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「明日にかける橋」脚本はどのようにして書かれたのか?③ =街を紹介するのではない。物語に街を登場させるのだ [映画業界物語]

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「明日にかける橋」脚本はどのようにして書かれたのか?③
=街を紹介するのではない。物語に街を登場させるのだ

「明日にかける橋」のシナリオを書く前に、徹底して街を歩いた。車ではなく、まずは歩く。街を知るところから始まる。観光ガイドは見ない。自分の目で見て魅力的な場所を探す。そうやって街を把握した上でシナリオを書く。

大切なのは映画で、その街がいかに魅力的か?を伝えることだが、だからといって観光地の紹介になってはいけない。よく使う手は東京から来た友人を主人公が案内するという形。だが、それでは心に残らない。考えてほしい。CMやPV(ビデオによる観光地案内)を見て、

「この街へ行きたい!」

と思うだろうか? 考えてみよう。なぜ、京都は人気があるのか?行きたいと思うのか? 京都には歴史がある。朝廷が長らくあった場所だし、数々の伝統あるお寺がある。坂本龍馬や新選組が走り回り、戦国時代には信長や秀吉が目指した街でもある。そんな数々の物語があるから惹かれるのだ。

ディズニーランドが楽しいのは、乗り物があるだけではなく、そこに昔から馴染みのあるミッキーマウス他のキャラクターがいて、映画で見た数々のパビリオンがあるから惹かれる。乗り物だけなら後楽園遊園地でもいいのだ。ここも京都と同じ、物語が重要なのだ。地方のさほど有名でないお寺を映像で取り、歴史を紹介したものを見ても

「このお寺に行きたい!」

とは思わない。そこには龍馬も、信長も絡まない。ミッキーも、ドナルドも関係ない。物語がないからだ。その意味でNHKの大河ドラマのロケ地がもてはやされるのも、同じ構図。にも関わらず、地方で映画を撮ると

「この公園を撮ってください。お台場風に作って、都会から若い人を呼びたいんです!」

と役所に言われたりする。が、そこには何の物語もない。何より、お台場に比べるとかなり貧弱。それなら若い人は東京のお台場に行くだろう。その場所を撮影すれば宣伝になると思っている人が多いが、そうではない。物語が必要なのだ。

その意味でまず「物語ありき!」ー「明日にかける橋」のメインは明日橋。決して地元で有名なものではなかった。が、あのペーソスある橋をタイムスリップする物語の中心に据えたことで、映画を見ると

「あの橋を見に行きたい。全速で走ってみたい!」

と感じる。そこに物語があるからだ。京都に行き

「ここで龍馬が殺されたんだ...」「ここに信長は城を建てたんだ...」

と感動するように、

「この橋をみゆきたちは走ったんだ!」

と感じる。売り出したい観光地をただ、撮影するだけでは観客は魅了されない。その場所の歴史を語ったり、説明すれば余計に離れてしうまう。修学旅行でガイドさんの案内をほとんどの人が聞き流すのと同じだ。

物語があってこそ、人々は興味を持つ。もっと言えば、伝統もない、歴史もないお寺であっても、そこが物語の重要場面となれば、観光地になる。ロケ場所ありきではなく、物語に相応しい場所。それこそが多くの人が訪れたくなるポイントなのだ。



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今日の一言 [2019]

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監督作品を1年ぶりに映画館で見て、反省するの巻?! [映画業界物語]

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監督作品を1年ぶりに映画館で見て、反省するの巻?!

稚内の映画祭に参加できたことで、自作「明日にかける橋」を1年ぶりに映画館で見ることが出来た。少し時間を置くことでかなり冷静に見れる。いろいろ反省もできる。80年代の日本映画を見ていると、同じ失敗を繰り返している監督が多いことを思い出す。まあ、映画監督というのは傲慢な人が多く

「俺の作品は最高だ!」

と思っているので、そうなる。また、自身の欠点に気づかない。それが自分のスタイルだと思っている監督も多かった。明らかに失敗している表現というのはある。それを反省している日本の監督はほとんど知らない。対してスピルバーグの映画を見ると毎回、猛反省していることに気づく、詳しくは以前書いたので割愛するが、ある映画を見て、その次の作品を見ると、

「ああ、あの場面。やはり本人はうまく行っていないと思ったので、今回、再挑戦しているのだな」

と思えることが何度もあった。それ以来、僕も自分の作品を必ず見つめなおす。が、完成してすぐは問題点が見えない。少し時間が経つとそれが見えてくる。DVDで部分的に見ても、発見しづらい。が、1年経って映画館で見るチャンスはない。それが今回あったので、ラッキー。

反省すべきは、やはり新たな挑戦をしたところ。青春もの。家族ものは何度も作っている。今回の挑戦は「刑事物」を取り入れたところ。主人公みゆき(鈴木杏)の弟ケンタが誘拐される部分である。撮影前には「天国と地獄」等の刑事ドラマの名作を何度も繰り返して勉強したが、見るだけでは足りなかった。

リアリティとか、重厚感とか、刑事ドラマの重さが足りない。俳優は皆、素晴らしいし、市民俳優の皆さんもとても個性的だった。先に書いた記事と同じで、監督の問題。これは「興味がない」というのではないが、僕の力不足。経験不足である。しかし、刑事ドラマとは何だろう? どうすれば刑事ドラマになるのか?

「太陽にほえろ」を目指した訳ではない。「踊る!大捜査線」でもない。できれば「フレンチコネクション」や「ダーティハリー」のような社会派で、リアルな刑事物を目指した。それら作品も繰り返し見た。カーチェイスや銃撃戦をやりたいのではない。刑事が張り込む。犯人を尾行する。それだけの場面でも、それらの映画は重くのしかかってくる。街の匂いや雑踏が伝わってくる。その辺が自分の作品では弱いことを痛感する。

それと事前に勉強するのは当然であり、やはりそのジャンルを何度も手がけるというのが大事。実際に経験しないと出来ない。俳優でも名優の演技を見ているだけでは上手くならない。自分で演じて見てこそ、問題が分かり、自分なりの表現はどうすべきか?が見えてくる。監督業も同じだ。巨匠に学びながらも自分なりのスタイル。表現を模索、我がものにすることが大切だ。

ただ、クライマックスからの展開。ここからは1年経って見ても、うまく行っている。(自画自賛!)観客の反応を見ていても、誰もグラグラしていない。退屈だと足を組み替えたり、腕を組み替えたり、体を動かすが、皆スクリーンに釘付け。そして感動シーンではグラグラ。これは涙を拭くために手を動かす、ハンカチを取り出す動作をするためだ。

それらの場面はうまく行っている。成功の要因は俳優たちの熱い演技にある。だが、難しいのはそんな名演も監督が関心のある題材でなければ、空回りすること前回の記事に書いた。映画とは小さな表現の積み上げ。逆に監督が熱い思いを持っていても、俳優のレベルが低いと感動場面にはならない。その逆はもっとダメ。映画表現は難しい。



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