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映画監督業で大事なこと=人と仲良くしないこと?その理由は何? [映画業界物語]


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映画監督業で大事なこと=人と仲良くしないこと?その理由は何?

子供時代から僕はわがままだった。あれこれ言われるのが嫌い。おまけに捻くれ者。右と言えば左。左といえば右。のような感じ。NHK では絶対働けない。

そんなだから高校生になると大変だった。大人たちが「大学は?」「就職は?」「しっかり勉強をしろ」とあれこれ言い出す。大きなお世話だ!同級生まで「映画見るのやめたら成績上がるぞ」なんて言う。皆、親切ぶっているが自身の価値観を押し付けるだけ。

正月に親戚のおじさんたちに会っても同じ。「彼女できたか?」「勉強は楽しいか?」「将来はどうするんだ?」「一流大学がいいぞ!」なぜ、人はあれこれ人の人生に関心を持ち、口を出し、自分の価値観を押し付けるのか? 皆「この子のため」と思っているようだったが、なるほどと思う言葉はまるでなく、役にも立たないことを上から目線で伝えたがった。その後、高校を卒業して1人暮らしを始めたので、もう誰もあれこれ言わない。映画学校も1年で辞めた。

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それから30年。映画監督の仕事をしている。いろんな人と接することが多くなる。スタッフ、俳優はいい。理解し合える。が、それ以外の人たち。スポンサーとか、プロデュサー(社員であることが多い)とか、関係者には、あの頃の大人と同じように、自分の価値観を押し付けてくる人たちが多かった。

あの頃は一般社会にいた。大人たちが自分たちのルールを子供である僕に押し付けるのも理解はできる。が、映画製作の場で古臭いルール、違う業界の論理を押し付けてくる連中がいた。映画のクオリティが落ちると説明しても理解せず、船の底に穴を開けるようなことを言い出す(本人たちは良かれと思っている)あの頃と同じ構図だ。

次に映画製作で知り合った人たち。最初は応援してくれた。とてもありがたかった。が、次第にあれこれ言ってくる。野菜が足りませんよ」それはまだ分かる。プライベートについてあれこれ言う。さらには映画のキャスティングにまで口出し。悪い人たちじゃない。が、いつしか彼らはご近所付き合い、サークル活動のノリだ。

受け入れないと、「許せない」「裏切られた」「失望した」と言い出す人もいる。「いい人だと思ったのに」となる。違う。もともと僕は捻くれ者ででいい人ではない。思い出すのは俳優の卵を応援していた頃。親しくなると彼らに甘えが生まれ、馴れ合いになった。「監督は優しいから分かってくれる」と一線を超えてしまう。親しいから許し合える。それは素敵なことだ。が、現場でそれは許されない。

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卵も、関係者も、あの頃の大人たちも、同じ背景であると気づく。親しくなると人は無意識に自身の価値観を押し付けるものなのだ。良かれと思い、無意味なことでも伝えてくる。親しみと共に甘えも生まれる。悪意はない。僕が大人なら「はいはい。それもそうですねー」とかわせばいいのだろうが、この歳になっても気分は17歳。「お前は誰じゃ!どんな根拠で言ってんだ!」とか思ってしまう。

ただ、そんな気持ちになるから原発問題でも、沖縄戦でも関心を持ち、憤りを感じ、じっとしてられなくなる。監督料安くてもやる。「はいはい。電力会社にも事情あるので仕方ないですね」と思えれば、危険な映画なんて監督しない。結論はこうだ。

できる限り、人とは親しくならないこと。仕事では親しくなる。それは大事。でも、プライベートには線を引き。関係者とは不必要に接しない。それが重要ではないか?と思えている。が、ミック・ジャガーもデビッド・ボウイも実践していたこと。それに最近気付いた。



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富野由悠季監督の描く「ガンダム」で登場するニュータイプとは何か? なぜ、エスパーではないのか? [映画業界物語]

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富野由悠季監督の描く「ガンダム」で登場するニュータイプとは何か? なぜ、エスパーではないのか?

それは「表現者」の素質ではないか?

と前回書いた。もう少し考えてみる。本来ならエスパーや超能力者でもいいのをなぜ、ニュータイプという定義を作ったのか? また、非常に曖昧なのはなぜか?

超能力者というと、

最初からずば抜けた能力があり、敵をバッタバッタとなぎ倒す力があるように思える。が、アムロは最初、苦戦の連続だ。が、これはよく言われる「才能」と同じ定義だろう。何度も書いているが「才能」なんてものは存在しない。年月をかけて「素質」を磨き、伸ばした実力が作品を作ったり、歌ったり、演じたり、絵を描いたり、演奏することで観客を感動させる。

だが、一般の人にその「年月をかけて磨き」という部分が理解できない。訓練したからと、とても出来るものではない。天才的な演奏。涙が溢れる名演技。心に刺さる歌声。胸を突く物語。努力でできるとは思えない。だから「才能」という言葉を作り「あの人は才能があるから、あんな演技が出来る」「あんな絵が描ける」と解釈しようとしたのだ。

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それが間違った伝わり方をして「才能があれば芝居ができる」「絵が描ける」と広まった。それでは過去の映画やドラマで描かれた超能力と同じ。例えばサイコキネシスやテレパシーは最初から備わっている。ある日突然、能力を持つというパターンが多い。それを訓練して伸ばすという超能力ドラマはあまり見ない。一般が考える「才能」と同じ発想。超能力があるから物を動かせる。心が読める。富野監督はそれを

「超能力=才能。そんなものはない!」

と考えたはず。素質ある者が、戦いの中で磨かれ伸び、開花する。それがまさにアムロなのだ。最初は内気なオタク少年。それが宇宙に出て、戦いを強要されことで磨かれ、開花し、常人を超えた能力を発揮する。

これは俳優でも、歌手でも、作家でも、表現者になら全て当てはまる。そしてシャアやララのような優れた表現者と出会うことで、さらに磨かれる。が、同時に、もう一般人の理解を超えた部分であり、ハヤトやフラウは着いて行けない。

だから、優れた能力を持つ者は孤独。

理解されない。分かり合えるのは同じ力を持った者同士だけ。そんな表現者の感性、人生をアムロという主人公で描いたのが「ガンダム」という物語。ニュータイプとは表現者になれる「素質」「資質」のことだと思える。



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トリトンとアムロに共通するもの。富野由悠季の思いとは? 表現者の悲しみ? [映画業界物語]

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トリトンとアムロに共通するもの。富野由悠季の思いとは? 表現者の悲しみ?

「海のトリトン」ー緑の髪の少年トリトンは漁村に住んでおり、髪のせいで子供たちからイジメられていた。が、やがて白いイルカがトリトンを呼びにやってくる。実は彼こそがトリトン族の生き残りであり、海を支配しようとするポセイドン一族の野望を止める最後の希望なのだ....というのがプロローグ。

手塚治虫が原作、プロデュースが「ヤマト」の西崎義展。演出が「ガンダム」の富野由悠季という凄いメンバーのアニメーション作品。これが子供の頃に凄く心に残った。

それから20年ほど「トリトン」の富野由悠季が原作、演出。今も人気の「機動戦士ガンダム」ーその主人公・アムロレイは普通の少年。というより機械オタクのような子だが、ふとしたことからガンダムに乗り込み、戦争に巻き込まれていく。

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この2つの作品に共通するのは、トリトンも、アムロも、特別な子供ではないということ。アニメの主人公は往往にして明るく活発で、正義感があり行動的。兜甲児も、不動明も、剣哲也も、紅三四郎も、大鷲のケンも、東鉄也(キャシャーン)もそうだ。それがトリトンも、アムロも友達が少なく、内にこもりがち。が、やがてトリトンは大海原へ、アムロは宇宙(そら)へ飛び出して行く。

「トリトン」は手塚治虫原作だが、中身はかなり違う。ラストなど手塚治虫の世界ではなく、同じ富野監督の「イデオン」を思わす悲惨な結末。「ガンダム」はもちろん原作・富野由悠季である。そこから2人の主人公は彼の思いが反映されたキャラだと思える。では、何を反映させたのか? これも「Xmen」「鬼太郎」と同様のものを感じる。

アムロも、トリトンも友達が少なく、理解されない。アムロは1年戦争に参加。次第に仲間ができるが、ニュータイプの開花と共に、仲間たちが付いてこれなくなる。本来のアニメならそこでヒーローとなり、周りから賞賛させるのだが、ハヤトも、フラウも次第にアムロとの距離を感じて行く(そのためにアムロに片思いしていたフラウは結果、ハヤトと結婚する)

トリトンは髪の色が違うことで村の子供からイジメに会うが、イルカたちとは仲良くなる。共通するのはアムロも、トリトンも、普通に人たちには理解されない。特殊な能力がある。アムロで言えば彼を理解するのは同じニュータイプであるララであり、それに近い能力があるシャアなのだ。だが、彼らは敵側。これも従来のアニメでは理解し共感するのは味方同士のはず。

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そんなキャラクターに富野監督が投影したものとは? それこそが「表現者」の感性ではないだろうか? 鋭く感じるとる力。一般の人は気にしないことが気になる。そのために日常生活はうまく行かない。他の人と強調できない。が、海や宇宙(表現の世界)へと飛び出した時、その能力を発揮し、凄いことができる。ただ、人々は付いていけず離れて行く。そんなクリエーターの悲しみを反映さえているように思えるのだ。

その「表現者」の素質をトリトン族、あるいはニュータイプという形で描いたのではないか? また、続き書きます。



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