「ディレクターズ・カット」って何か知ってます? [映画業界物語]
「ブレードランナー」は「ブレードランナー ディレクターズカット版」というDVDが出ている。「ニューシネマパラダイス」「JFK」「ロボコップ」もある。映画によっては劇場公開されることも。「スターウォーズ」はエピソード4−6までは「特別篇」というタイトルで何年もあとで映画館公開された。それらは一体何なのか?
基本、ストーリーは同じだが、初公開時にはカットされたエピソードが復活していたり、編集が違っていたりする。なぜ、そんなことがあるかというと、特にアメリカ映画は監督より映画会社、プロデュサーが権限を持っていて、映画館が求める2時間以内の作品にすることを要求するからだ。そのためにどうしてもカットせねばならないことがある。或は編集権がプロデュサーにあるので、監督の思う編集ができないこともあるのだ。
それを監督が主導で、時間制限を気にせずに再編集したがの「ディレクターズカット」なのである。それこそが本当に監督が作りたかった形。それを観たい観客も多いのでDVDでは「ディレクターズカット版」というのがときどき発売される。
だが、「スターウォーズ」の「特別版」は少し意味が違う。映画制作当時の特撮技術がまだ今ほどではなく、製作者で監督のジョージ・ルーカスが満足するできではなかった。そこで技術が進んだ数年後にその部分を直し、よりクオリティの高いものにして劇場公開したのが「特別版」である。
多くの監督たちは映画が完成すると「はい。仕事は終わりー!」と反省する機会も持たないことが多い。「終わったことをあれこれ言っても仕方ないしねー」という者もいる。が、巨匠たちはいつまでも作品にこだわり続ける。
ルーカスは「特別篇」完成後も直し続ける。その後発売された「ジェダイの帰還」DVDのラストシーンに登場するアナキンは、エピソード2&3で演じた俳優に差し替えられているし、エンディングのEウォークの祭りも、音楽を新たに作り直して、オリジナルにはなかったいろんな惑星の風景が加えられていた。
ルーカスの場合。エピソード5以降は全て自分でプロデュースしているので、映画会社からの横やりというのはなかったが、時間が経つことで気づいた問題点を直しているのだ。製作当時に技術面で不満足だったところ。また、映画完成間近はもうバタバタで仕上げるだけで精一杯ということが多い。年月が経つことで、客観的に観れるようになり、作品をより良くする方法が見つかる。
司馬遼太郎は小説を書き上げると原稿を箱に入れて何ヶ月も読み返さなかったという。映画も小説も完成直後はクリエイターも作品を客観視できないものなのだ。ただ、映画の場合は直すためには編集室やMAルームを改めて借りなければならず高額の費用がかかるので、時間を置いて直しというのはなかなかできない。が、近年は「ディレクターズカット」という概念が出来たので、その種の特別版を作る映画も多くなった。
映画監督というのは「完成」で終わりではなく「さらに良くしたい。あそこはこうしたかった.....」という思いを持ち続けるものなのだ。スタンリー・キューブリック監督などは手直しではなく「「2001年宇宙の旅」以外は全て作り直したい!」と言っていたらしい。フランシス・コッポラ監督も「地獄の黙示録」を手直し、2時間30分の映画をさらに長い3時間16分の「ディレクターズカット」を作ってしまった。
さて、僕も近いものがある。「明日にかける橋」の公開は今年の秋頃になる。時間はあるので、「ディレクターズカット」ではないが、直しをする、秘密の直しもあり。それはいずれ発表させてもらう。お楽しみに。
「ストロベリーフィールズ」からずっと 応援してくれている和歌山県の方から みかんを段ボール箱いっぱい頂きました。 [1月ー2018]
明日にかける橋ーポスプロ日記 今年の作業をスタート [1月ー2018]
一昨年に秋にスタートした今回の映画。昨年1年を走り抜けた。休みなしで走り続けた1年。疲労困憊で正月はひたすら寝ていた。起きて年賀状を書いたら酒飲んで寝るという感じ。しかし、いつまでも休んでられず、数日前より仕事をスタートさせた。
まず、今年の映画館公開を目指して映画の再編集を行う。映画というのは「よし!できた」で終わりではない。完成試写をしたあとも気になるところ、問題点を見つけたら直しを入れる。とはいえ、直した箇所に気づく観客はほとんどいない。でも、プロの目から見てこれではダメということがある。だから直す。
そしてエンドロールの協賛も追加しなければならない。映画完成後に寄付をいただいた方、会社がいくつもある。そしてまだしばらく協賛を受け付けているので、その方々の名前も入れて行く。1万円以上ならエンドロールに名前がクレジットされる。額が上がれば、文字が大きくなる。ぜひ、お願いしたい。
というのは、映画の制作費はまだ完全に集まってはいない。映画館上映の際にDCPとか映倫審査とか費用のかかることがいくつもある。その辺の費用を払わないと映画館上映はできない。今後集まる協賛金でその辺を賄うので、ぜひ支援をお願いしたい。実行委員の方々は今も協賛金集めに走り回ってくれている。なんとか支援をお願いしたい。
こちら=>http://ffc2017.main.jp
あと、全国公開の戦略も先日、配給会社と行った。映画館公開というのは、いろんな戦略が必要。どの映画館で、いつ上映するか? 同時に、どの映画館がいつ上映してくれるか?もある。
でも、映画が公開されれば、様々な形で地元が発信される。対費用効果だけで5000万円を超える。そしてお金では換算できない効果もある。感動と共に地元の素晴らしい風景も全国に届けたい。
春夏秋冬の映像は作品を数段押し上げるのにー企業映画ではできない理由? [再掲載]
撮影は夏だったが、実は今年の冬から地元の季節を撮影をしていた。まだ、映画製作が正式に決まっていない頃だが、正式に決まって準備が出てからでは春夏秋冬を撮影できない。そこで今年の年頭ー冬から個人で風景撮影を開始した。
それらの映像は別のカメラで撮られているので、データ形式が違う。変換して取り込む。それにもまた時間がかかる。その間にこの記事を書いている。これまではその手の季節カットは編集が全部できてからはめ込んでいたのだが、今回はそれらが非常に重要な役割を果たすので、この段階で準備しておく。
以前にも書いたエピソードだが、撮影の移動中に板尾創路さんとも話した。季節の映像を撮るのは本当に大変。彼は監督業もしているので痛感すると言っていた。夏を舞台にした映画で春や冬の映像を入れようとすると、撮影終了後にその季節まで待たなければならない。
その上、またスタッフを雇い、カメラをレンタルして地元に移動。キャスト抜きだとしても数百万の予算が必要。四季を全て撮るなら本撮影以外に3回。「予算がない!」と映画会社は季節の映像を入れようとはしない。
春夏秋冬の絵が入ることで映画は数段クオリティが高くなり、奥行きができる。その町の美しさも伝えることができる。ただ、費用が大変。映画会社はその予算を捻出するのを嫌がる。
しかし、太田組ではそれが可能。カメラマンと2人でいつも車で移動。季節の撮影をする(これに関してはカメラマンに感謝。この手法を理解してくれるカメラマンは少ない)。映画会社だと多くののスタッフが行くので大変だが、こちらは2人。そんなふうにすれば安く済むのに、企業の場合はそれができない。なぜか?
監督自身が「制作部や演出部がいないと撮影が大変! ホテルの支払いまで俺がやるのか!」と嫌がる。カメラマンも「助手が必要!」と言い出す。結局10人くらいの編成になり、交通費、食費、宿泊費、ギャラを計算すると数百万になる。そんなことで美しい四季を撮影できないのが企業映画。
でも、ちょっとした努力で(監督が制作部と演出部とPを兼ねて、ホテルや食事の支払いもして、カメラマンが助手なしで撮影してくれれば)季節を撮ることができる。だから、冬から撮影スタート。春、初夏と撮影。もし、映画が中止になっていたら全部無駄になる。そう考えるから皆、やらないのだ。
絶対にやる! 映画撮影をする!だから季節を撮っておきたい!とリスクを恐れずに行動することで、低予算でもクオリティの高いものはできる。毎回、そんなことを考えながら季節撮影をする。これまでに撮った映像を変換。タイムラインに並べて行く。こうして1億円の企業映画に負けない作品を作る!
映画を応援する人たちがネガティブキャンペーン?どういうこと? [映画宣伝入門]
いよいよ映画の公開が迫り、評判も盛り上りつつあるときに。映画を応援してくれる人たちがある種の情報を流すと、応援ではなくネガティブキャンペーンになってしまうことがある。例えばこうツイートする。
「***市の映画ーーぜひ、観てください!」
これを映画ファンが見たらどう思うか?
「あー、これは今流行りのリージョナルムービーだな? ***市が金を出して、町のPRに作った町おこし映画だ。そんなものを金出して、わざわざ見に行く必要はないよ」
実際、その手の映画は多く、ストーリーは平凡。それより観光地や地元産業の紹介に力が入り「わが町の魅力を伝えよう!」というのが主旨。***市の映画、***県の映画というと、その種のPR映画だと思われる。
さらに「***市の映画!」と言われると、一般の人は「知らねえなあ。そんな町!」と興味をなくしてしまう。つまり、地元の方が応援のために「わが**市でオールロケされた映画!」とtweetしたことが逆効果になってしまうのだ。
同じ意味で「****社の映画ー」「***グループが応援する映画」という記事をFacebookに書いたりtweetする方もいる。毎回いくつかの会社やグループ。団体から支援、応援を頂いている。が、これも先と同じ。
その会社が飲料会社だとする。Aジュースなら、ライバルのBジュース社があるろう。B社社員やその製品の愛好者は「あれはAジュース社の映画。私たちには関係ない!」と思ってしまう。「どーせダメな映画だ」と敵対視されてもおかしくない。また、映画ファンからしても、先と同じで「Aジュース社の宣伝映画だな? 自社の製品を出してイメージアップしたんだろう」と考えてしまう。
地元の方や支援する会社、団体の関係者は熱い思いがあるので、どーしても「わが町の映画!」「我が社の映画」といいたくなる。それによって身内では盛り上がるが、熱く応援するほどに、その町以外の市民、その会社以外の人から見ると「私たちに関係ない映画ね?」というふうに冷めて解釈される。
友人がある地方を舞台にした映画も同じ悲劇に見舞われた。その作品。地元は盛り上がったが「我が***市の映画!」と東京公開でも同じスタイルで宣伝。惨敗した。地元のPR映画と思われたのだ。宣伝や応援はネガティブキャンペーンにしかならず、一般の人が関心を失い、映画を避け、悲しい結果となった....。
全国的な「映画宣伝」で重要なのは「市」や「県」「会社」「団体」をアピールすることではない。映画自体の、物語の魅力を伝えることだ。観客は「物語」を観に映画館に来る。PRを観るために入場料は払わない。物語を観て感動すれれば、その町が好きになり。その映画を支援した会社のイメージはよくなる。
なので、応援するときは、いろいろ肩書きを付けないで、発信することが大事。それが協力してくれた町や会社や多くの人たちへの感謝にも繋がるのだ。
【初日舞台挨拶に席を取れ!という友人。勘違いする困った人たち】 [映画業界物語]
映画が公開初日になると、思い出す話がある。僕の作品が公開初日を迎える前、友人からこんな連絡が来た。
「初日の舞台挨拶。友人と観に行くので5席押させてほしい」
はあ? 何それ? 何でそんなことしなきゃいけないのか? もちろん、映画を観てくれるのは嬉しい。だが、初日舞台挨拶はたいていの場合は争奪戦になる。出演者のファンが前日から並んだりする。その頃はまだネット予約もなく、早く行って並ぶ!ことで席をゲットできたのだ。
それを並ばずに事前に手をまわして席を、それも5席も押さえろとはどういうことか? もし、友人が連れて来る人たちがマスコミ関係者で、映画の記事を新聞に書いてくれる。或はテレビで紹介してくれるというのなら宣伝になるので考えるが、単なる友人なら席を押さえることはできない。
初日というのは映画公開にとってとても大事な日であり、ヒットするか? しないか?を決める。その日は関係者ではなく、一般の人に観てもらい、口コミを広げてもらうことが大事。そんな日に友人を呼んでも、映画の口コミは広がらない。友人はすでに映画の存在を知り、いずれかの機会に観てくれるだろう存在。初日である必要はない。
出演者のファンが初日に観てくれてこそ、その感動や喜びをあちこちで話してくれてこそ意味がある。その旨、友人に話すと、連れてくるのはマスコミ関係者ではなかった。「でも、彼らは友達が多いので、あちこちで宣伝してくれるよ〜」というが、どーだかなぁー。詳しく聞くと単に人気上昇中の出演者たちの舞台挨拶を観たいというだけのようだ。
彼らは友人が僕と親しいので、頼めば裏から手をまわしてもらえると思ったようだ。そして「友達が多いから宣伝する」とメリットがあるかのようにアプローチした。だったら、宣伝しなくていい。本当に観たければ他の人と同じように前日から並べ!
何より、僕と親しいから、宣伝するから。という理由で「初日に席を取れ」というのはダメ。初日は関係者ではなく、一般のお客様のもの。その一般のお客様に来てもらうために、出演者が勢揃いするのだ。それを友人だから、関係者だからと裏から頼んでくるのは絶対に許さない。そう告げると友人はこういう。
「だったら、2日目にもう一度、舞台挨拶をしてよ。でないと、僕の顔が立たない!」
やはり、「監督とは親しいから、席を取らせるよ」とかいっていい顔をしたのだろう。だが、そもそも、監督の一存で舞台挨拶はできない。出演者のスケジュール。映画館側の都合。それらを何ヶ月前から配給会社が調整して行うのだ。数日前に言われてできるものではない。それ以前に単に若手女優を生で観たいだけの連中のために、2度も舞台挨拶をする必要はない。
映画に貢献した訳でなない。会ったこともない。いや、映画に貢献していたとしても、初日に席を取るというのは筋違い。初日は一般のお客様のものだ。観たければ朝から列に並ぶのが筋。それでダメなら仕方のないこと。もう、その友人との縁が切れてもいいと思い断った。僕はその辺、真面目で、友人でも、プロデュサーでも、スポンサーでも、筋の通らぬことはできない。だから損をすることが多い。
でも、友人のせいで5人の一般のお客が映画を観られなくなるのは、あまりにも理不尽。前日から並べばいい。運がよければ当日でも入場できるはずだ。万が一、満員御礼で当日、入れないと嫌なので、裏から手をまわして来ただけなのだ。もちろん、初日に特別招待をする方々もいる。が、皆、それなりの意味がある。単に若手女優を生で観たいというのとは違う。
友人は「だったらいい!」と怒っていた。が、そんな理不尽を通そうとする奴と友達関係を続ける必要はない。結局、彼は上映終了間近に映画館で観てくれたらしい。連れてくるはずだった友人は誰も映画を観ないで終わった。友人は「詰まらない映画だった!」と酷評。そもそも、彼の趣味でないことは分かっていた。が、今も交流は続いている。
ただ、僕が融通の効かない奴だと分かってくれたようだ。映画は身内に便宜を計るより、一般のお客様に観てもらうことが何よりも大事なのだ。