明日にかける橋ー日記 8月22日 撮影8日⑬ 葛城・北の丸ロケ三 [「明日」撮影]
シナリオ上では順番が逆だが、撮影の効率を考えると、その方が早いということがある。この日のこのシーンはまさにそれ。北の丸の廊下。遠州がわらが見える素敵な廊下で撮影。
ここを宝田明さんが報告を受けながら歩くシーン。とても絵になる。しかし、世界的に評価される「ゴジラ」(元祖)に出演した宝田さんが出演してくれるなんて、凄過ぎてまだ実感がない。
このシーンのあと。いよいよ、宝田さんに出てほしかった最大の意味ある場面の撮影となる。
明日にかける橋ー撮影日記 市民の力で古里を全国発信! [「明日」撮影]
今回の撮影が無事に終了した一番の理由。委員会メンバーの皆さんの力に支えられたからである。もともと、その皆さんが「古里の魅力再発見と発信」をテーマに映画作りを企画。協賛金を集め、スタッフ&キャストを呼び、映画をスタートさせた。
そしてメンバーは皆ボランティア。ギャラも、交通費等も取らない。あくまでも市民活動なのである。今回のキャッチフレーズでもある大人の文化祭なのだ。そう文化祭は誰も利益を得ず、自分たちで何かを発信するイベント。いや、今振り返ると大人の文化祭を超えた。そう。文化芸術の活動にまでなっていた。
メンバーの皆さんは本業の合間に、或は仕事を休んで撮影に参加。単なるお手伝いでは終わらない活躍をしてくれた。それも特別な人たちではない、いわゆる普通のおばさん。おじさんなのだ。それもいくつもの市を超えて集ったメンバー。
古里のため。子供たちのための文化活動。きっと静岡でのモデルケースになるに違いない。「自分たちは普通の市民だから何もできない」と思い何かしたいのに出来ないでいる人たちが多い中、大いに励まされるものだ。感銘を受けた地元テレビ局が彼女たちを中心に取材。ニュース番組で放送。来週にもまた別の番組でも放送される。
映画撮影が無事に終わったのも、メンバーのお陰。スタッフ一同、今も感謝している。そして彼らは今も映画完成のために必要な費用を寄付で集め続けてくれている。さらに年末の上映会の計画。全国公開。それによって、町の魅力が全国に発信される。この日記ではそんな彼ら彼女らの活躍もお伝えしたい。
明日にかける橋ー撮影日記 1989年のTシャツ [「明日」撮影]
このシャツは1989年のポール・マッカートーニー・コンサートの記念。そのライブでポールは初めて「ゴールデン・スランバー〜キャリー・ザット・ウェイ」を歌った。その年こそ、今回の映画「明日にかける」の舞台となった年。
実は同じ年にRスートンズが6年振りくらいにコンサート。さらに、あのTheWHOが再結成コンサートをした年でもある。
1989年は美空ひばり、手塚治虫、松田優作らが死去。昭和から平成に変わった年でもある。来年で平成も終わり、その意味で平成元年が舞台の映画を今、作ることは平成を振り返ることでもある。
ちなみに、このシャツを撮影中に来ていた。出演者の藤田朋子さんはポールの大ファン。彼女が出演の日にこれを着た。
明日にかける橋ー日記 8月22日 撮影8日⑩ 宝田明さん出演! [「明日」撮影]
明日にかける橋ー編集日記 次々に素材が送られて来る! [「明日」編集]
音が付き、色合いが調整された撮影素材が順に送られて来る。撮影順ではなく、シーン順なのがありがたい。それをまず見る。オープニングはみゆきの部屋。朝、ベッドから起き上がる。森町の民家で撮影させてもらった場面。真夏の部屋を締め切って、エアコンも止めての撮影。サウナのような状態となったこと思い出す。
続いて家族の朝食シーン。板尾創路さん。田中美里さんが登場。元気な弟も出演。そのあとは登校シーン。ここも森町。「倉ストリート」とスタッフが呼ぶあの場所で撮影したもの。古い倉が本当に美しい。その前を高校生たちが通学して行く...。
早く編集作業を始めたいが、スタートすると現実から映画の世界に入り込むことになる。編集は作業ではなく、編集者自身が映画の世界に飛び込み、主人公と共に物語を体験すること。「不思議の国のアリス」のような体験なのだ。
と言うと「頭おかしいんじゃない?」と言われそうだが、映画作りとはそういうもの! 特に映画監督は変人と思われる仕事。シナリオ執筆も、撮影も、編集も同じ。物語の世界に入り込まねばならない。特にシナリオと編集はそう。
その間、編集室に籠もり、誰とも会わず連絡も取らない。が、それを始めると外部と接触できなくなる。映画の世界から帰って来れないのだ。しかし、月末にはスタッフのギャラを振り込まないといけない。書類の整理や経費まとめもある。地元用ポスターの制作も進めている。なので、完全に世界に入らず、準備をしながら少しずつ始めるすることにする。
明日にかける橋ー日記 8月22日 撮影8日目⑨ 葛城・北の丸ロケ [「明日」撮影]
明日にかける橋ー日記 8月22日 撮影8日目⑧ 交通事故の場面 [「明日」撮影]
過労と言う名の奈落に引きずり込まれる日々 [「明日」撮影]
撮影が終わり1週間くらいは元気いっぱいで、後片付けしたり、映画見たりしていたのだが、10日を過ぎたあたりから急激に体調が悪くなり寝込んでしまう。何かの呪い....ではなく、これがいつもパターンなのだ。つまり、撮影終わってすぐは緊張状態が続いているので、疲労困憊であることに自身が気付いていないのだ。撮影中もそうだが、午前0時頃に宿舎に戻ってから、酒を飲み始めて2時過ぎまでしゃべっていたりする。
それが撮影終了から10日ほど経つと「ちょっと疲れているなあ〜」と思えて、夜も早めに寝てしまう。それが日に日に悪化して、数日後には寝たきりとなる。部屋から出ることもできず、起きて飯食って、また寝るという感じ。医者に言わせるとそれが過労。サラリーマンが朝、元気に「いってきま〜す!」と家を出て夜、奥さんに電話。「ご主人が死亡しました」「えー朝、元気だったのに〜」というのが過労死。
極度の緊張で疲労困憊に気付かず、体がボロボロで死に至るということ。僕の後輩監督(30代)も同じ症状で死んでいる。前の日の夜まで元気で「また、明日〜」と言ってスタッフと別れた。翌朝、来ない。スタッフルームに行くとそこで死んでいた。よく知る後輩で本当によく仕事する奴で、監督なのにあらゆる仕事をしていた。5人分くらい働いていただろう。そんなふうに過労死というのは、誰から見ても元気なのに、コロッと逝ってしまう。
僕も毎回、医者から「休まないと過労死するよ」と言われるが、休める訳もなく撮影を終える。そのあと恐怖がやって来る。先に書いたように最初の10日ほどは元気。でも、次第に緊張が解けて来ると恐怖の扉が開き出す。そこから疲労困憊というヘドロのような悪霊が溢れ出して来るのだ。これがよくある疲労で「あー疲れたー」というのならいい。そうではなく、心も体も奈落の底に引きづり込まれるような感じ。
集中力が低下。テレビも見れない。もちろん、パソコンもダメ。メール書く気力もなくなり、電話にも出れない。近所のコンビニまで行く力もなくなり、ひたすら寝る。後輩が心配して「いいにくいですが、監督は鬱病じゃないですか?」と言われ、心療内科に行ったこともある。そうしたら「過労」と診断された。が、まるで鬱病。何もできなくなる。精神的に肉体的に極限を超える状態が長期間続いたために過労となるらしい。
と話しても、ほとんどの人は想像できない。何もできない状態なんてありえない!と何人もに言われた。そして過労の状態をどう説明すれば分かってもらえるか? 何度経験しても僕自身もうまく言えない。あえて言えば、先に書いたように扉が開き、ヘドロのようなものが押し寄せて来て、飲み込まれる。(シャイニングみたい?)そのまま地獄に引きずり込まれるような感じ。
何もする気がせず、寝てばかり。「青い空」のときはそれが数ヶ月続き(あのときは4年準備期間があったし)自宅入院状態が続いた。過労は病院で治療できるものではなく、ひたすら休むしかない。が、意外に理解されない症状で「怠けている」「ダレている」というふうに言われてしまう。それで本当に死んだら「あー本当に過労だったのね?」と理解されるのだろう。
だから、ダウンしてもなるべく言わないようにする。症状がさほど重くなければ、Facebookの記事くらい書けるし、テレビもドラマは見れないが(集中力のいらない)バラエティなら見れる。そこからリハビリ。毎日、Facebookの記事を書くとか、DVDを見るとかして日常生活を取り戻して行く。
しかし、本当に過労の最中は地獄だ。単に体が疲れているだけでなく、心も疲れていて、このまま死んでもいいか....と思えてくる。食欲もなく、何も食べてないでも平気なので、酒ばかり飲んで、、墜ちるとこまで墜ちるか・・・なんて弱気になる。
病気になると、性格が変わるとか、弱気になるとかいうが、それが実感される。生きて行く気力がなくなる。でも、少しずつ元気なると、また、がんばるか。。。と思えるのだが、過労は恐ろしい。と書いても実感できる人は少ないだろう。分かりやすく言うと、1週間働いたら1日休む。1ヶ月働いたら4日休む。
それをしないで1年働くと、その分、強制的に48日(日曜日の1年分)くらい動けなくなるというのが過労だろう。実際、僕は4年ほど休まずに仕事したのだ、5ヶ月ほど寝たきりとなった。計算が合っている。今回も編集作業開始が目前。いつまでも倒れてはいられない。