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「明日にかける橋 1989年の想い出」日本版「バック・トウ・ザ・フューチャー」涙と感動の家族物語。1989年へ、タイムスリップ。 [映画業界物語]



日本版「バック・トウ・ザ・フューチャー」。
涙と感動の家族物語。1989年へ、タイムスリップ。

交通事故で死んだ弟を救え!

鈴木杏、板尾創路、田中美里、藤田朋子、宝田明。

豪華キャストで静岡県袋井市、磐田市、森町でロケ。

日本情緒漂う風景も素晴らしい。


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1年前の今頃。こっそりと大阪へ!松竹座で凄い舞台を見た。 [映画業界物語]

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1年前の今頃。こっそりと大阪へ!松竹座で凄い舞台を見た。

ちょうど1年前の今頃。僕の監督作「向日葵の丘」「明日にかける橋」に出てもらった女優の田中美里さんが大阪の松竹座で舞台公演。その頃、僕はある仕事で缶詰状態。大阪まで芝居を見に行く訳には行かないのだが、その手の舞台は大阪、東京の両方で公演がある場合が多いので、東京で!と思っていたら、大阪のみのスペシャル公演だった。

それも美里さんがほぼ全編、関西弁の台詞。彼女は金沢出身。大変な役だ。観客は関西の人たち。関西人は微妙なアクセントでもうるさく「関西弁とちゃうがな!」とすぐに批判する。

さらに、共演者は吉本興業と松竹芸能のベテラン芸人さんたち。アウェイの上に回り関西人だらけ。客も関西人!こんな大変な舞台はない。ということで、こっそりと仕事を抜けて大阪まで芝居を見に行かせてもらった。

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流石の美里さん苦戦?と思いきや堂々たる関西弁。見事見事!で、思い出したこと。「向日葵の丘」では常盤貴子さん演じる親友に延々と過去の話をする場面がある。カットを割らず、一気に撮影した。

それも病院のベッドでパジャマ姿。動くことができない。延々と話すだけ。これって凄く難しい芝居。手を動かす。歩く。立ち上がる。移動する。そんな動作があればまだいいが、座ったまま延々と話し、それも観客を惹きつけるのは並大抵の技術ではない。

そして「明日にかける橋」でも、鈴木杏ちゃん演じる未来の娘に対しても、延々とおばあちゃんの話をするシーンがある。こちらもレストランでテーブルを挟んでの会話なので、動くことができない。なのに、美里のさんの台詞に釘付け。観客は真剣に見入っていた。

動きの多い芝居。叫んだり、泣いたり、という演技は「頑張ってるな」「うまいなあ」「迫真の芝居だ」と感じやすいが、延々と台詞を話す演技は「うまい」ということに気づかないことが多い。

語られる物語に集中してしまい、素晴らしい芝居であることに気づきにくい。だが、それこそが本当に凄い演技。それを美里さんはやってのける。なかなか出来る事ではない。そんな美里さんが今回は関西弁の役。以前に見せて頂いたのは朗読劇。これも動きがなく本を読むだけで、観客は号泣していた(僕も!)

美里さんの凄さは綺麗で演技のうまい女優さんというだけではなく、「言葉」使いの見事さ。巧みさにもあること。改めて痛感。大阪まで行った甲斐あり。というのが昨年の2月か。あれから1年。次回作が決まればまたまた出演をお願いしたい女優さんである。


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日本映画はなぜ面白くないか?=「デビルマン」事件を思い出す。 [映画業界物語]

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日本映画はなぜ面白くないか?=「デビルマン」事件を思い出す。

「フォードVSフェラーリ」を見ていて、自動車会社も映画業界と同じだなあと感じた。いや、映画業界だけでなく組織というのはどこも似たようなものかもしれない。同作品ではフォードがルマンに参戦のために、その道のプロフェショナルを雇い。外部チームでレーシングマシン開発に挑むのだが、上層部が邪魔してばかり。敵はフェラーリなのに、一番の敵はフォードと言うバカな構図になってしまう。

その背景にあるのは先日から書いている「仲良しクラブ」であり「ムラ社会」だ。アメリカでも同じような環境か?と思えるほど(実はかなり違うが、それは別の機会に)日本の映画業界でもこんなことがあった。漫画の金字塔「デビルマン」を原作に映画を製作しようとした大手映画会社。当然、監督はその漫画を熟知し愛がある人が担当すべき。少なくてSFや漫画に精通している人だ。が、会社は自社でよく仕事をする忠実な存在。コントロールできる監督を選んだ。彼の得意なジャンルは高校生の喧嘩もの?

さらに何と「デビルマン」を読んだことがなく、依頼を受けてから急いで本屋に行ったと言うから大変。完成した作品は批判の嵐。原作ファンからも、原作を知らない人からも非難轟々。「何だあれは!」と言う出来だった。難しい原作なので完成度が低くなるのは分かるが、明らかに愛がなく、物語を理解していない。そもそも原作も読んでいない(その段階で近代を生きる監督として失格)そんな監督を起用すること自体がアウト。

だが、会社は原作を理解し、素晴らしい作品を作る監督より、自社でよく仕事をする。コントロールの効く存在を選んだのだ。フォードの場合は優秀な外部チームに任せながら、委員会を設置、あれこれ無意味な指示をし、チームをコントロールしようとした。「デビルマン」と似たような構図。が、まだ、フォードは専門家に依頼しただけマシなのかもしれない。

日本映画会社の場合は、その監督が相応しいかどうかより、自社に関係しているか? コントロールできるか?を優先しがち。特に最近の委員会システムはいろんな会社が入るので、それぞれが勝手なことをいい、監督がまとめて、皆の顔を立てるいう形が多い。そんなことで面白い映画が出来る訳がない。ど素人であるスポンサーたちの最大公約数的な物語しかできない。

日本映画の大作が詰まらない背景はそこにある。映画でも、車でも、その道のプロフェッショナルが担当し、周りがあれこれ言うべきではない。まして会社の都合を優先してはいけない。黒澤明の映画が面白いのは会社が何を言っても聞かず、黒澤が本当に作りたい映画を作ったから。映画も車も同じ。巨大組織から新しいものが生まれない。時代を変えていけない理由はそこにあるのだ。


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映画界でチャンスを掴むということ=バイトとチャンスはどっちが大事なのか? [映画業界物語]

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映画界でチャンスを掴むということ=バイトとチャンスはどっちが大事なのか?

昔、身近にいる若い俳優たちに声をかけたことがある。友人監督のオーディションがある。僕から頼めば参加させてはもらえる。だが、若い連中はこういった。

「その日。バイトなんすよ!シフト入ってるんで抜けられないんすよ。残念です〜」

そのオーディションで認められ、大きな役がもらえたかもしれない。が、彼はバイトを優先した。そんなことが何度もあり、それ以降「バイトがあるから」という返事をしたら二度と連絡はしないことにした。

小さな仕事を頼むこともある。が、俳優の卵たちはこういった。

「その日、友達と旅行に行くんですよ」「結婚式があるんですけど.....」「体調が悪くて..」「事務所でレッスンあるんですけど、もし抜けられたらいきます」

芝居以上に大切なものがあるということだ。彼らは想像しないのだろうか? その小さな仕事を受けたことで、いろんなスタッフとも知り合う。仕事が広がる.....。そんな想像はしないのだろう。

「バイト休むと店に迷惑かけるしなあ」

「友達との約束だから迷破れないし」

「前々から決まっていたんで」

俳優業は親の死に目に会えない仕事だ。その意識の低さと、チャンスというものの大切さを分かっていない。「また、何か声がかかるだろう」と考えている。

「すみません。劇団の公演なんですよ...」

これは仕方ない。役者として大切なことだ。だとしても、それが何度も続くと、縁がないと思われてしまう。3度ダメといった俳優にはもう連絡はしない。他に頼める先はいくらでもある。

小さなチャンスがどれだけ大きなものか? それを理解できないと俳優だけではなく、作家でも、歌手でも、映画監督でも仕事に就くのは難しい。けど、チャンスの大切さを学校では教えてくれない。だから、気付かない。これも戦後教育の弊害なのかもしれない。




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50代になると気づく、自分の能力?=自身を振り返ってみた [映画業界物語]

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50代になると気づく、自分の能力?=自身を振り返ってみた

脳の働きを勉強すると、若い内の方が記憶力は圧倒的にいい。ただ、学んだ知識を系統的に、有効活用するのは50代の方が優れているという。つまり、自分ができることを自身が理解して、その能力を発揮できるということ。分かりづらいかもしれない。別の言い方をしよう。

「走るのが早い」「成績がいい」というのは若い頃から理解できる。が、それ以外で自分にできること。自分にできないことを明確に把握するのは難しい。特に日本の社会はひたすら真面目な会社員を育てるような教育。個性とか自分だけの力を育む機会はほとんどない。

しかし、人には本来、様々な秘められた能力がある。それを日本の教育は発掘し伸ばすことはしないので、埋もれたままの人が多い。ただ、様々な環境で、あるいは個人の努力で育っていることがある。そのこと。50代になると気づく。僕も自身では当たり前だと思えたことが、意外に他の人にはできないこと。と気づいたことがいくつかある。

空を飛べるとか、瞬間移動できるなら、ずっと以前に分かったのだろうが、極々、些細なことだ。例を挙げると、先にも書いたが、何か作業を始めると他のことができなくなる。昔はさして気に止めなかったが、考えると若い頃からそうだ。シャーロック・ホームズではないが、推理を始めると飯も食わないみたいな感じ。

テレビ局で働く若いディレクターがいる。映像の編集をしながら、隣の同僚とバカ話をし、電話がかかると「はい。どーもー!」とか愛想よく対応。これは絶対に真似できない。そもそも、編集の時に誰か隣いるなんて、ありえない! バカ話なんてできない! 電話なんて出れない。いや、絶対に出ない! もし出たら「電話なんてかけてくるな!」と怒鳴ってしまう。

それでは会社員は絶対にできない。僕は社会不適合者だろう。ただ、その友人は仕事を量こなすが、クオリティは低い。批判ではない。テレビはそれでOK。高いクオリティよりスピード。その意味で合格。僕にはできない。が、逆に、その友人に「時間やるから、いいものを作れ」と言っても、それはできないだろう。彼の能力は早く、それなりのものを、会社内で作るということ。

対して僕は時間をかけて、集中して、クオリティの高いものを作る方が向いている。それが自分の能力なのだ。どちらが上ということではない。それぞれに自分の能力を使って仕事をしている。

ただ、不思議なのは子供の頃から僕は成績表に6年間「落ち着きがない」と書かれていた。なのに実は集中して何かをやるのが得意だったとは? 「大人になって落ち着いたんだよ」と言われるかもしれない。が、実は子供の頃から「興味ないことに集中できない」という性格だったようだ。でも、それが分かったのが50代になってから、人間って時間かかるよね?


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映画作りは本当にオーケストラと似ている。 [映画業界物語]

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映画作りは本当にオーケストラと似ている。

監督は指揮者。俳優は演奏者。シナリオは楽譜を書く作業。キャスティングは演奏者を選び。ピアノは常盤さん。チェロが藤田さん。美里さんはビオラという感じ。

俳優は演奏者で、役が楽器だ。「向日葵」では藤田さんにチェロを演奏してもらったので、「明日」ではクラリネットだ。とか考えた。その俳優さんが、その楽器をどのように弾きこなすか?それを考えて楽譜を書き、依頼する。

でも、1人が演奏上手なだけではいけない。共演する相手との相性や掛け合いも大事。ピアノとバイオリンの掛け合いなら、ピアノだけが上手くてもダメ。両者の息やセンスが合ってなければ、その演奏は感動を呼ばない。

長台詞や見せ場のシーンはコンサートいうソロ演奏だ。他の演奏者はお休み。ピアノが延々と続く楽章。力のあるピアニスト。つまり、俳優を選ばなければならない。

そんな場面の撮影は楽しい。常盤さんが3分以上の長台詞がある「向日葵の丘」映画館でのスピーチシーン。同じく「向日葵」で芳根京子が高校を卒業して家を出る場面。「明日にかける橋」のクライマックスでまちの人たちと父母に延々と思い伝える鈴木杏の場面。「朝日のあたる家」での山本太郎さんの長台詞。どれも素晴らしい俳優たちの本領発揮場面。

現場で見ていても圧倒され、涙が溢れる。まさにピアノ独奏。バイオリンのソロ演奏。天才たちの力を見せつける場面になる。だが、コンサート中に一度しか叩かれないシンバルも大事。その辺の楽器も疎かにできない。それがオーケストラだ。先の「蜜蜂と遠雷」を見ながらそんなことを考えていた。

予告編。本編の良さはあまり感じないけど=>https://youtu.be/b9z6NcS5Wwc


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僕がオリジナル・シナリオにこだわる訳?③(終)映画を念頭に書く。原作ものでは出来ない作品になる。 [映画業界物語]

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僕がオリジナル・シナリオにこだわる訳?③(終)

シナリオはオリジナルであるべき。と思っている。でも、書くのは大変なのだ....。「青い青い空」のときは題材となった書道を3年かけて取材。勉強したし、「朝日のあたる家」のときは原発事故を1年以上勉強した。

なので、オリジナル・シナリオを書く作家は、取材や勉強に時間とお金がかかるので、ちょこちょこと調べて(同じ題材の漫画読んで済ますとかして)物語を書いてしまうことがある。小説はその辺、本当によく調べてある。が、シナリオの準備に2年も3年もかけていられないので、短期間で適当に済ますことが多い。だから、中身がない物語になり、説得力に欠け、詰まらない映画となりがち。だから、原作もの!ということになるのだ。

でも、時間もお金もかかっても、ちゃんと調べてオリジナル・シナリオを書けば原作ものに負けない物語ができる。おまけに最初から映画にすることを念頭に書く。活字で表現する小説ではないのだから。そうすれば原作ものでは出来ない魅力的な作品になる。

「向日葵の丘」では1983年が舞台なので、当時のことを徹底して調べなければならなかった。が、幸い、僕はその頃、オンタイムで青春時代。さらに、当時からその時代を映画化したいという思いがあり、資料をたくさん残していた。何年もかけて勉強する必要はなく、数ヶ月でシナリオを書き上げた。

とはいえ、1本のオリジナル・シナリオを書くのは本当に大変だ。だから、僕は4−5年に1本しか映画を作れなかったというのもある。そして、脚本料は安いので、3年かかって取材して書いたものでも、先に上げたように、ちょこちょこと勉強して書かれたシナリオと同額のギャラしかもらえない。取材だって、執筆中の生活費だって出ない。だから、そこまでする脚本家はいないということもある。

それを僕はやっているので、毎回、映画が完成したときに残るのは借金だけ!ということになる。しかし、監督した「ストロベリーフィールズ」も「青い青い空」も、「朝日のあたる家」も、リピーターが多く、何度も映画館に足を運んでくれる人が毎回、多数いる。やはり年月をかけて調べ、取材した事実を踏まえて書いた物語なので、1度見ただけで十分!とはならない、重さ、深さを感じてくれるからだと思える。

多くの観客が繰り返し見てくれるような映画になれば嬉しいこと。そんな思いで、いつもシナリオを書いている。(了)


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僕がオリジナル・シナリオにこだわる訳?②何年もかけて取材。ようやく完成? [映画業界物語]

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僕がオリジナル・シナリオにこだわる訳?②

原作小説というのは、それ自体を書くために、長い年月ともの凄い労力をかけている。何年もかけて取材。ようやく完成する。もし、それと同じクオリティのオリジナル・シナリオを書くには、同じように膨大な年月ともの凄い労力をかけねばならない。でも、それにはかなりの経費がかかる。そんなこともあり、すでに完成している原作本に原作料を払って映画にする方が早いし、安上がりということもある。

また、オリジナル・シナリオを映画化するより、ベストセラー原作を映画にした方が知名度があり、ヒットさせやすいという現実もある。そんな訳で、映画界では時間も労力もかかる上に、知名度がないオリジナル・シナリオを使うより、人気のある原作を映画にすることが多いのだ。

では、なぜ、そんな面倒なオリジナル・シナリオを自分で書いて、それを自身で監督するのか? そこには理由がある。

もし、誰かの書いた小説や漫画で心惹かれるものがあればいいのだが、それが見つからない。面白い小説はある。でも、小説は文章を読んで面白くなるように書かれてあるので、映像化したからと面白くなるとは限らない。映画化しても面白い小説って本当に少ない「ゴッドファーザー」とか「ジュラシックパーク」とか、なかなか思いつかない。

そう考えると映画にするには、最初から映像にして面白くなる物語を用意しなければならないのではないか?と思える。俳優が演じ、美しい風景があり、音楽が流れる。そんな小説では見せられない魅力を多用してこそ、映画ならではの面白さが伝わるはず。

だから、オリジナル・シナリオであるべき。と思っている。でも、それを書くのは確かに大変なのだ....。(つづく)


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僕がオリジナル・シナリオにこだわる訳?①一番近いのはクエンティン・タランティーノ監督? [映画業界物語]

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僕がオリジナル・シナリオにこだわる訳?①

よく訊かれること。「太田監督はなぜ、自分の監督作品のシナリオを自身で書くんですか? それも原作ものではなく、全部オリジナル・シナリオでしょう? 大変じゃないですか?」

確かにそうだ。多くの映画監督は「次は何を撮ろうかなあ?」と考えると、ベストセラー小説や好きな作家の本を読み、「よし!これを映画化しよう」と思い立ち、作品をスタートさせる。そして脚本家に頼んで脚色(小説をシナリオにすること)してもらい、それを監督して映画にする。

が、僕の場合。これまで監督した4本。全てがオリジナル・シナリオ。つまり、原作がない。僕自身がストーリーをオリジナルで考え、登場人物を作り、書き下ろした脚本を使っている。それを自身で監督する。先の質問は、そんなことをする監督は非常に少ない。だって大変だから。なのになぜ?という意味なのだ。

確かに、そうだ。あのスピルバーグだって、原作もの(「ジョーズ」「カラーパープル」「ジュラシック・パーク等)があるし、オリジナル・シナリオ作品も、自身ではなく、別の脚本家が書いている(「未知との遭遇」「1941」「インディ・ジョーンズ」シリーズ)。なかなか、オリジナル・シナリオを自分で書いて監督する人は少ない。

黒澤明監督も「七人の侍」「生きる」はオリジナルだが、「赤ひげ」「どん底」「乱」「蜘蛛巣城」は原作もの。オリジナルも必ず誰かと一緒に執筆している。

「ゴッドファーザー」のフランシス・コッポラは若い頃に、「自分が監督する作品は全て自分でシナリオ書く」と宣言していた。彼も元々は脚本家としてデビューしたあとに監督になった人だ。が、なかなか、そうも行かず、「地獄の黙示録」以降は別の誰かがシナリオを書いたものが多い。

一番近いのはクエンティン・タランティーノ監督だろう。彼の作品はほとんど(全部かも?)オリジナル・シナリオ。それを自身で書いて、監督もしている。が、他にはなかなか思いつかない。というふうに、オリジナル・シナリオというのは大変。それを自身で監督までするのは、さらに大変。だから、「なぜ?」と訊かれるのだ。

(つづく)


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芸能界に憧れる若者たち。でも、そこは血を吐きながら続けるマラソンの世界 [映画業界物語]

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芸能界に憧れる若者たち。でも、そこは血を吐きながら続けるマラソンの世界

先日もカタギの兄さんと話していると、こう言われた。

「芸能人っていいよなあ。一度でいいからあんな風に有名になり、チヤホヤされて、大金を稼いでみたい!」

いろんな人がそういう。何度も書いているが、成功した芸能人ほど不幸なものはない。皆、笑顔で近づいてくるので、誰が本当の友達か?分からなくなる。金目当て、名声目当て、利用しようと近づく奴らがほとんど。誰も信用できない。孤独。芸能人の交友関係とか言っても、見せかけだけで、誰も本心を明かさない。仮面舞踏会だ。

それより心通じる友人と、酒を飲み、上司の悪口を言ったり、パジャマのままコンビニに買い物に行ったり、酔っ払って道で寝てしまっても大きな問題にならない一般市民の方が実は幸せではないか?と考える。歌も、演技も、小説を書くのも、映画を作るのも、血を吐きながら続けるマラソン。人生をかけた戦いである。でも、経済的に報われるのはごく一部。あとは評価もされず惨めに死んでいくだけ。

そして、前から感じることだが、「一般の人が努力して芸能界を目指す」というのは違う。カタギの世界では生きられない人たちが、自分が持つ能力に気づき、それを鍛え伸ばすことで力を発揮できる場所が芸能界だと感じる。いつもいう「Xmen」の世界。彼らは一般の世界ではうまく生きられない。逆にいうとその世界で、そこそこ暮らしていける人は、芸能界では生きていけない。

「俳優の***さんと友達」と自慢する人(なぜ、自慢になるのか?)女優という肩書きを持ちたいだけの人、演技をしたいのではなく「女優」ということで「私は特別なの」「一般人じゃないの!」という優越感に浸りタイプ。芸能界で仕事をすることで「人気女優と結婚できるかも?」と考える若き男子たち。そう考える段階でアウト。その世界には向いていないだろう。

その手の人は芸能を一流ブランド物と勘違いしているだけ。シャネルやグッチを身につけるだけで自分が一流になったと錯覚するのと同じ。ブランドは高くても金を出せば買えるが、芸能は血を吐きながら走らないとできない。大手事務所だ、電通だ、有名人の後押しとかいう人たちには決してできない戦いが待っている。それより会社員となり「嫌だなあ」と思いながら仕事する方がずっと幸せ。

ただ、ある程度の安定を確保してもらえる会社員なのに、その生活が苦痛で仕方ない。じっとしていられない!そんな人が芸能の世界で活躍したりする。やはりX menの世界なのだろう。


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映画監督にもいろんなタイプがある? 分かりやすく説明。スピルバーグは②と③の両方? [映画業界物語]

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映画監督にもいろんなタイプがある? 分かりやすく説明。スピルバーグは②と③の両方?

映画界にこのような分類がある訳ではない。が、僕なりに考えた3つのグループに分けてみた。もちろん、これらに属さない人もいるし、複数に属する人もいる。でも、そのことでいろいろ理解しやすくなるので、やってみよう。

①「ディレクター」タイプ
テレビドラマと同じように、撮影現場に立ち作業を進行させる。が、作品の個性は反映せず、制作費内、期日内にトラブルを起こさずに、まとめて作品を完成させるタイプ。テレビ局が製作する映画はこの手の監督が重宝される。意見を主張せず、決められたキャストとシナリオで、作品を作り上げる。スポンサー、映画会社に言われた通りの作品を作る。いわば「社員タイプ」の監督

②「職人監督」タイプ
個性はある。現場を仕切る。面白く作ってある。でも、作品で主張はしない。娯楽映画を割り切って撮っている。ハリウッドで言えばトニースコット監督。「トップガン」「アンストッパブル」等のエンタテイメントを作った。日本でも黄金期。プログラム・ピクチャーが量産されたときには、この手の人が多かった。1960年代で言えば「悪名」「兵隊ヤクザ」「眠狂四郎」「若大将」「社長」シリーズ等だ。これらは「職人タイプ」の監督と言える。

③「映画作家」タイプ。
主張がある。娯楽作品でも、芸術作品でも映画を通して自分のメッセージを伝えるタイプ。そして作品に個性があり、独特のスタイルを持つ。日本で言えば黒澤明、大林宣彦、岡本喜八、大島渚ら。主張とこだわりがあるので、時にはスポンサーや会社と激突。気難しく、文句も多い。でも、思いを貫く「作家タイプ」の監督。

映画会社からすると、「ディレクター」タイプが使いやすい。自社で決めたものを、あれこれ言わず映像化してくれる。だが、話題になったり、ヒットするのは他の2タイプの監督。巨匠と呼ばれるのは「映画作家」タイプが多い。企画からシナリオ。全てに携わり、キャストにもこだわる。全てに監督の思いが込められている。

が、映画会社からすると、一番面倒なタイプ。「この俳優はダメだ。人気があればいいというもんじゃない!」とか言い出す。作品を依頼しても、予定したものと全然違うものにしてしまう。その点、「職人監督」は制作費、撮影期間をオーバーせずに良い作品を撮ってくれる。映画もヒットする。ただ、名作、話題作はあまり作れない。やはり、その手の作品には監督の「思い」と「主張」が大事なのだ。

スピルバーグは「職人」と「作家」の両方をこなす。与えられた作品を面白く作るのもうまいが、自分で企画して社会に訴える作品も作る。「作家」なのである。日本でいうと松林宗恵監督も「職人」として「社長」シリーズを撮りながら「人間魚雷」等の戦争の悲劇を訴える「作家」タイプの作品がある。

どのタイプが一番偉いとかではない。が、それぞれを一言で評すると「従順」「温厚」「気難しい」となる。それを考えながら映画を観ると「この映画。金かかっているけど、全然面白くない!」とか「金かかってないけど、心に刺さるものがあった」「観ている間は楽しかったが、終わると何も残らない」とか感じる理由が分かるだろう。

ちなみに僕は最後の「作家」グループだと思える。5本の監督作。全て自身で企画。シナリオも書く。メッセージがある。そして気難しく、文句が多く、こだわる。そしてすぐ揉める。ただ、難しい文芸映画にはしない。どんな題材でも一方的に主張ばかりせず、エンタテイメントとして見れるように、ドキドキ、ハラハラ、泣けたり、感動したりというものを大切にする。その辺は「職人」的な部分か?

それぞれのタイプに用途がある。プログラム・ピクチャーを作るのに、映画作家を起用すればまず揉める。いろんな会社が出資した映画だと、関係者全員の顔を立てねばならない。そんな時はディレクタータイプだ。社会性のある作品を作るなら、それに関心のある映画作家タイプ。あと「ディレクター」「職人監督」はそれなりの高額なギャラを取る。面倒な作品、ヤバイ作品は敬遠する。が、「映画作家」は金だけではなく、作品を作ることがある。

こんな風に映画を観る側も監督タイプ分かっていると映画を選ぶ時にも、役立つはずだ。



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俳優は可愛く、綺麗で演技ができる人、ではない。ニュータイプというのが一番近い。 [映画業界物語]

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俳優は可愛く、綺麗で演技ができる人、ではない。ニュータイプというのが一番近い。

先日、友人と話していて盛り上がった話題がある。そう言えば、この話はブログ等で紹介したことがないな?と思えたので書いてみる。俳優という人たちは、綺麗で、可愛くて、かっこよく、センスがあり、感動的な演技ができるというだけではない。

撮影現場というと美男美女が集まり、カメラの前で芝居をする職場と思うかもしれないが、そんな印象を持ったことはない。僕が思う俳優というのは物凄く感覚の鋭い、病的に凄い人たち。超能力者というと少し違うのだけど、「ガンダム」シリーズのニュータイプのような感じが近い。空を飛んだり、手を触れずに物を動かしたり、というのではないが、一般人には感じないことまで感じてしまう。

現実的な例で言えば絶対音感素質者。ピアノの一音を聞いただけで「ド」とか「「レ」とか聞き分けられる。特殊な能力。演奏者には多くいると聞く。そんな一人に聞いたことがあるが、雨の日が耐えられないという。ピアノの音だけでなく、あらゆる音を聞き分けてしまうので、メロディのない不協和音のような雨音が耐えられないというのだ。

「Zガンダム」の(とこの種の例を挙げて何人が理解してくれるか?不明だが、適当な例が他にない!)フォー・ムラサメが「頭の中で蛇がのたうち回る感覚」「これがお前たちに分かるか!」と苦しみを漏らす場面があったが、それが役者の感覚に近いと思える。役を演じ出すと、自分に戻れなくなるとか、いろんなことを感じ過ぎてパンクしそうになる。

優れた感性が暴走し、日常生活を送れなくなる。それは俳優だけでなく、作家や音楽家も同様。芸術関係の人には多いが、世間から見ると変人に見える。芸術家として認められれば「だから変わっているんだよなあ」と理解されるが、その世界で活躍できないと、単なる変人にしか見えない。

だから、救いを求めて酒やドラッグ。宗教に走ってしまうのだ。「Zガンダム」のフォーは悲しい結末を迎えるし、主人公のカミューユでさえ、精神が崩壊してしまう。そんなところも優れた俳優たちの姿がダブることがある。


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「私の実力を認めて!」と主張する前に、皆のために何ができるか?を考えることが大事① [映画業界物語]

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「私の実力を認めて!」と主張する前に、皆のために何ができるか?を考えることが大事①

(2015年記事より)

劇団員というのは大変だ。

食って行ける劇団はいくつかしかなく、ほとんどメンバーがバイトで生活を支えいる。公演時は1ヶ月前からバイトを休み、ノーギャラの上に、チケットを100枚ほど売るのがノルマ。

そんな劇団の一つに20代のA子がいる。月18万ほどのバイト料から毎月1万ずつ貯金して、20万溜まったら、芝居に出られるという。その劇団は小さく、観客のチケット代だけでは赤字。劇場を借り、ポスターやチラシを作り、衣装や小道具を借りると、持ち出しになる。

だから、劇団員が1人20万ずつ出し合って公演をする。その金がないと、出演することができない。だが、月18万円で毎月1万の貯金は大変。月1−2回の飲み会に出るともうアウト。節約して生活しても2年かかる。

A子の夢はプロの俳優になること。

いつか映画やテレビドラマに出られるようになりたい。そう思ってがんばっている。彼女が以前、僕が講師をするワークショップに来ていたこともあり、その劇団の芝居を見た。抜群にうまくはないが、がんばっている。

もう10年以上も前の話だが、その年に撮影する僕の映画に出演しないか?と訊いてみた。エキストラに毛のはえた役だが、台詞がある。勉強になる。舞台とは違う映画の芝居を経験できる。ただ、製作費も厳しいのでノーギャラ。それれでも、撮影現場を経験できるし、プロの俳優たちと並んで芝居ができる。勉強になるはずだ。が、彼女は不満そうにこう訊いた。

「ノーギャラってどういう意味ですか?」

(つづく)



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シリーズ④ 「監督は映画と結婚した」という指摘はおかしい!? [映画業界物語]

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シリーズ④ 「監督は映画と結婚した」という指摘は正しくない!?

「監督は映画と結婚したんだね?」というコメントがいくつかあったが、それは正しくない。というよりおかしな表現であること解説する。結婚し、夫婦となると、片方が片方に尽くすだけではなく、互いに支え合い、相手を思いやり、人生を歩むパートナーとなる。

が、映画と結婚したなら、映画は何をしてくれるのか? 飯を作ってくれるのか? 疲れて家に帰った時に「お帰りなさい」と言ってくれるのか? 困った時に相談に乗ってくれるか? 嬉しい時に一緒に喜んでくれるか? 全てNOだ。映画とは結婚できないし、嫁にも、彼女にもならない。

あえていうと、映画は子供だ。映画作りは子育て。いろんな危険から守り、あれこれ教えて、栄養ある食事をさせ、成人させる。そうすれば、社会に出て人のために役に立つ。笑わせる。感動させる。大切なことを伝える。嫌な仕事を忘れさせ、2時間の間ハッピーにする。そんな世間に役立つ子を育てることと似ている。

言わば母子家庭。いや、父子家庭だ。両親はいない。父だけ。その手で子供を育てる。途中からはスタッフやキャストが加わるが、最後はまた父だけになる。映画「クレマークレーマー」のダスティン・ホフマンのような人生なのだ。

が、時々、子育ての援助をしてくれた人が現れて「この子の足は長すぎるから、切ってほしい」とか言い出す。「指は5本いらないから3本のしてほしい」と言われる。そんなことを言われて父親がはいそうですか?とは答えられない。子供を守るために戦う。最近はこんなことがあった。「この子は牢屋に入れて社会には出しません」苦労して育てた子供をそんな目に遭わせる訳には行かない。

それも子供を育ててほしいと言ってきたスポンサーだ。子供なんだと思っているのか? ある意味で殺せというのと同じ。その子が世間に出れば日本人の意識を変える仕事もするのに、牢に入れて外に出すな。関係者だけしか会わせない。それを父親は絶対に許さない。命をかけても子供を救い出そうとする。それが親だ。

その意味でも映画は子供であり、映画監督業とは父子家庭に近いもの。決して映画と結婚した訳ではない。ということでよろしく!


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結婚できなかったシリーズ③ 映画監督は女優と結婚できるのか? [映画業界物語]

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結婚できなかったシリーズ③ 映画監督は女優と結婚できるのか?

第2弾も好評なので補足編をアップ。先に書いたように現在の映画監督業は経済的に厳しい上に、長時間労働。おまけに映画界はウイアード(奇々怪界)な世界。そんな人を彼氏にすると、「何じゃこれは!!」と彼女は叫ぶしか無くなる。という話を書いた。ただ、結婚している監督も身の周りにはいる。あまり多くないが、、、さらに演出部なら結構いる。

というのは演出部。助監督も大変な仕事だが、物語を把握するのにあれこれ時間を取られても、ゼロから取材して、探し、調査して、勉強する訳ではない。出来上がった作品の世界観を把握するのが中心。対して、シナリオライターはその世界を0から勉強する。もちろん、同じ題材の漫画を読み、ちょこちょことシナリオにする作家もいるが、伊丹十三監督などは「マルサの女」の時に、国税庁査察部を徹底して取材しシナリオを書いている。

つまり、映画の仕事は真剣にやればいくら時間があっても足りないが、手を抜けばいくらでも手を抜ける。が、それは明確に作品に反映さる。そんな業界で、監督業だけ。シナリオだけ。助監督だけの仕事なら、結婚し、子供がいても、何とかやっていけるだろう。実際そんな人たちは僕の周りにもいる。

が、僕がやっているのは、監督業だけでなく、シナリオ、演出、編集さらにプロデュサー。そして宣伝まで担当する。ロケハンは本来、製作部の仕事だが、それもやる。ほぼ、7人分の仕事。それぞれが、とんでもなく時間がかかる作業なのだ。

監督、演出、編集はクリエティブな仕事だが、プロデュサー業では、資金の工面。管理、支払い。記録。申告までやる。ここはぜひ、誰かに頼みたいところだが、人件費がかかるので僕がやっている。以前はよく言われた。

「監督は大林恭子さんのような女性Pと結婚すればいいんだよ〜」

僕の師匠でもある大林宣彦監督は監督だがシナリオ、編集も担当するが、奥様の恭子さんがプロデュサー。見事なおしどり夫婦であり、憧れる。が、なかなか、そんな凄い女性とは出会わない。

では、女優と結婚は?といわれるが、以前にも書いた通り。女優は魅力的であり、映画作りの上では同志だが、仲良くなると互いに甘えが出るので、仕事以外では会わないというのが僕のルール。いい芝居をしてもらうには、そんな姿勢が大事。なので、女優と結婚したら、その人は絶対に自作には出せない。その意味で伊丹監督は奥様が女優の宮本信子さん。主演で映画を何本も撮っていたのは凄い。

ま、昔はそんな監督はたくさんいた。それは監督の収入がバカ高い時代であり、経済的な安定があるからこそ、女優と結婚生活が維持できたと言える。現在、女優と結婚している監督が非常に少ないことが、それを証明しているだろう。女優たちは今、IT系の社長と結婚することが多い。とにかく、7人分もの仕事をしていると、結婚生活は成立しない。1年で奥さんはいなくなる。また「映画監督はつらいよ」物語。その内に書かせてもらう。

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