a Happy new year 2018 [1月ー2018]
監督デビューしたのが1995年。「ストロベリーフィールズ」で映画監督デビューしたのが2005年。それから13年。5本の映画を監督することが出来ました。全て脚本は僕自身。2作目からは自身でプロデュース。いずれも全国の映画館で公開。この数作は全国20館以上で上映。全作品共に海外の映画祭で上映されています。
しかし、映画は監督1人で作れません。多くのスタッフ、キャスト。そして地元の方々の応援、支援、協力。さらには応援団の皆さんの力があって初めて素敵な作品が出来ます。ここまで来れたのも皆様のお陰と感謝しています。監督生活13年目を迎え、今年はいよいよ「明日にかける橋」の全国公開。多くの方々に感動を届けられるようにがんばります。
「誰かがやってくれるはず!」と、何もしないのが日本人の習性? [my opinion]
【「誰かがやってくれるはず!」と、何もしないのが日本人の習性?】
寄付や投資を募り。その街を全国に発信する地域映画を作った後輩監督がいる。僕も地域密着型の映画を作っているので、何度も相談に乗った。製作費は決して高くないが、街や市の協力を得て素敵な映画が完成。地元の映画館で公開された。その後、彼が訪ねて来て不満を爆発させる。
「ほんと許せないんですよ!」
聞くと映画に参加した一部の地元スタッフ以外は映画館に来ず。連日、観客は一桁。なんと1週間で打ち切りとなったというのだ。地元ではかなり盛り上がっていると聞いていたし、作品もそこそこいいというので、地元では大ヒット間違いなしと思っていたのに、何があったのか?
「客が来なかったのは誰も宣伝をしないからでした。配給会社も付いたんですけど、地元はすでに映画の存在は知っている。関係者も多いし、地元の人が宣伝すれば放っておいてもヒットするよと、言っていたんです。僕もそう思っていたら、地元は地元で、宣伝会社の人がバンバン宣伝してくれるから大丈夫と、皆、撮影が終わると観客になってしまい。宣伝も何もせずに、公開を待っていたんです」
なるほど、僕も経験がある。地元の人たち。撮影中はどんなに応援してくれても、撮影が終わると、不思議なくらいに、観客になってしまうことが多い。自分が参加した、或いは出演もしている映画なのに「公開が楽しみだなー」というばかりで、次のステップに進まない。そう、宣伝という発想がまるでなく。日常に戻って活動をしなくなるのだ。
彼らに問うと「え? 映画はできたんだから、あとは観るだけだろ?」という。大きな間違い。「いつ、どこで、何時から上映するか?」と伝えないと観客は来ないのだ。その告知や宣伝をしないと駄目。なのに、街の人のほとんどがその発想がない。突き詰めて訊くと、
「誰かが宣伝してくれるんじゃない?」
と他人事のようにいう。じゃあ、誰が宣伝してくれるの? 「分かんないけど、映画って公開前にテレビや新聞で宣伝するだろ? テレビや新聞が告知してくれるんじゃない?」ーーーーばかーーーー。あれは制作側が宣伝費を払ってテレビや新聞で広告を出してもらっているんだよーー。と言いたくなる。
そんな信じられないことをいう人が多い。或いは「宣伝会社がやってくれるんじゃないの?」もちろん、宣伝会社は頼んでいる。しかし、市民の寄付で作った映画。十分な製作費はない中、がんばって作った。当然、宣伝費も十分にない。宣伝会社も僅かな費用は東京や大阪で使いたい。すでに知名度があり、映画の存在が知られている地元で、わざわざテレビCMを流し、莫大な費用を使う必要はない。
でも、地元の人はそうは考えない。宣伝費が十分にないことを知りながら、「誰かがやってくれるんじゃない?」と安易に考え、それを突き詰めて考える人はほとんどいない。その結果、映画館で公開されても、ほとんどの人が知らない。僅かな関係者のみが劇場に来る。客の少なさに驚く! 「何で?!」と不思議がるが客が来ないのは当然。
こうして、市民が総力を上げて製作した映画は一部の人しか観ることなく、上映を終えたのだという。ここに日本人の習性が見える。「誰かがやってくれるだろう」「会社がやってくれるはずだ」「市がやるだろう」みんな、そうやって他力本願になり、「誰が宣伝するんだろう?」「予算はあるのかな?」「本当に宣伝しているのかな?」「このままじゃヤバいな」とは、ほとんどの人が考えない。
これは地域映画だけではない。
「国がやってくるだろう」「自治体がやるべきだ」「誰かがやってほしい」全て他力本願。そうやって、「私たちがやらねばならない」とは考えず、大きなチャンスを失い。何もできず、苦しい状態を持続するばかり。そんな習性が日本人にはあるように思える。
そんなときに「多額の交付金を出しますよ! いかがですか?」と甘い誘惑を受ければ、諸手を上げて賛成。原発を押し付けられたりしてきたのだ。街の存亡。過疎化。いろんな問題がある。でも、そうなった理由のひとつは「誰かが何かしてくれるはず」「国に何とかしてもらおう」と他力本願でいたからではないか?
地方映画製作ひとつ観ても同じ。自分たちの街の映画なのだから、自分たちで宣伝し、全国の人に観てもらおう!とは考えず。お客になり、上映を待つだけ。映画を活用して、街のアピールに使おうとしない。全て他力本願。それが日本人のある側面をよく現していると思える。
時代は変わり、環境が変化する中。ネットに縛られていることに気付かぬ僕らは、どこへ行くべきなのか? [my opinion]
【時代は変わり、環境が変化する中。
ネットに縛られていることに気付かぬ僕らは、
どこへ行くべきなのか?】
最近、いろいろと考えることがある。ネットが普及したことで、それまで情報発信の最大手といえたテレビが、いかに都合のいい情報だけを流していたか?が分かって来た。特に311以降。報道番組でさえ、商業主義であること。それは新聞も雑誌も同じだが、疑ってかからないと、ある種の人たちに利用されているだけだと思える。
ここ数年、スマホについて考えていた。当たり前のように使っていたが、実は必要ないのではないか?と思えている。例えば、友人と喫茶店等で会うと、まずスマホをテーブルの上に置く。電話がかかってくると「ちょっと、悪い!」と電話に出る。急ぎの用ならいいが、聞いていると単なる友達からの連絡。なぜ、時間を裂き、交通費を使って新宿や渋谷まで出て来た友人(私)と話しているのに、それを遮り電話に出るのだろう?
或は、複数で話していると、必ず誰かがスマホでメールやFacebookのチェックをする。これも急ぎの仕事で、常に連絡があるというのなら分かるが、そうではなく。人の話を聞きながら、何かメールが来ていないか? ニュースはないか?とスマホをいじっているだけなのだ。
家族でテレビを観ながら食事する人たちはいる。しかし、友人と会っているとき、電話に出たり、メールやFacebookを確認するのはどうなのだろう? 何か優先順位を間違っていないだろうか? また、若い人たちは友達からメールをもらったら15分以内に返事をするという。でないと、友達関係がむずかしくなるからとか。或は、何かで知り合った人がよく「Lineで繋がってもらっていいですか?」と訊かれる。
これには背景がある。かなり昔に書いたが、今の日本人。若者だけでなく、異様なほど絆を求める。「友達」「仲間」であることを確認しようとする。それは無意識にアイデンティティの確認になっている。寂しさや孤独感の解消に繋げようとする。「こんなにたくさんの友達がいるんだ」という思いで自分の存在を確認。一昔前のプリクラも同じ。Facebookがこれだけ流通したのも同じ理由だろう。1000人友達がいる。と自慢するのも同じ理由だ。
確かに、一人一人と連絡を取り合わなくても、**君はどーしている? ***ちゃんは今日も仕事か?と近況を知れるのは便利だが、いつの間にか、それも自己確認の強迫観念となり、一日に何度もFacebookを見てしまう。最初は便利からスタートしたメールやFacebookにいつの間にか振り回され、スマホが生活の中心になり、依存症になっている人が多いことに気付く。
その背景にあるのは不安感。1人ぼっちじゃないか? 私だけ置き去りになっていないか? 僕のこと誰も気にかけてくれてないのでないか? アイデンティティが確認し辛い時代。その不安を癒すのがメール。それをバージョンアップしたのがFacebook。Twitterも同じだ。「渋谷ナウ」とか意味もなくtweetするのも「私は渋谷にいるよー。私のこと。みんな忘れないでねー」という心のメッセージだと思える。
自分の存在を、理解、確認、してもらうための行為。スマホはそれを外出しても確認できるツールとして無意識に認知されたことで、普及し、流通した側面が大きい。もちろん、先に書いたことは潜在意識での話であり、それを意識している人は少ない。そして僕の説明もかなり乱暴であり「俺はそんなじゃねえよー」と反論したい人もいるだろう。しかし、人の根源的な欲求に「人からの認知」というものがあり、それを巧みに利用したのがFacebookなのだ。
Facebookによって「友達」が増えたように感じるが、現実の代償作用でしかなく本物の友達ではない。なのに多くの人は現実の「友達」と同じ対応やアプローチをし、求めててしまう。そこですれ違いが起き、互いが傷つく。起きなくていい問題が起こる。仮想現実の中に癒しを求め、さらに孤独感を増幅しているような気がする。
そんなことを書きながらも、僕自身もスマホ依存症になっているように思える。最初は映画宣伝のツールであり、書いた記事や情報の反応を知るために、頻繁に確認作業をしていた。が、考えてみると1時間おきに確認をする必要はない。その夜にまとめて見ればいいのだ。なのに気になって、何度もスマホを見てしまう。
先日も書いたが、その記事執筆や情報発信に毎日4時間以上が取られている。映画宣伝は間もなく終了する。そして、いずれ書くが今回の宣伝活動を通じていろんなことを感じた。次のステップに上がらなければならないと思えている。そのために、今後も4時間も時間をネットに費やしていてはいけない。スローダウンして行かねば...と考えている。
そしてスマホを持ち歩き、いつでも連絡が着く。必要性が本当にあるのか?と感じ始めた。待ち合わせのときは便利だし、撮影前ならスタッフからの緊急連絡もあるが、通常はない。なのに、スマホを持ち歩くと、外出中に何度もネットを見てしまう。昔は雑誌や文庫本を持ち歩いて読んでいたのだが、今はスマホを見る。電車に乗っても漫画雑誌を読んでいる人はもうほとんどいない。
何か大きな力で、スマホという端末を与えられて身の回りや友達関係に執着することで、大切なものを見逃しているのではないか? 目を反らされているのではないか? そんな思いがあり、先日、スマホを解約した。そして、考えているのがFacebookの存在。映画宣伝の上ではとても有効だったが、いろいろ面倒なことも多い。
Facebookを有効活用しているつもりだったが、ふと気付くとFacebookに振り回されているのではないか? と思えて来る。このことはまた機会があれば書くが、どーも、日本人は機械によって大切なことを見失っているように思えている。それはまだ具体的には書かないが、物語のテーマにもなるので、あれこれ考えている。「向日葵の丘」を観てくれた方は何となく想像が着くだろう。
そんなことをあれこれ考えているのだが、時代は変わり、環境が変化する中、僕らはどこへ向かうべきなのか? 問われる段階に来ていると思える...。
映画監督にできることは、本当に小さなことだと毎回感じる [my opinion]
【映画監督にできることは、本当に小さなことだと毎回感じる】
映画撮影では地元の方にとてもお世話になる。僕の場合は地元支援で映画製作を何本もしている。だから余計に応援を頂く。同じように、地元の支援で映画を作った後輩がいる。ある街で映画を作ろうとしたとき。Bさんという人が応援してくれた。
「この街も不況で大変だ。映画で街をPRして観光客に来てもらう! そのためには映画はとても有効なPRになる。応援するよ!」
地元の人を何人も紹介してくれたり、飯を食わせてくれた。こうもいってくれる。
「オレが経営するレストランがあるんけど、撮影で使うなら、タダでいいよ!」
ありがたい存在だったが、後輩監督が街の事情を知るに連れ、Bさんの事情も分かって来た。彼は地元でレストランを経営していた。不況で客が来ない。近所には全国チーェーンの大手ファミレスがある。多くの客を奪われている。だから、映画撮影をすることで宣伝。店をアピールしたい!という思惑があったのだ。確かに映画でロケ地になれば注目されるし、映画ファンはロケ地巡りと称して店に来てくれるだろう。雑誌や新聞等で紹介されることもある。
ただ、後輩は映画にとても厳しい。プロデュサーが女優のAさんを使えといっても、レコード会社が売り出し中の歌手C子の曲を使えば、協賛金を出すと提案してもOKしない。その作品のプラスになるのなら受けるが、そうでなければ、どんなに高額の支援をしてくれても断る奴だ。
それが映画を駄目にする一番よくあるパターンだからだ。低予算の映画でも、映画というと、いろんなメリットが生まれるので、あちこちから、その手のアプローチが来る。が、そのことで映画の中身が歪られたり、クオリティが落ちるのであれば絶対に受けてはならない。
なのにプロデュサーに嫌われたくなくて、物語に相応しくない俳優をキャスティングしたり、映画のイメージに合わない主題歌を流したりする監督もいる。いろんな圧力がかかり、仕方なしに受け入れる監督も多い。
「なんで、あんな歌が最後に流れんの? 感動が台無し!」「あの女優は違うだろ? 何で出したの?」
と思う映画は、そんな事情が背景にあることが多い。ロケ地も同じだ。自治体から「**公園を売り出し中なので撮ってほしい」とか、地元の団体から「商店街でロケしてほしい」とか、リクエストが来る。
が、それで映画がよくなるならいいが、物語に合わない場所を無理に受け入れても、その店や公園も映えない。映画も駄目になる。だから、断るのだが、そのことで、その人たちとの関係が崩れたり、トラブルになることもある。後輩はまさに、そんな立場に陥ったのである。
Bさんも次第に主張が変わって来た。最初は「うちの店で撮影してもいいぞ」だったのが「うちの店で撮影するだろ?」になり、他では「うちの店で撮影することになったんだ!」というようになる。どうも既成事実を作り、撮影しない訳にはいかないように仕向けているようだ。
友人を紹介したり、飯を食わせたりしたのも恩を売って断れないようにしていたことも分かって来た。しかし、彼のレストランはあまりにも平凡で、その映画には合わない。さらにBさんの友人から「あのレストランで撮った方がいいよ」「彼とは揉めない方がいいよ。あとあと大変だから」と言われる。
後輩は悩んだ。製作が正式に決まり、いろいろと考えて断った。理由はやはり映画に合わないから。そう伝えると、Bさんは態度を180度変えた。あちこちでこう言い触れ回った。
「あの監督は薄情だ。いろいろ応援してやったのに、映画製作が決まっても挨拶なしだよ。何だったんだよなあ〜。オレの友人もいろいろと応援したのによーほんとバカ見たぜ」
Bさんはロケ地として選ばれなかったことは言わず、そう言って回った。だが、彼がしたのは地元の人を数人紹介したこと。誰も映画製作に寄与していない。あとは一度、ランチをごちそうしたことのみ。多くの人が彼以上にいろんな形で映画を応援してくれている。見返りを求めず、様々な形で支援してくれた。そんな中で、あることないことBさんはいい触れ回った...。
映画は無事に完成。地元では大ヒットとなり、多くの人が喜んでくれた。ただ、事情を知らない地元応援団がBさんの店にポスターを貼ってほしいと頼んでも、彼は頑に拒否。「あの監督だけは許せない、恩知らず!」と言い続けている。後輩はいう。
「Bさんも悪い人ではない。レストランをアピールしたいのも分かる。店の前まで行けば、通りを歩く人は皆、近所の大手チェーンのファミレスに入っていく。何とかしたい!という気持ちは理解する。でも、今回の映画はレストランが重要な舞台。Bさんの店では成り立たない。なぜ、個人ではなく街のための映画だと分かってくれないのだろう…」
僕も同じタイプの人たちと何度も会った。さして応援してない人ほど、あとになって「オレが面倒見てやったんだ」といい、あれこれ見返りを求めてくる。「応援してやったんだから、今度はオレのいうことを聞け」とか言ってくる。
が、それもおかしい。映画を作ったのは街のためであり、僕自身は毎回、借金が残るだけ。なのに個人に見返りを求めてくる。でも、そんな要求をされる。後輩にもBさんだけでなく似たようなこと言う人。批判する人がいるという。だから、こう話した。
「映画を作るには、多くの人の応援が必要。でも、メリットのなかった人は批判しがち。そして応援してくれても、あとになって批判する人もいる。けど、憎んではいけない。映画の世界は分かりづらく、誤解もされやすい。説明してもわかってもらえない部分もある。その町のためにがんばっても、理解されないことが多い。
でも、いつか分かってくれると信じて、その街で映画が撮れたことを感謝すること。僕らの仕事で全ての人に喜んでもらことはできない。できるのは、いい映画を作り、応援してくれた人たちに感動してもらうこと。町の魅力を再発見してもらうこと...映画屋にできるのは、そんなことぐらいなんだ...」
これからの時代を生きるために必要なことって何だろう? [my opinion]
自分の人生のことってなかなか分からない。
客観的に見つめることはむずかしい。先日、ある業界の先輩と話したとき。面白いことを言われた。
「最近の太田を見ていて思うんだけど....お前は学生時代、教育に疑問を感じて勉強しなくなった。日本で大学に行くのも拒否して、映画監督を目指した。でも、それは当時として単なる落ち零れ。映画界を目指したのは敗者復活戦のようなものだ。ま、だいたい、勉強できない奴が小説家や漫画家。ミュージシャンを目指すものなんだけどね。
でも、多くの場合。夢破れて就職したり、家業を継いだりする。なのにお前は本当に映画監督になった。どーにか、その世界で生きている。サクセスストーリーと羨む奴もいるかもしれないが、不安定な世界だ。来年はどうなるか?分からない。けど、興味深い部分がある。
一昔前は映画や音楽の仕事は浮き沈みがあって不安定。
だから、皆、固い会社に就職して安定を計った。なのに今は会社員でも来年どうなるか?分からない。倒産したり、窓際に飛ばされたり、リストラされたり。昔のように、おとなしくしていたら路頭に迷うことになる。
つまり、今の時代。映画やるのも会社員やるのも大差ない。ただ、違うのは映画や音楽をやってる奴らは考える。道なき道を探して、そこまで来ている。与えられたことをやるだけでなく、どうすれば道が開けるか? 前へ進むか?を思案して、ここまで来ている。でも、会社員やってる奴らは太田がよく言うように、与えられることをやるだけの暗記中心の教育で育ってきた。だから、自分で考えることが苦手。
その意味で、当時は落ち零れと言われたお前らの方が、
これからの時代を生きて行く力があるだろう。学生時代にまじめに勉強し、いい成績を取ろうと努力して来た連中は、その力がない。与えられた道を走るしかできない。ま、自分に考える力がないことに気づいていない奴も多いんだけどね。成績優秀=頭がいい、と思いがちだけど、それは違って成績優秀=与えられたことを確実にできる、にしか過ぎない。与えられないことはできないだよ。
何だか皮肉だよな。本来は親や先生、その背後にある教育システムや政府が設定した、優秀なサラリーマン育成システムの乗ることで、安定した生活が送れるはずだったのに、時代が変わり、それは崩壊、与えられたことをしているだけでは生きのびることはできない。不安定な時代を生き抜く知恵があるのは、その教育システムから落ちこぼれた連中。拒否した奴らという現実。ドラマティックだよな?」
なるほど、そういう面はあるだろう。
カタギの友人たちを見ていると本当に苦闘している。が、映画の世界で生きて行くことも簡単ではない。映画や音楽で身を立てようとして消えて行った友人も多いので、その世界を目指すことがベターな生き方とも思わない。
しかし、先輩の言う通り、これからの時代は大人たちのいうように真面目に学校で勉強しているだけでは生き延びて行けないことは確かだ。自分で風を感じ、波の大きさを見極める力がないと、混濁の時代を超えて行けないと思える。そんな時代に子供たちに何を伝えればいいのか? 考えている。それが僕の映画のテーマでもあるのだから。