「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」ー授業では教えられない戦争の真実? [My Movies]
「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」
日本、唯一の地上戦が行われた沖縄戦。それを描いた映画やドラマは少ない。学校の授業でも駆け足で終わる。そのため多くの日本人は沖縄戦を知らない。
それは子供達には伝えられない凄惨と絶望。そして禁断の背景があるではないか? 当時、負け続けていた日本軍は本土決戦の時間稼ぎのため、沖縄を捨て石にした。十分な兵力と武器も送らず、米軍50万8千人に対して、日本軍は11万6400人。
「1人が5人殺せば勝てる!」
と精神論で戦わせた。さらに足りない兵を補充するため、沖縄県民の14歳から70歳まで、兵役についていない女性、子供、老人までを徴用。戦闘協力を強制。結果、全戦没者20万656人の内、沖縄県出身者12万2282人。当時の人口で言えば3人に1人が死んだことになる。
さらには、軍の強制により住民が自決する事件も相次いた。死に切れない子供を親が自ら手を下し殺す。そんな地獄絵が展開した。
その沖縄戦。当時を知る体験者、専門家の証言を中心に、米軍が撮影した記録フィルムを交え紹介。上陸作戦から、戦闘終了までを描く。
監督は原発事故の悲劇を描いた劇映画「朝日のあたる家」(山本太郎出演)で話題となった太田隆文監督。原発事故に続き、沖縄戦をドキュメンタリーで描く。
「米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー」「沖縄スパイ戦史」「主戦場」に続く、戦争ドキュメンタリー作品の傑作。
予告編=>https://youtu.be/sGFjWg0fo00
12月9日(月)〜10日(火) 沖縄、那覇市、パレットくもじ(県庁前)市民劇場
9日 ①午後3時〜 ②6時30分〜10日 午前9時40分〜
10代の頃から感じていた違和感の正体。ムラ社会ルールに縛られた人たちの攻撃。それが日本という国。 [映画業界物語]
10代の頃から感じていた違和感の正体。ムラ社会ルールに縛られた人たちの攻撃。それが日本という国。
高校時代。夏休みは夜起きて、朝寝るという生活をしていた。夜遅くまでテレビで深夜映画を見て、その後、本を読んだり、書き物をしたり。日が昇る頃に寝る。生活が逆転して、夕方起きて朝寝るというパターン。学校は休みだから問題はない。
当時はビデオデッキはないが、その頃からシナリオを書いていた。昼より夜が調子いい。静かだし、集中できる。邪魔されない。だが、当初は親がうるさく言った。「朝きて夜寝るのが健康的だ」「それが常識だろ」と。学校が始まり、教師との面談の時も休み中の生活を訊かれ素直に答えるとこう言われた。
「そんな不規則な生活をしていたのか!」
不規則ではない。夕方起きて、朝寝る。規則的だ。そういうと怒られる。
「朝早く起きて、頭の冴えている間に勉強して、夜寝るのが当然だろ!」
当然だろうか? 勉強にしろ、シナリオにしろ、夜する方が頭が冴える。なぜ、朝が冴えると決めつけるのか? その後、30代で脚本家デビューしてからも、40代で監督業を始め編集をする時も同じ。夜の作業が集中できて、効率がいい。
ただ、カタギの人たちは朝起きて会社に行き、夜終わって帰宅して寝る。学校も夜ではなく、朝から夕方だ。それは分かる。かと言って個人で活動するのに、なぜ、夕方起きて夜中がいけないのか?誰に迷惑をかける訳でもない。
中学の頃。夏休みに海に近い親戚の家に行く。そこでも朝まで本を読んだりして、起きるのは昼頃。大人たちはいう。「子供は朝早く起きろ!」それもおかしい。朝早いのは老人。子供が朝早い意味があるのか? 小学生ならセミ捕りで朝早くはあるが、こちとら朝方まで勉強(映画のね)していて、早起きしたら睡眠不足になる。
高校を卒業して1人暮らしを始めると、もう誰も何も言わない。自分の仕事に合わせて早起きする時もある。徹夜が続くこともある。でも、それは必要でやる。シナリオを書くのは夜。もう、数十年。それについてうるさくいう人はいない。夜作業したか?昼したか?を問う人はいない。大切なのは面白いシナリオを書くこと。盛り上がる編集をすることなのだ。
だが、その後もカタギの人と関わると、あれこれ言われた。「結婚しないの?」「彼女はいるの?」「正月は実家に帰るの?」大きなお世話だ。さほど親しくないのに、そんなことに答える必要があるのか? 子供の頃もそう。近所の人や親戚が
「勉強してるか?」「大学はどこに行く?」「就職は?」
あんたらに関係ないだろ? やがて気づいた。全て「ムラ社会ルール」昔から日本人を縛るあれ。小さな村で問題を起こさず、安泰に生活するための知恵。
それが日本人に染み付いている。はみ出す人を日頃からチェック。問題を起こしそうだと、あれこれ口を出してくる。とにかく皆と同じでなければならない。1人だけ別のことをしてはいけない。効率や価値観は関係ない。昔ながらの皆がやることをやる。朝起きて、夜寝る。大学を出て、会社に入る。結婚して子供を作る。ほとんどの日本人と同じ人生を求めてくる。はみ出すことがトラブルに繋がる。だから、監視し修正する。
それを日本人は無意識にやってしまう。僕はというと中学、高校時代からそのルールを破り続けた。その行き着く先が映画作りという仕事だった。そもそも映画界ははみ出し者の集まり。アーティストやクリエーターというのは普通の生活ができない人。僕からすると親も親戚も教師も近所の人も、みんなが寄って集って人生の邪魔をされているようにしか思えなかった。
僕だけではない。ムラ社会ルールには縛られない日本人もいる。が、それを実践すると悪意のない多くの人が人生を邪魔しにくるというのがこの日本という国なのだ。
「明日にかける橋」東京完成披露試写会のトーク(後編)鈴木杏x越後はる香=Wみゆき! [動画]
「明日にかける橋」東京完成披露試写会のトーク(後編)
鈴木杏x越後はる香=Wみゆき!
2人が共通で好きなアーティスト?
「明日にかける橋」東京完成披露試写会のトーク(前編) 鈴木杏x越後はる香=Wみゆき! 一度切りの顔合わせ。 [動画]
「明日にかける橋」東京完成披露試写会のトーク(前編)
鈴木杏x越後はる香=Wみゆき! 一度切りの顔合わせ。
「みんな仲良くやろう」は村社会ルールの呪縛?=大切なのは仕事のクオリティか?仲良しこよしか? [映画業界物語]
「みんな仲良くやろう」は村社会ルールの呪縛?=大切なのは仕事のクオリティか?仲良しこよしか?
映画スタッフ内でトラブルが起きた時。原因を考える。「誰が悪いか?」とは少し違う。「悪い」ではなく「原因」なのだ。だが、その発想はチームの中で理解されにくい。
あるプロジェクト。スタッフA(50代)がいた。最終決定権は監督である僕にあるのだが、Aはいろいろ決まった後も、文句を言ってくる。「それじゃダメです。***で行きましょう」それがダメな説明するだけで時間を取られる。見ているスタッフは「監督とAは仲が悪い」と思う。Pは「仲良くやってくださいよ」という。
*
仲良くではない。僕が決めたことに対してAが文句をつけてくるのが原因であり、Aが決められたことをやればいいだけのこと。揉めているのでもなく、仲が悪いのでもなく、Aが言われたことをしない。反抗的なだけなのだ。が、他のスタッフは「仲が悪い」「揉めている」と解釈する。
考えた。なぜ、Aは逆らってばかりいるのか?彼はCM畑の人間であること。映画やテレビの仕事はしたことがない。同じ映像とは言え、映画とテレビとCM。そしてドキュメンタリーは価値観、方法論、ルールがかなり違う。例えばテレビ番組の責任者はプロデュサー。映画は監督。CMはスポンサーだ。それぞれが最終決定をする。
そのためAは何かというと「スポンサーに聞いた方が」「スポンサーに報告しないと」と言う。が、映画は映画監督が責任者だ。スポンサーにお伺いを立てて演出はしない。そんなAはドラマをやったことがない。だから、CMの方法論、ルールで考える。
悪意はなく、僕に敵意を持っている訳でもない。が、彼は50歳を超えており、新しい方法論を受け入れられないというのもあった。「監督のいうことはおかしい。従えない。このままではトラブルが起きる。俺が止めないと!」と考えたのだが、彼自身がトラブルの元となっていることに気づいていない。
*
結局、プロジェクトは破綻。Aも問題だったが、プロデュサーも問題だった。深く考えずに、いろんな業界からスタッフを集めたことでトラブル続出。Aが問題であることを伝えてもクビにしない。「人手が足りない」「仲良くやってよ」としか言わない。
AはCMルール。僕は映画。どちらかが妥協するしかない。監督は僕。そして作品は映画。Aが従うしかない。それとも僕をクビにして経験のないAに監督させるか? もっと言えばCMの方法論しか分からない彼を呼んだのが最初の失敗。
子供の頃は柔軟性があるが、いい歳をした大人は新しい価値観や方法論を受け入れられない。長年培ったルールで仕事する。「仲良くしろ」と言われても自分のやり方は曲げられない。そんな彼には降りてもらうしかなかった。
でも、日本人には村社会ルールが根付いているのか? 仕事のクオリティより「仲良く」を優先することが多い。映画製作にムラ社会ルールは通用しない。いや、現代社会に「みんな仲良く」はもはや意味をなさない。「分かる者同士で頑張る」それが大切だと感じる。
映画製作は理解し辛い。あれこれ勘違いする人たち。良かれと思ってかき回すこともある? [映画業界物語]
映画製作は理解し辛い。あれこれ勘違いする人たち。良かれと思ってかき回すこともある?
毎回、撮影の手伝いに来てくれる人たちがいる。自腹でロケ地まで来て、自腹で宿泊。ボランティア・スタッフとして撮影を手伝ってくれる。でも、何かを要求するわけではなく、映画が好きなので、撮影に参加できるだけで喜んでくれる。そんな1人。ある中年男性が、こんなことを言った。
「女優のA子さん。今回は出演してないんですね?」
彼女には期待していたが、前回の映画で酷い芝居をした。だから今回は起用していない。だが、その男性はいう。
「前回、よくなかったという話は聞いてますけど、そのことで反省して次は頑張るということもある。また呼んであげたらどうです?」
その発言。悪意はないが、あえて言えば、いくつかの問題がある。まず、ボランティアで手伝ってくれるのはありがたいが、キャスティングに意見するのはどうか?もちろん、自分の思いを伝えただけで強く要求した訳ではない。が、会社の人事で、外部から来たお手伝いの人が、社長に「彼は営業部に戻してあげたら」というだろうか?それは世間話とは言えない。
シナリオだとどうだろう?「結末はああではない方がいいですよ」というだろうか? 映画ファンがネットであれこれ言うのは自由だが、撮影現場ではスタッフ、キャストだって、キャスティングやシナリオについては一切。言わない。なのに、彼は世間話のような感じでそんなことをいう。プロではないので仕方ないところもあるが、引っかかった。
*
背景を考えた。A子の失態は非常に深刻で、物語が成立しなくなる危険があったことを知らない。演技がボロボロだったが、別の俳優で撮り直す余裕も、時間も、費用もない。何人ものスタッフが物語が繋がるようにポスプロで長時間、何度も徹夜で編集せねばならなかった。A子のために苦労したスタッフ、超過した予算のことを彼は知らない。
なのに「可愛そうだ」「また呼んであげよう」と言う。また同じことが起きたらどうするのか?とは考えず、可愛そうという。映画作りは仲良しクラブではない。大学のサークル活動ではない。トラブルを起こしても、反省すればまた仲良くやろう。仲間はずれは可愛そうだ。そんな発想で彼は考えているようだ。
映画は真剣勝負。一つの失敗で、全体がダメになることがある。多くの人が迷惑し、被害も受ける。製作費は低予算でも何千万円。一大プロジェクト。それをサークル活動のように考えている。ただ、一般の人だし、映画製作が分からないのは当然。その時は分かりやすく説明した。
*
それ以来、あれこれ言うようになる。シナリオがどうだ。撮影がどうだ。彼が言うべきことではない。ボランティアで船に乗った人が船長に航路や速度について、あれこれ進言するようなもの。悪い人ではない。手伝いもありがたい。が、集中せねばならない現場で、それを言って来られても困惑する。その後、彼は手伝いには来なくなった。自分の意見が通らないからか?余計なことを言っていたことに気づいてくれたのか?は分からない。
僕にも反省がある。もともと彼にとって撮影は「仕事」ではない。祭りの参加に近い。さらに話すことで「監督はいい人」「お友達になった」と思われた。彼は撮影=祭り=サークル活動と捉えるようになる。もちろん他の人たちはボランティアに徹してくれるが、彼はそう考えた。
「みんなで仲良く」「仲間はずれはいけない」「自由に意見を出し合う」
そんな勘違いをさせた僕にも責任がある。よく映画監督は「怖い」と言うイメージがあると言われる。近づき難い。それはそれで意味があると最近は思えている。
映画人、俳優は変人=彼らに常識を押し付ける人たち?(下) [映画業界物語]
映画人、俳優は変人=彼らに常識を押し付ける人たち?(下)
映画撮影でも同じ。1人の俳優が来ないだけでも、その日の撮影はできない。それが芸能の世界。それを非常識。
「親が病気なら仕事を休むのは当然」
と批判するか? あるいは映画スタッフは最初、無給で見習いをすることがある。現場で技術を学ぶ。それを
「ただ働きさせてる!」「若者を利用している」「せめて時給を払え」
と批判する人がいる。でも、職人や調理師の世界にも同じ習慣がある。そしてタダで働くのではなく、授業料を払わずに学べるのだ。それに気付いていない。
高い授業料を払い役に立たない知識を教える映画学校が多い。現場のベテランスタッフから直接、授業料なしで学べる見習い。どちらに意味があるのか?
学校を批判しないで、見習い制度をなじるのは違う。人は無意識に、自分のいる世界の価値観や常識に縛られてしまい、当然のようにそれを相手に押し付ける。受け入れないと批判。
「おかしい!」「失礼だ!」「常識がない!」
自分は正しい。相手が非常識なのだと考える。アーティストたちも世間の常識から見ると変人なのだが、実は彼らなりの価値観やルールが存在する。でも、カタギの世界から見ると意味不明。だから、変人だと思ってしまう。
東京と大阪でも価値観が違うし、日本とアメリカも違う。宗教によって、世代によって、男女によっても違う。業界だって、それぞれの価値観やルールがあるのだ。
(了)
映画人、俳優は変人=彼らに常識を押し付ける人たち?(中) [映画業界物語]
映画人、俳優は変人=彼らに常識を押し付ける人たち?(中)
少し前の戦場ジャーナリストのバッシング。危険地帯に行き拘束され、帰国した人がいた。多くが一般の価値観で「自己責任だ」「危険なところに行ったのが悪い」と彼を批判している。あるお笑い芸人Bは登山家に例えて
「頂上まで行けなかったのと同じ。その意味では失敗だった」
と発言していたが、ジャーナリストを登山家に例えること自体が無意味。金をもらわなくても、安いギャラでも手抜きをせず、意味を感じ、命がけの仕事をする人もいる。それが多くの人には分からない。
「危険なところに行くのはバカだ!」
という発想でまとめてしまう。俳優の松田優作さんは「ブラックレイン」の出演が決まったとき、膀胱ガンにかかっていた。手術をすれば下半身不随。映画には出れない。
出演すれば症状が悪化、死亡すると言われた。が、出演を選び、亡くなった。それをバカだというだろうか?
役者にも命がけで演じる人がいる。戦場ジャーナリストも同じだ。それを外野から一般の論理で批判するのは無意味。また、親が危篤になれば、多くのサラリーマンは仕事を休み、病院に駆け付ける。
が、芸能人は「親の死に目に会えない」と言われる。舞台公演を休んで病院にはいけない。そのために公演ができず、多くのお客が迷惑するからだ。
(つづく)
「明日にかける橋」「朝日のあたる家」の太田隆文監督によるワークショップ、参加者募集!(前回は3人を太田組で起用) [告知]
太田隆文監督プロフィール
1961年生まれ。「スターウォーズ」のジョージ・ルーカス監督らハリウッド監督の多くが学んだ南カルフォルニア大学(USC)映画科に学ぶ。
「ストロベリーフィールズ」(2005年 佐津川愛美、谷村美月、芳賀優里亜、波岡一喜)
「青い青い空」(2010年 波岡一喜、鈴木砂羽、松坂慶子、長門裕之)
「朝日のあたる家」(2013年 並樹史朗、斉藤とも子、いしだ壱成、山本太郎)
「向日葵の丘 1983年夏」(2014年 常盤貴子 田中美里、藤田朋子、津川雅彦、芳根京子)
「明日にかける橋 1989年の想い出」(2017年 鈴木杏、板尾創路、田中美里、藤田朋子、宝田明)
地方を舞台にした感動作を作り続け、全ての作品は海外の映画祭で上映。大物俳優や国民的俳優が数多く出演。また、太田作品に出演したのちの大ブレイクしたのが若手俳優も多く、新人発見の監督と言われる。
太田監督作品。予告編はこちらで4本見れます!=>https://cinematic-arts.blog.ss-blog.jp/2019-10-23-6
プロの俳優のためのワークショップ!
講師、太田隆文監督(2年振り)
11月23日(土) 13:30〜17:30
場所、東京、大塚(詳しい場所は参加者に通知)
主催、青空映画舎
資格 演劇経験ありの方。初心者育成の講座ではありません。
通常のオーディションに出すタイプのプロフィールをPDFファイルで添付
(顔社員。名前、住所ー事務所で可ー 所属事務所、身長、体重、3サイズ、学歴、出演作品等)
参加希望理由を書いて、以下のアドレス(青空映画舎)宛にメールしてください。
aozoraeigasya@yahoo.co.jp
参加費5000円(当日払い)
20人ほどで締め切り(少人数でもやります)応募多数の場合は抽選。
前回は参加者3人が、太田監督の新作に出演しました。
監督からのメッセージ=>https://cinematic-arts.blog.ss-blog.jp/2019-10-31
(前回の様子)
映画人、俳優は変人=彼らに常識を押し付ける人たち?(上 [映画業界物語]
映画人、俳優は変人=彼らに常識を押し付ける人たち?(上)
作家、演出家、音楽家、シンガーソングライター、俳優、映画監督とかいうと、世間の人たちは芸術家とか、アーティストと呼び、一目置き、尊敬する。だが、その手の職業の人にはひねくれ者が多い。おまけに世の中を斜めに見て、頑固で思い込みが激しく、付き合うととても大変な人種だ。正常とは思えない人、狂っているとしか思えない者もいる。(ただ、すぐには本性を見せない?)
それを知らない人たちが多く、興味を持ち、チャンスがあると近づいて行く。が、親しくなると、トラブったり、揉めたりしがち。最初は腫れ物に触るように扱うが、付き合いが長くなると、通常の接し方をしてしまうからだ。アーティストはもともと変人。どうでもいいことに拘ったり、意味不明なことで怒り出したりする。結局、多くの人は
「失望した!」「裏切られた!」「あいつ、おかしいよ」
と離れて行く。だが、もとも彼らは変り者。「優しい」「理解してくれる」と間違った期待をしただけ、裏切られたのではなく、最初からヘンな人たちなのだ。業界の先輩や後輩を見ても変人が多い。一般常識では計れない人たちがいる。ただ、おかしい人ほど素晴らしい作品を撮っているところがあり、常識的で無い人ほど能力があることが多い。
そして変人というばかりでなく、この業界、歌でも、芝居でも、映画でも、小説でもそうだが、一般の社会とそれら業界の価値観やルールが違うというのも大きい。そんな世界の人たちに、一般社会の価値観やルールを押し付けるとトラブルになるのは必至。映画学校に行くと生徒から
「監督業は食えますか? 月給に直すといくらになりますか?」
などと聞かれる。それこそ時給50円のときさえある。でも、月給に換算したり、食える食えないというのは一般社会での価値観。そんなことで「監督になる」「ならない」を判断するのはおかしい。少し前の戦場ジャーナリストへのバッシングもそうだ。(つづく)