られた人たちの攻撃。それが日本という国。
高校時代。夏休みは夜起きて、朝寝るという生活をしていた。夜遅くまでテレビで深夜映画を見て、その後、本を読んだり、書き物をしたり。日が昇る頃に寝る。生活が逆転して、夕方起きて朝寝るというパターン。学校は休みだから問題はない。
当時はビデオデッキはないが、その頃からシナリオを書いていた。昼より夜が調子いい。静かだし、集中できる。邪魔されない。だが、当初は親がうるさく言った。「朝きて夜寝るのが健康的だ」「それが常識だろ」と。学校が始まり、教師との面談の時も休み中の生活を訊かれ素直に答えるとこう言われた。
「そんな不規則な生活をしていたのか!」
不規則ではない。夕方起きて、朝寝る。規則的だ。そういうと怒られる。
「朝早く起きて、頭の冴えている間に勉強して、夜寝るのが当然だろ!」
当然だろうか? 勉強にしろ、シナリオにしろ、夜する方が頭が冴える。なぜ、朝が冴えると決めつけるのか? その後、30代で脚本家デビューしてからも、40代で監督業を始め編集をする時も同じ。夜の作業が集中できて、効率がいい。
ただ、カタギの人たちは朝起きて会社に行き、夜終わって帰宅して寝る。学校も夜ではなく、朝から夕方だ。それは分かる。かと言って個人で活動するのに、なぜ、夕方起きて夜中がいけないのか?誰に迷惑をかける訳でもない。
中学の頃。夏休みに海に近い親戚の家に行く。そこでも朝まで本を読んだりして、起きるのは昼頃。大人たちはいう。「子供は朝早く起きろ!」それもおかしい。朝早いのは老人。子供が朝早い意味があるのか? 小学生ならセミ捕りで朝早くはあるが、こちとら朝方まで勉強(映画のね)していて、早起きしたら睡眠不足になる。
高校を卒業して1人暮らしを始めると、もう誰も何も言わない。自分の仕事に合わせて早起きする時もある。徹夜が続くこともある。でも、それは必要でやる。シナリオを書くのは夜。もう、数十年。それについてうるさくいう人はいない。夜作業したか?昼したか?を問う人はいない。大切なのは面白いシナリオを書くこと。盛り上がる編集をすることなのだ。
だが、その後もカタギの人と関わると、あれこれ言われた。「結婚しないの?」「彼女はいるの?」「正月は実家に帰るの?」大きなお世話だ。さほど親しくないのに、そんなことに答える必要があるのか? 子供の頃もそう。近所の人や親戚が
「勉強してるか?」「大学はどこに行く?」「就職は?」
あんたらに関係ないだろ? やがて気づいた。全て「ムラ社会ルール」昔から日本人を縛るあれ。小さな村で問題を起こさず、安泰に生活するための知恵。
それが日本人に染み付いている。はみ出す人を日頃からチェック。問題を起こしそうだと、あれこれ口を出してくる。とにかく皆と同じでなければならない。1人だけ別のことをしてはいけない。効率や価値観は関係ない。昔ながらの皆がやることをやる。朝起きて、夜寝る。大学を出て、会社に入る。結婚して子供を作る。ほとんどの日本人と同じ人生を求めてくる。はみ出すことがトラブルに繋がる。だから、監視し修正する。
それを日本人は無意識にやってしまう。僕はというと中学、高校時代からそのルールを破り続けた。その行き着く先が映画作りという仕事だった。そもそも映画界ははみ出し者の集まり。アーティストやクリエーターというのは普通の生活ができない人。僕からすると親も親戚も教師も近所の人も、みんなが寄って集って人生の邪魔をされているようにしか思えなかった。
僕だけではない。ムラ社会ルールには縛られない日本人もいる。が、それを実践すると悪意のない多くの人が人生を邪魔しにくるというのがこの日本という国なのだ。
「明日にかける橋」東京完成披露試写会のトーク(後編)鈴木杏x越後はる香=Wみゆき! [動画]
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「みんな仲良くやろう」は村社会ルールの呪縛?=大切なのは仕事のクオリティか?仲良しこよしか? [映画業界物語]
「みんな仲良くやろう」は村社会ルールの呪縛?=大切なのは仕事のクオリティか?仲良しこよしか?
映画スタッフ内でトラブルが起きた時。原因を考える。「誰が悪いか?」とは少し違う。「悪い」ではなく「原因」なのだ。だが、その発想はチームの中で理解されにくい。
あるプロジェクト。スタッフA(50代)がいた。最終決定権は監督である僕にあるのだが、Aはいろいろ決まった後も、文句を言ってくる。「それじゃダメです。***で行きましょう」それがダメな説明するだけで時間を取られる。見ているスタッフは「監督とAは仲が悪い」と思う。Pは「仲良くやってくださいよ」という。
*
仲良くではない。僕が決めたことに対してAが文句をつけてくるのが原因であり、Aが決められたことをやればいいだけのこと。揉めているのでもなく、仲が悪いのでもなく、Aが言われたことをしない。反抗的なだけなのだ。が、他のスタッフは「仲が悪い」「揉めている」と解釈する。
考えた。なぜ、Aは逆らってばかりいるのか?彼はCM畑の人間であること。映画やテレビの仕事はしたことがない。同じ映像とは言え、映画とテレビとCM。そしてドキュメンタリーは価値観、方法論、ルールがかなり違う。例えばテレビ番組の責任者はプロデュサー。映画は監督。CMはスポンサーだ。それぞれが最終決定をする。
そのためAは何かというと「スポンサーに聞いた方が」「スポンサーに報告しないと」と言う。が、映画は映画監督が責任者だ。スポンサーにお伺いを立てて演出はしない。そんなAはドラマをやったことがない。だから、CMの方法論、ルールで考える。
悪意はなく、僕に敵意を持っている訳でもない。が、彼は50歳を超えており、新しい方法論を受け入れられないというのもあった。「監督のいうことはおかしい。従えない。このままではトラブルが起きる。俺が止めないと!」と考えたのだが、彼自身がトラブルの元となっていることに気づいていない。
*
結局、プロジェクトは破綻。Aも問題だったが、プロデュサーも問題だった。深く考えずに、いろんな業界からスタッフを集めたことでトラブル続出。Aが問題であることを伝えてもクビにしない。「人手が足りない」「仲良くやってよ」としか言わない。
AはCMルール。僕は映画。どちらかが妥協するしかない。監督は僕。そして作品は映画。Aが従うしかない。それとも僕をクビにして経験のないAに監督させるか? もっと言えばCMの方法論しか分からない彼を呼んだのが最初の失敗。
子供の頃は柔軟性があるが、いい歳をした大人は新しい価値観や方法論を受け入れられない。長年培ったルールで仕事する。「仲良くしろ」と言われても自分のやり方は曲げられない。そんな彼には降りてもらうしかなかった。
でも、日本人には村社会ルールが根付いているのか? 仕事のクオリティより「仲良く」を優先することが多い。映画製作にムラ社会ルールは通用しない。いや、現代社会に「みんな仲良く」はもはや意味をなさない。「分かる者同士で頑張る」それが大切だと感じる。
映画製作は理解し辛い。あれこれ勘違いする人たち。良かれと思ってかき回すこともある? [映画業界物語]
映画製作は理解し辛い。あれこれ勘違いする人たち。良かれと思ってかき回すこともある?
毎回、撮影の手伝いに来てくれる人たちがいる。自腹でロケ地まで来て、自腹で宿泊。ボランティア・スタッフとして撮影を手伝ってくれる。でも、何かを要求するわけではなく、映画が好きなので、撮影に参加できるだけで喜んでくれる。そんな1人。ある中年男性が、こんなことを言った。
「女優のA子さん。今回は出演してないんですね?」
彼女には期待していたが、前回の映画で酷い芝居をした。だから今回は起用していない。だが、その男性はいう。
「前回、よくなかったという話は聞いてますけど、そのことで反省して次は頑張るということもある。また呼んであげたらどうです?」
その発言。悪意はないが、あえて言えば、いくつかの問題がある。まず、ボランティアで手伝ってくれるのはありがたいが、キャスティングに意見するのはどうか?もちろん、自分の思いを伝えただけで強く要求した訳ではない。が、会社の人事で、外部から来たお手伝いの人が、社長に「彼は営業部に戻してあげたら」というだろうか?それは世間話とは言えない。
シナリオだとどうだろう?「結末はああではない方がいいですよ」というだろうか? 映画ファンがネットであれこれ言うのは自由だが、撮影現場ではスタッフ、キャストだって、キャスティングやシナリオについては一切。言わない。なのに、彼は世間話のような感じでそんなことをいう。プロではないので仕方ないところもあるが、引っかかった。
*
背景を考えた。A子の失態は非常に深刻で、物語が成立しなくなる危険があったことを知らない。演技がボロボロだったが、別の俳優で撮り直す余裕も、時間も、費用もない。何人ものスタッフが物語が繋がるようにポスプロで長時間、何度も徹夜で編集せねばならなかった。A子のために苦労したスタッフ、超過した予算のことを彼は知らない。
なのに「可愛そうだ」「また呼んであげよう」と言う。また同じことが起きたらどうするのか?とは考えず、可愛そうという。映画作りは仲良しクラブではない。大学のサークル活動ではない。トラブルを起こしても、反省すればまた仲良くやろう。仲間はずれは可愛そうだ。そんな発想で彼は考えているようだ。
映画は真剣勝負。一つの失敗で、全体がダメになることがある。多くの人が迷惑し、被害も受ける。製作費は低予算でも何千万円。一大プロジェクト。それをサークル活動のように考えている。ただ、一般の人だし、映画製作が分からないのは当然。その時は分かりやすく説明した。
*
それ以来、あれこれ言うようになる。シナリオがどうだ。撮影がどうだ。彼が言うべきことではない。ボランティアで船に乗った人が船長に航路や速度について、あれこれ進言するようなもの。悪い人ではない。手伝いもありがたい。が、集中せねばならない現場で、それを言って来られても困惑する。その後、彼は手伝いには来なくなった。自分の意見が通らないからか?余計なことを言っていたことに気づいてくれたのか?は分からない。
僕にも反省がある。もともと彼にとって撮影は「仕事」ではない。祭りの参加に近い。さらに話すことで「監督はいい人」「お友達になった」と思われた。彼は撮影=祭り=サークル活動と捉えるようになる。もちろん他の人たちはボランティアに徹してくれるが、彼はそう考えた。
「みんなで仲良く」「仲間はずれはいけない」「自由に意見を出し合う」
そんな勘違いをさせた僕にも責任がある。よく映画監督は「怖い」と言うイメージがあると言われる。近づき難い。それはそれで意味があると最近は思えている。