映画「明日にかける橋 1989年の想い出」特報③ [告知]
学校でいくら学んでも夢は掴めない?ー映画監督になる方法 [映画業界物語]
高校時代。将来、映画監督という仕事をしたいと思った。いや、ちょっと違う。映画監督になりたかったのではなく、映画が作りたかったのだ。シナリオを書き、撮影をして、編集をして、観客が喜ぶ作品を作る。それができる仕事というのが「映画監督」という仕事だった。
が、1970年代すでに、大手映画会社では新入社員の募集をしていなかった。昔は、映画会社の試験にパスし、そこで助監督をしながら経験を積み、監督になるというのが王道だった。あの黒沢明監督だってそうだ。なのに、当時もう映画産業は斜陽で、映画会社はテレビドラマの下請け制作等で食いつなぐ状態。すでに自社専属の監督や脚本家というのはおらず。ほとんどのスタッフがフリーであった。
高校生の僕は、どうすれば日本で映画監督になれるのか? 調べてみた。それで先の黒沢監督ら大監督たちが映画会社の社員として、入社。監督となったことが分かる。社員募集がなくなってからは、それ以前に映画界に入り、助監督を勤めて来た人たちが監督になるケースが多かった。
ただ、それは若い人たちには当てはまらないケース。さらに調べた。CMディレクターをやっていた人が映画を作り、その後、映画監督になるという形も見つける。大林宣彦監督だ。百恵友和コンビのグリコのCM。ソフィアローレンのラッタタタ。Cブロンソンの「ん〜マンダム」とヒット作を撮ったあと、「HOUSE」で映画監督デビューしている。
「映画監督になるには、CM界で成功してからでないと今の時代は駄目か?」と思えたり。さらにハリウッド監督についても、調べた。「アニマルハウス」のジョンランディス監督は映画会社でメールボーイをしていた。コッポラは学生時代からロジャーコーマンのスタジオでアルバイト(Jキャメロンも同じ)ルーカスは大学時代に知り合ったコッポラの助監督からスタート。
それら多くがロサンゼルスのUSCという大学の映画科で学んだ者が多いことも分かる。そんなことがあって、のちのち僕もUSCを目指すことになるのだが、それはまだ先の話。一番興味を引いたのがスピルバーグ。大学時代にユニバーサル撮影所に忍び込み。そこで空き部屋を勝手にオフィスにして、「監査役」という名札を作り、スタジオ内を見学してまわっていた。
それがバレて、当時の社長、シド・シャインバーグに呼びつけられて「何でそんなことをした?」と訊かれる。スピルバーグは答える「映画監督になりたかったんです...」普通なら、追い出されて終わりだが、社長は2万ドル(だったと思う)で映画を撮ってみろ!といったのである。それで作ったのが映画「アンブリン」(のちにスピルバーグの会社名ともなる)その出来に感心した社長は彼と監督契約を結ぶ。そして「刑事コロンボ」の「構想の死角」日本では劇場公開された「激突」を監督。その後、メガヒットを連発するのだ。
調べてみると、それぞれが面白い。で、気づいたのは同じパターンで監督になった人はいないということ。それぞれが考え、努力して、夢を掴もうとしていた。「じゃあ、僕の場合はどうすればいい?」と考えた。そのあとに2つのチャンス。8ミリ映画ブームとUSC留学。しかし、そこではまだ夢の実現には至らない。さらに3回目の戦いでリーチをかけるのだが、それはまた別の機会に。要は夢を掴むのにマニュアルはないということだ。
なのに、先日も書いたが映画学校に通う今の生徒たち。卒業すれば監督や脚本家になれると思っている子たちが多い。講師の先生から「卒業しても何の意味もない。学校来るよりパチンコ屋でバイトしろ」と言われても、ピンと来ない。まじめに毎日の授業に出て、宿題をこなす。
彼らは日本の教育システムにどっぷり浸かり、発想を凝り固められてしまったのだ。高校受験=>大学受験=>就職試験=>会社員=>定年という日本人のほとんどが歩むコース、それ以外の方法論というのを考えることができない。だから、映画監督になりたければ、映画の専門学校に通う。卒業しても就職試験?はないのに、学校に通う以上の努力をしない。
映画作りはある種、芸術。サラリーマンとは違う。ただ、思うのはカタギの世界も映画界と同様に混沌として来たということ。もはや、入社しても定年まで安泰ではない。社員になることすら難しい時代だ。黙っていたらブラック企業で過労死するまで働かされる。どんなに働いてもまともな生活ができないこともある。映画監督になるには、様々な知恵を絞り、人とは違う方法で自分をアピールしなければならないが、現在においてカタギの仕事も同じ構図になっている。
年老いた人たちから押し付けられた古い価値観に従い、ただ学校に行くだけでは潰れていくしかない。何事においても絶対的な方法論はもうないんだ。自分なりの方法を探すこと。模索することが、夢を掴むこと、生き残ることに繋がるのではないか?
多くの人がレトロな懐かしい街に興味を持ち、訪れたいと思っている=だから映画による故郷PRは効果大?! [地方映画の力!]
地方映画の力ーこんな風に街がアピールされる!街の名前を覚えてもらうこと大事! [地方映画の力!]
地元に映画ロケを誘致する。あるいは地元で映画を製作する。そのことでどんな効果があるのか?何度も書いてきたが、今回は少し具体的に書いてみよぅ。
まず「明日にかける橋」が全国で公開される。観客は思う。「日本の原風景がある素敵な街だ。昭和の景色も残されているし、いいなあ」今は昭和レトロがブーム。その風景を求めて九州のある古い商店街に観光客がたくさん訪れたりしている。多くの街が古い町並みを保存したり、新しく作るときも古いデザインで建てると市から補助金が出る街さえある。懐かしい風景は多くの人を呼び寄せるのだ。
「明日にかける橋」はまさにそんな風景をたくさん撮影している。都会の人たちが見れば必ず憧れる。美しい大きなお寺、昔懐かしい駄菓子屋、木造住宅が並ぶ通り。都会のビル街で仕事をする人たちの心を癒す風景なのだ。それを映画で観る。「どこで撮影したんだろう?」パンフレットを開く、ロケ地マップが載っている。
「静岡県かあ〜。袋井、磐田、森? 聞いたことない街ばかりけど、映画に出てくるような素敵な街なんだ。いいなあ〜」
こうして、映画を観た人たちにはロケ地の存在を知る。新商品でもそうだが、まず「名前」を覚えてもらうのは大変。菓子メーカーは新製品のチョコレートの名前を覚えてもらうために億単位の宣伝費を使う。また、会社でも製品ではなく、会社名を覚えてもらうためにCMを流すところも多い。芸能人は必死で名前を覚えてもらおうと頑張る。なぜか?
名前を覚えてもらう。会社名が認知されているというのは、大きなメリットがあるからだ。街の名前も同じ。「出身はどちらですか?」と聞かれて答えたときに小さな地方の街だと多くが知らない。それが「東京です」「大阪です」というと話が早い。都会でなくても「京都です」「奈良です」というと印象がいい。「北海道です」もアピールする。まわりの反応も違ってくる。ビジネスもやりやすくなる。もし、アイドルが2人いて、片方は有名。もう一人は無名。あなたはどちらに仕事を頼むか? 知名度は大事なのだ。
製品名も、会社名も、街の名前も同じ。市の観光課やシティプロモーションという部署はまさにそれをアピールする仕事をしている。いかにして、自分たちの町を知ってもらうか?とてもむずかしいが、街の名前を覚えてもらうことがいろんな展開を呼び起こすのである。
と言って街の名前を映画の中で連呼してもダメ。まず、その街のイメージを伝えること。「素敵な街だなあ」と思ってもらってこそ「この街はどこだろう?」ということになる。そうなってこそ「次の休みにロケ地めぐりに出かけてみようかな?」と思う人も出てくる。「ロケ地めぐり」最近では「聖地巡礼」と呼ばれ映画のロケが行われた場所を訪ねてまわる旅のこと。
静岡県は新幹線に乗れば、大阪からも東京からも簡単に行ける。何といってもロケ地の1つ袋井市のキャッチフレーズは「東海道どまんなか」だ。東海道ー日本橋ー京都までのちょうどまんなかにある。だから関東からも関西からも同じくらいの距離で行けてしまう。
パンフレットに掲載したロケ地マップには、多くのロケ地がどの辺にあるのか?記されている。それを探して旅する。そんな観光客も出てくるはず。映画を観た人なら必ず、あの「明日橋」には行ってみたくなる。試写会で県外から来た人たちは「あんな橋が今もあるんだ!すごい」といっていた。
幸い。あの橋は袋井駅から歩いて行ける距離。20分くらいだろうか? 実際に見れば感動は2倍。願い事を抱いて橋を走りたくなるだろう。板尾創路さんが***するお寺は法多山。駅からバスで行ける。ここも行って観ると映画で見る以上に広く、素敵な場所であることを痛感してもらえる。磐田にも森にもそんな場所がいっぱい。自分が感動した場所。探して訪ねるのは楽しいものだ。
つまり、物語に感動した場所に人は行ってみたいと思う。CMでいくら街の風景を宣伝しても、「よし、行こう!」にはならないが、物語に感動すれば話は別だ。これが映画のPR効果の基本。「美しい風景」と「感動的な物語」のコラボが人を魅了するのだ。映画によるPR効果はまだまだある。次回もそんな話を書いてみる。