「明日にかける橋」の舞台ー1989年とはどんな時代だったのか? [「明日」編集]
映画「明日にかける橋」は1989年を舞台にしている。昭和64年。平成元年である。バブル最盛期。日本の企業が海外の会社やビルを買収。日本人観光客もニューヨークの高級品点で爆買い(?)。円の力は強く、今では考えられない好景気だった。
広告代理店の社員は会社からもらったタクシー券で出社。OLたちは豪華レストランで毎晩のように男性から奢られ、大学生たちはスキーウェアを毎年買い替えて、卒業旅行と称して海外へ。週末の六本木のクラブはお祭り騒ぎ。扇子を振りながらお立ち台に立つ若い女性たちが踊る姿がそれを象徴した。週末ともなるとタクシーが捕まらない。それなのエピソードが象徴するパブル経済。それが1989年である。
劇中でのエピソードにもあるが、日本の企業がアメリカのコロンビア映画やユニバーサル映画(正確には1990年)を買ってしまうという驚くようなこともあった。ニューヨークのロックフェラーセンターも日本企業が買収。当時は日本製品がアメリカ中を席巻していた。SONY、Pnasonic文字が着いた電化製品がどこの家庭にも存在。車も日本車が売れまくった。
その反発がジャパン・バッシングである。アメリカ車の売れ行きが悪くなったことで労働者がリストラ、日本憎しの思いが政治活動にまで発展する。そんな時代が下り始めたのが1989年。好景気はこのあとも続くが実質的にはこの年から下り坂となる。同時に時代が大きく変わった年でもあった。
世界に目を向けても1989年は時代の変わり目だった。東西ドイツが統合。ベルリンの壁が崩れた。東西冷戦の終わりである。中国の天安門事件。チャウシェスク政権崩壊。日本国内でも昭和から平成に変わったように時代を築いて来た人たちが亡くなる。美空ひばり、手塚治虫、松田優作。犯罪の形の大きな変化がある。この年に起きた宮﨑勤事件、女子高生コンクリート詰め殺人事件等の犯罪はそれまでになかったタイプ。これ以後にこの種の「恨み」「金」が目的でない異常犯罪が次々に起こることとなる。「酒鬼薔薇聖斗事件」「西鉄バスジャック事件」「秋葉原通り魔事件」らがそれである。
ハリウッドではシリーズものが次々に作られる。「バック・トウ・ザ・フューチャーpart2」「スタートレックV 新たなる未知へ」「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」「ザ・フライ2」「13日の金曜日 ジェイソンNYへ行く」「リーサルウエポン2」また、この年に公開され大ヒット。シリーズ化されたのが「ダイハード」「バットマン」である。ハリウッドが確実に客を呼べるシリーズものに執着し出したのはこの頃から。日本企業に買収されるほど、リスクを恐れ弱体化していたことも感じさせる。
音楽でいうとローリング・ストーンズが久々に、全米コンサートツアーを開始。日本には翌90年に初来日。アメリカではマイケル・ジャクソン、マドンナ、ブルース・プリングスティーンが相変わらず人気だった。国内では80年代から続くアイドル系歌謡曲と「いか天」等に象徴されるバンド系が人気を博す。前者でいうと斉藤由貴、南野陽子、浅香唯、小泉今日子、森高千里、光GENJI。後者では爆風スランプ、プリンセス・プリンセス等。若い人たちはレンタルCDを借りて、カセットテープに録音して聴くというスタイルが多かった。レンタルビデオもまだVHSテープが主流。LDはほとんどレンタルされず、DVDの活躍はまだ先のことである。
それから27年。間もなく、その平成も終わろうとしている。バブルで始まり、その後の長い長い不況。今の若い人たちは好景気を知らない。ニューヨークのティファニーに押し掛けた日本人を少し前の中国人観光客による日本での爆買いで思い出す。シャープが台湾の企業に買い取られ、大手電気メーカーも厳しい経営を続けている。今、ニューヨークのタイムズスクエアには見慣れたSONYのネオンはもうない。ロスアンゼルスの空港に置かれていた日本製の大型テレビも今は韓国製。平成は日本人にとって、どういう意味を持つ時代だったのか?
「明日にかける橋」の舞台。1989年のヒット曲 [「明日」編集]
1位 プリンセス・プリンセス:「Diamonds (ダイアモンド)」
2位 プリンセス・プリンセス:「世界でいちばん熱い夏」
5位 Wink:「愛が止まらない ~Turn It Into Love~」
7位 Wink:「淋しい熱帯魚 ~Heart On Wave~」
14位 斉藤由貴:「夢の中へ」43位 森高千里:「17才」
15位 浜田麻里:「Return to Myself ~しない、しない、ナツ。」
45位 渡辺美里:「ムーンライト ダンス」爆風スランプ「ランナー」
小泉今日子「学園天国」 薬師丸ひろ子「Lovers Concert」
(テレビドラマ)
「愛し合ってるかい?」「ハートに火をつけて!」「パパはニュースキャスター」 「春日局 (NHK大河ドラマ)」 「教師びんびん物語II」
(映画)
北京的西瓜 バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2 ブラック・レイン 危険な関係 13日の金曜日PART8/ジェイソンN.Y.へ インディ・ジョーンズ/最後の聖戦 スタートレックV 新たなる未知へ 彼女が水着にきがえたら
ザ・フライ2 二世誕生 ミシシッピー・バーニング レインマン 告発の行方 ダイ・ハード 帝都大戦 どついたるねん ゴジラvsビオランテ ファンシイダンス ミステリー・トレイン セイ・エニシング ハーレム・ナイト レディ! レディ READY! LADY
明日にかける橋ー編集日記 詰め編集を進める! [「明日」編集]
詰め編集。昨日も朝から夜中まで、この段階になるとホント精密機械を作っているような感じ。0.2秒映像を削ったり、1コマ(24分の1秒)足したりという作業。一昨日のスタート時の尺(上映時間)は
最初 2時間37分。
これをその日の内に2時間33分に。
それを昨日の作業で2時間26分に。
初日4分。
2日目7分。
合わせて11分削った。
現在は2時間26分。目標としてはあと26分切りたい。だが、1日14時間ほど作業して4分とか、7分というのが現実。まだまだかかる。
尺を短くすること自体が目的ではない。1秒。2秒という無駄なカットをなくすことで映画自体のテンポがよくなり見やすくなるからだ。そしてカットするといっても、1シ−ン(2分から3分)をそのまま削除したのでは意味がない。物語の辻褄が合わなくなる。なので1秒1コマというカットを頭のシーンから続けて行く。
たぶん、観客は1秒切っても気づかないが、全体として映画のスピードが上がることは感じてくれる。つまり、退屈しないということ。映画は芸術でもあるが、僕はエンタテイメントだと思う。作家が「俺様の主張を観せてやる!」的な作品もあるが、観客が楽しんでこそ映画だと考える。
昨日は「愛と悲しみの山河」の章まで行ったので、本日はその続きから。これでラストまで詰めて行ったら、もう一度、頭から作業する。漆塗りで二度塗りという技法があると聞くが、それに近いかもしれない。一度最後まで編集して終わりではなく、もう一度、最初からさらに編集を詰めて行く。もう切れないと思っても、時間を置くと切れる箇所が見つかるもの。
ボクサーが体重をギリギリまで絞るのにも似ているかもしれない。ボクシングは体重を絞った方がパンチ力が増すというが、映画も同じ、詰めた方がクオリティが上がる。ただ、肝心なシーンをカットしたり、あまりに早く展開し過ぎて情緒がなくなっては元も子もない。編集により感動できるシーンが出来なくなることがあるからだ。その点を注意。本日も作業開始。
明日にかける橋ー編集日記 いよいよ最終行程・詰め編集作業! [「明日」編集]
本編集が終了したので、次の作業。本来、本編集が終わると編集は完全に終わりなのだが、僕の場合は「詰め編集」というのを行なう。細かな部分の修正。1秒とか数コマ詰めることでテンポがよくなる。さらに見直すと繋がっていないところ。必要のないコマがあったりもするので、その辺を詰めて行く作業だ。
この場合。目安にするのは尺。つまり上映時間。現在のところ2時間37分。これを2時間目標で詰めていく。シナリオにある部分でも映像にすると、説明が簡略化されることもあるので、そのような場面は短くする。現時点で2時間半は長いように思うが、「向日葵の丘」は編集終了時で3時間あった。それをさらに詰めて2時間20分にした。
「朝日のあたる家」も2時間半あったのを2時間にした。1秒ずつ=60カット切れば1分短縮。30分なら1800カ所切れば短縮できる。1カ所切るだけで、3分として.....あーー計算すると胃が痛くなるのでやめ。作業を続ける。
編集の友で肌が炎症? [「明日」編集]
明日にかける橋ー編集日記 ラストシーンはこだわれ! [「明日」編集]
映画は終わりが肝心。「んーーーお見事!」と唸りたくなるエンディング。涙なしでは見れないラストシーン。やはり一番印象に残るのは映画のラストであることが多い。ラストが素晴らしいと思わず、映画館で頭を下げて「参りました!」といいたくなる。でも、ラストはお金をかければいいというものではない。やはりセンス。だから低予算映画でも素晴らしいラストは可能だ。
個人的に大好きなラストを思い出してみる。「ゴッドファーザーPARTⅡ」あのマイケル・コルレオーネの寂しい表情。兄を殺させた罪悪感。秋の風景。そしてニーノ・ロータの曲。本当に素晴らしい。新しいところでは「サイン」M・ナイト・シャマラン監督のスリラー映画。ラストシーンはワンカットの中で時世が変わる。台詞もないのにメル・ギブソン演じる主人公の新たな思いが伝わる。シャマラン監督、かなりセンスある。
そして「コクーン」はR・ハワード監督「ディア・ハンター」はM・チミノ監督。「アメリカン・グラフィティ」のG・ルーカス。「ロボコップ」P・バンホーベン。皆、ラストが本当に素晴らしい。
ちょっと意外かもしれないが「ダークナイト」シリーズもラストはかなり素敵だ。「ビギンンズ」「ダークナイト」「ライジング」とまず共通するのはドラマが終わったとたんにタイトルが出る。通常はオープニングだが、ノーラン監督はラストに持って来た。それもラストに出るからこそ意味のある使い方。
さらに、音楽と映像との調和が凄い。映像もフェードアウトではなく、いきなり黒みになる。そして音楽。おーーーという感じ。文章で表現しにくい。これもセンスだ。それでいえば日本の北野武監督も素晴らしい。「HANABI」のラストシーンは打ちのめされる。見事としかいいようがない。最後の銃声2発。でも、それを見せない。ラストカットは驚く少女の顔。そしてブラックアウトでテーマ音楽!凄い。
これも意外に言われなくて悔しいが「Brother」のラスト。主人公であるたけしではなく、黒人の俳優のアップで終わる。彼が映画で「ファックユー。ユーレアリィ・ファクキング・メン...」と毒づいたあとに「サンキュウ、サンキュウ・ソーマッチ...アニキ」と日本語でいい画面はブラック・アウト。
数秒の間を置いて久石譲のテーマ曲が流れる。その黒みの間が本当に凄い。そこで涙が溢れる。これは北野監督のセンスなのだろう。「ソナチネ」も「キッズリターン」もラストは素晴らしかった。えーーここで終わるのーーというのも、良く出来たラストシーンに多い。「スケアクロウ」がまさにそれ。「俺たちに明日はない」「明日に向かって撃て」も衝撃的。「ここで終わるか......」と打ちのめされた。そんな訳で名作と呼ばれる映画はラストシーンが素晴らしい。
なので僕もラストにはもの凄くこだわる。日本映画はよくフェードアウトで終わるが、「青い青い空」ではキャストたちが皆で手を上げたところでフリーズ。そしてブラックアウト(いきなり画面が暗くなる)を使い、次の瞬間にキャスト・クレジットをポン出した。フェードインではない。音楽は続けて流れ、そのままラストクレジット。「ここで終わるかーーー」という感じを出した。
「向日葵の丘」はシナリオでは映画館の中で終わるのだが、映画はその後、常盤貴子さんがバスに乗っているシーンが続く。その中で8ミリカメラを抱きしめたとたんにテーマ曲で、ここはフェードアウト。で、エンドロール。「朝日のあたる家」は先の2つと違い、俳優のショットで映画は終わらず、キャストたちが乗る車の後ろ窓に映る町の風景を延々と映す。そしてフェードアウトしてエンドロール。音楽は切らずに流れ続ける。
これらも文章で書くと想像できないと思うが、見てもらうと「うーーーーーーん」と唸るラストになり、観客の胸に突き刺さる。多くの人が僕の映画を褒めてくれるが、ラストがいい!と指摘してくれる人がなかなかいない。ま、ラストを含めての映画を評価してくれているのだけど、ラストは本当にこだわる。今回の「明日にかける橋」もシナリオ段階から映像と音楽を考えていた。
それを昨夜編集。かなりうまく行ったので、繰り返し4度も見た。今朝からも2回見た。夜見るといいが、昼見るとダメということもあるので、時間を置いて見た。が、これなら行ける。ぜひ、12月下旬の地元完成披露上映会で、そのラストを確かめてほしい。チケットは発売中。
詳しくはこちらの公式HP=>http://ffc2017.main.jp
明日にかける橋ー編集日記 芸術家と不良の関係? [「明日」編集]
ここ2ヶ月近く毎日、編集作業の進展を綴っている。その中で「電話をしないでほしい」「連絡を控えてほしい」という常識外れな要望を多くの関係者が受け止めてくれて本当にありがたい。ただ、今回初めてお仕事した方の中には困惑した人もいて「監督。電話しても出てくれないからなあ〜」とボヤいていると聞く。
本当に申し訳ない。携帯の電源を切っている。何度も書いたように編集作業とは霊を呼び出すような仕事。作業中に電話したり、人と話したりできない。そんなことをしたら数日間、作業がストップしてしまう。
ただ、常識でいえば仕事中に電話を受けるのは当然であり、同僚と話したり、上司から指示を聞いたりするのも仕事。なので「監督って、ちょっとおかしいんじゃないの?」と思われても仕方ない。ーというより、そう思っている人が多いけど。そんな際に業界外の人は「まあ、芸術家だからなあ〜」という形で理解してくれることがある。
ある授賞式に出たときも、僕はタキシードとかスーツとか持っていないので、Tシャツにジャケットという服装で出た。主催者に怒られるかと思ったら「監督は芸術家だから、それでいいよ」と理解された。ま、貧しくて、スーツって持ってないというだけのことなんだけど。「一般の人ってそう思うんだ.....」と再確認。芸能人を含め、その種の人たちの中には非常識な人が多い。その代わり人が書けない絵や小説を書く。芝居をする。歌を歌う。だから、変わっていても当然と考えるのだろう。
ある意味正解。めちゃめちゃな生活をしている画家とか、何ヶ月も髪を洗わない小説家とか、ゴッホなんて「耳がうまく描けない」と自分の耳を切ったことがある。結局、自殺。小説家でも自殺した人が結構いる。やはり、その種の人たちには変人が多い。でも、だからこそ素晴らしい作品が作れるのだ。まともな生活が送れる人に、感動の大河ロマンとか書けない。魂を揺るがす芝居はできない。
しかし、僕自身。自分が芸術家であるとは思えない。ごく普通の人生を歩んでいると考えていた。特別な能力もないから、努力するしかない。その上、タバコも博打もしないし、いたって真面目。吐くまで飲まないし、パチンコも麻雀もしない。が、この10年ばかり考えてみると、やはり「カタギ」ではないことに気づく。子供の頃から「変わっている」とよく言われていたのも思い出す。
そいう考えると「芸術家」はおこがましいが、「クリエーター」タイプではあるのかもしれない。「物を作る人」だ。映画や音楽でなくても、機械でも、楽器でも、その種のものを作る人はこだわりが激しい。仕事に夢中で家族を放りぱなし。食事もせずに仕事。常識を超えたことを言い出す。行動に移す。本田宗一郎らのエピソードにはそんな話がいっぱいある。
芸術家でなくても、その種のクリエーターたちも同じようなところがある。常識に縛られていたら、新しいものや素晴らしいものは作り出せない。集中し、真剣になれる環境作りも大切。人はどうしても流されてしまう。環境に影響もされる。ボクサーはタイトルマッチ前にジムに泊まり込むし、作家は締め切り前にホテルに缶詰(出版社が取ったホテルの部屋に泊まり込み原稿を書くことー編集者しか場所を知らないので、他からの連絡が入らず執筆に専念。食事もルークサービス。〆切に間に合わすためにそうする)になるというのも同じ発想だろう。
そう考えると、編集室にこもり連絡を絶ち、作業に専念する理由も理解しやすくなるのではないか? ただ、基本、映画人を含めた芸能関係、あるいは芸術関係の人たちは、やはり常識に縛られない人が多い。古い価値観を嫌い、まわりの顔色より自分の思いを優先させるので、波風をよく立てる。そんな意味では不良に近いのかもしれない。
もし、映画や音楽。絵や小説等の表現の仕事をしたい人がいるなら、自身を顧みてほしい。「かっこいいミュージシャンになりたい!」「映画界の巨匠になりたい!」とかいうのではダメだ。常識に従うことができず、自分を曲げない不良としてしか生きていけないというなら、きっとその道に合っていると思える。
明日にかける橋ー編集日記 本編集は最後まで行ったがまだ終わりではない! [「明日」編集]
編集中というのは葛藤の連続だ。「おおーこれは泣けるなあ。名作になりそうだ〜」と舞い上がることもあれば「あーーダメだ〜。今回は泣けない〜。もう、監督業は無理かあ....」と落ち込むことも多い。年末の上映会に間に合わさなければ!というプレッシャー。多くの人の期待に応えて素敵な作品にしなければならない!というハードル。
しかし、編集していると思う通りに行かないところもある。期待通りに撮れてない場面。写ってはいけないものが映り、映らなければならないものが写っていない。もう、毎日、スパーリングをしているように、打ちのめされる。心が裂け、とめどもなく血が溢れる。1ヶ月かけた粗編集を終え。本編集をスタート。それも折り返し地点を先日超えた。とりあえずの目標は最後まで編集することだ。
というのも12月上旬に音楽入れをするが、12月に編集が終わったのでは間に合わない。音楽家さんが編集した映像を見て作曲する時間が必要なので。それには11月中旬に編集を終えないといけない。なのに、もう中旬だ。本来は2ヶ月かかる編集を1ヶ月半で仕上げようと思っていたが、遅れている。
とはいえ、そんな期間で本来できるわけはないのだが、あれこれ予定を考えると、その期間でやらねばならなかった。同時にクオリティの問題。短期間で撮影した場合はなんらかの問題が必ず起こる。それと対峙しながら、打ちのめされ、落ち込み、失望しながらも、俳優たちの素晴らしい演技に励まされ、折れそうになる心を支え、作業を続けてきた。
まだ完成ではないが、編集が一応、先ほど物語の最後まで行った。だが、作業が最後まで行っただけではダメだ。クオリティが高くなければ。そこで最後のパートだけ。すでに仮のエンドロールは出来ている。仮の音楽をつけ(シナリオ執筆時から決めていた音楽がある)て、プレビューしてみた。
......................凄かった。まだ、前後に余分なカットはあったりするが、ラストシーンの****の表情。そして花火。エンドタイトルが流れ、クレジット。。。。。すごい。。。。目頭が熱くなる。繰り返し、その場面を3回見た。感動のエンディングだ。これなら行ける。多くの観客を今回も感動させられるに違いない。
でも、まだ完成ではない。もう一度、頭から編集。無駄な1秒1コマを切って、よくないカットは別のバージョンと入れ替えたり、風景カットを入れたりして最終編集を始める。
ときどき、気の早い方から「おめでとうございます!」とか「お疲れ様!」のコメントが来るが、それは止めてほしい。そして「最後まで行ったから余裕できたね? 連絡しますー!」というのも、まだ待ってほしい。まだまだ、自分を追い詰めてより素晴らしい作品にせねばならないのだ。気を緩めるわけにいかない。缶詰作業は続く、
明日にかける橋ー編集日記 本日は快進撃?! [「明日」編集]
石松寺のシーンを編集。写真下はその撮影風景。ここも見せ場のひとつ。感動場面。なので、あえて粗編集も粗粗編集にしてあった。なぜか?というと、感動シーンを何度も何度も何度も見ると感動できなくなり、何が感動が分からなくなりる。ときには、感動する要素を気づかずにカット切ってしまうことがあるからだ。
特にクリエーターというのは、繰り返し同じことをすると、新しいことをしたくなり、マニアックになりがち。ファースト・ルックを大切にするためにあえて、粗編集はそこそこにして、本編集で挑んだ。
これまでもいくつか感動シーンがあるが、ここは本当に凄い。編集しながら涙がこぼれ落ちた。鈴木杏ちゃんが本当に素晴らしい。大切なセリフがあるシーン。聞いているだけで胸を打たれる。ま、僕が書いたセリフなんだけど、とてもそうは思えない。彼女の、みゆきの心からのセリフにしか思えないのだ。
本日は快進撃。次の見せ場。蔵ストリートの戦いも編集。ここも名場面。もう、詳しくは言わない。ただ、粗編をしたときに、つながり上の問題があることがわかった。シナリオと動きが違うところがある。それをうまく避けて編集できるだろうか?と心配だったが、なんとか切り抜ける。
とはいえ、このショット使いたいのにあーーというのが、つながりがおかしいので使えないという問題もある。さらに次のシーンへ。「二重坂」そして、このあと、「蛍ストリート」そこで映像処理をしてくれる担当者から連絡。「足りない素材がほしい」とのこと。了解です。
明日にかける橋ー編集 映画の構成はRストーンズのライブと同じ? [「明日」編集]
映画はあるシーンだけよく出来ていてもダメ。全体を通したときに意味をなさねばならない。例えると、ロックコンサートに映画は似ている。歌1曲とシーンが同じなのだ。例えばローリングストーンズのライブ。オープニングは「スタート・ミー・アップ」とか「レッツ・スペンド・ザ・ナイト・トウギャザー」といった「始まるぞー」という元気で期待を持たせる曲が多い。
そして「ギミー・シェルター」とかで中盤盛り上げておいて、「アンジー」やキースのソロをじっくりと聴かせて。そして最後はヒット曲を連打「イッツ・オンリー・ロックンロール」「ブラウン・シュガー」そして「サティスファクション」一度引き上げて、アンコールが「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」でとどめ(?)
そんなふうに盛り上がったり、押さえたり、そして最後にドドドド!と頂点へ。観客は大満足となる。バラードばかりじゃ退屈するが、最初からヒット曲を演奏すると後半が盛り下がる。映画も同じ。オープニングは「始まり」を期待させてスタート。途中で盛り上がるを見せるが、あまり盛り上がるとクライマックスが生きない。最後は怒濤のヒット曲。つまり、ハラハラドキドキの場面の連続。そして感動のラスト。映画もライブも同じ構成なのだ。
だから、ストーンズだって、前半で「イッツ・オンリー・ロックンロール」「ブラウン・シュガー」「サティスファクション」「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」とヒット曲を続けて演奏はしない。後半が盛り下がるからだ。といって、前半にマイナーな曲ばかりだと観客は退屈する。途中で新曲も演奏せねばならない。映画でいうと今までとは違ったパターンの展開やジャンルのエピソードを持ち込むこと。
その意味で、あまりにも盛り上がるエピソードは全体を壊す可能性がある。でも、それを押さえてしまってはもったいない。その辺を考えながら、編集をしていかねばならない。
明日にかける橋ー編集日記 まず最後のブロックまで、そしてまた頭から? [「明日」編集]
昨夜はついにカテゴリー(45)の石松寺まで作業。はははは、ここがどの辺なのか?写真を見てほしい。編集室の壁に貼ったカテゴリー表。全50。その中の(45)まで来たのだよ〜。昨日、朝にスタートしたのは確かに木曜日の(?)「実験室」だった。ナンバー(28)つまり、1ブロック半も1日で進んだのだ〜!ははは
しかし、シーンの長さはどれも違う。昨日分は皆、長くないシーンであるのと、力を入れて編集せねばならないシーンが板尾さんの「社前」だけだったいうのもある。それにしても、あのシーンは凄い。板尾創路VS鈴木杏。やはり涙なしでは見れない。この映画最大の泣かせどころだ。なので、あまり語らないでおく。
残るシーン。本日は(45)の図書館からスタート。残るは「石松寺」(ここま見せ場なので時間がかかる)「二重坂」.....あ、大切なシーンが抜けている。「蔵ストリートの戦い」がリストにない! ここも力を入れねばならない場面。おまけに粗編集時ー撮影中に問題があったことーを発見してしまった。うまく繋がるだろうか?
そのあとが「二重坂」「蛍通り」そして「ラストシーン」である。実はラストの素材は粗編していない。理由はいろいろあるが、それはまた別の機会に。とにかく、終わりが見えて来た。ブロックでいうとあと半分だ。といっても最後まで編集して完成!ではない。また、頭に戻り、細かく確認。前後のシーンとのバランス。全体からの比重を考えて直さねばならない。その前にまず終わりまで行きたい。
明日にかける橋ー編集日記 ラーメン食べてウルトラCを思いつく? [「明日」編集]
昨夜、シークエンス27「交通事故」を編集。これで全50シークエンスの半分を超えた。シナリオ的にも120ページ中。60ページを超える部分を編集中なので、折り返し地点を超えたことになる。
昨夜のハイライトはやはり宝田明さんの場面。彼でしか話せない長台詞。名優の言葉は重い。そして、その台詞こそが、この映画のテーマを支える大事なものだ。本日は「実験室」場面(写真下)から作業をスタート。ここは藤田朋子さんが出演。前回の「向日葵の丘」のシリアスな役柄とは違い、しっかり笑わせてくれる。
そのあとに来るのが再び板尾創路さんの場面。お寺の前で主人公のみゆきと、ついに対面する。ここは粗編集でも涙なしで見れなかった。そのあとはいよいよ女子高生探偵団(?)のシーンだ。ここはいわゆるモッブシーン(?)編集が大変。このあたりからクライマックスに突入。編集もむずかしくなる。
2人の会話なら、それぞれのアップを交互に見せる編集でいいが、同じ画面に50人もいると、誰をどう見せるか?とてもむずかしい。そんな場面がこのあと、いくつも出て来る。ああ、そうだ。昨夜、苦戦した場面の話もしよう。
あるシーン。またまた板尾さんのシーンだが凄く感動的。それは本当にいいことなんだけど、感動的過ぎて次のシーンに進んでも、たぶん観客はその感動が続いて、次のシーンに入り込めないと思える。そんなことなかなかないのだけど。どうすればいいか? できれば次に無難なドラマのないシーンが来てくれるといいのだが、シナリオはそうではない。
ここが難しい。つまり、シナリオでは観客にAについて考えさせる意図。ところが俳優の芝居が良過ぎて、Bという「思い」を観客は強く受け止める。次のシーンはAについて。でも、観客はBが気になる。ということなのだ。夜中にそれで行き詰まり、考えた。気分を変えようと、夜食を近所の中華料理で食べることにする。このところランチ以外は部屋で食べる(片手で食べるもの!)だが、気分を変える。
誰も歩いていない夜道。1人歩道を歩きながら、あれこれシュミレーションしてみる。チンジャオロースー・ラーメンを食べる。そして帰り道。「それなら行ける!」というウルトラCを思いつく。普通なら別のシーンを撮り足さないと成り立たない問題だが、今回の物語なら行ける。タイムスリップものなら行ける。
とあまり詳しくは書けないが、編集室に戻り作業。何とか行けそうだ。と思っても時間を置いて見直すと「やっぱダメか?」ということある。それは本日確認。では、土曜日ではない「実験室」から今日の作業をスタートする。
明日にかける橋ー編集日記 太田組式編集の秘密? [「明日」編集]
今朝からは板尾創路さんの「空き地」の場面を編集。このシーンは物凄い。編集すると神経が切れそうになるので、粗編もほどほどにして、本編集で勝負することにしていた。というのも板尾さんの演技が本当に凄い。渾身の演技とはこんな芝居をいうのだろう。その芝居を数秒ずつ切り出して繋いでいる。
よく日本映画では「ここぞ!」という芝居はワンカット・ワンシーンで撮る。俳優の素晴らしい演技を寸断しない方法だ。感情が高ぶる芝居を「はい。一度カット。カメラ位置を変えて続き行きます〜」では、感情が切れてしまうからだ。だから、カメラを止めずに、そのシーンの芝居を長回しで一気に撮ってしまうのだ。
だが、この場合。舞台中継のようにカメラを離れた場所に置き、延々と撮ったり、段取りをしてカメラを手持ちにして、スタッフ全員が隠れて撮影するとかせねばならない。そして俳優が素晴らしい演技をしていても、カメラが引きなので、俳優が小さくなり芝居がよく分からないということもある。
僕の場合はマルチカメラ。1回の演技を複数のカメラで撮るので、俳優の演技を寸断せず、それでいてより引きの演技を撮ることができる。俳優も気持ちを途中で止めることなく、そのシーンを演じ切れる。板尾さんのそのシーンも出来る限り、芝居を止めずに撮影した。ここも感情の高ぶりが大切なシーンだからだ。その場面が本当に凄い。だからこそ、慎重に編集せねばならない。
ただ、数時間編集すると神経が切れそうになる。何といえばいいのか?この感覚。水に潜っていると、息を止め続けることができなくなるという感じか? 実際、細かいカットを編集するときに息を止めている自分を感じる。例えばバットを振るときのような。ここぞというときは集中するために呼吸を止める。
三船敏郎が「椿三十郎」で一気に人十数人斬るシーンも息を止めてやったという。それに近いのか?
そして1秒、3秒というコマを切りだし、つなぐ。やはり外科手術だ。医者が手術をすると、心身共に極度の疲労をするというが、編集も同じだ。ま、編集は間違って切っても、もとに戻せるが、本物の手術だとそうはいかない。「私、失敗しないので」というのは大事。編集で疲労困憊になる理由。他にも考えて分かってきた。これが太田組スタイルができる方法論のひとつでもあること感じる。
先の記事にも書いたが、通常は監督は主人公に感情移入して、物語を見る。つまり、主演俳優の視点で演出する。監督がヒロインを恋することで物語も盛り上がる。だが、僕の場合は違って、撮影はドキュメンタリーなのだ。アフリカのサバンナでライオンを撮ったり、アマゾンでワニを撮影するのに近い? だから、現場ではライオンが、いや、俳優がいかに自由に芝居ができるか?を気遣う。僕がこうしてほしいという指示は出さない。
つまり、現場では僕は観客なのだ。このこと、鈴木杏ちゃんは見抜いていた。それをインタビューで答えている。詳しくは年末の完成疲労上映会で販売されるパンフを読んでほしい。そこに杏ちゃんによる謎解きが掲載されている。話は戻って、現場では観客。そして編集は? そこで初めて出演者の気持ちで物語を繋いでいく。今、作業中のシーンでいうと板尾さんの芝居。どんな気持ちなのか?を画面を見て想像。
苦しみ、葛藤、後悔、憤り、登場人物のそんな思いを受け止めて、それを繋いでいく。シナリオ通りに繋ぐだけではないのだ。もちろん、物語の展開順というのは大事だが、そのときにアップか? 引き絵か? 相手役の表情か? 雲か? いろんな選択が可能。マルチカメラなので、さらにいろんな選択ができる。どれをどのくらいの尺繋ぐか? それによって作品が大きく変わる。そのときに僕の場合は俳優の、その人物の気持ちに成り切り、選んで繋ぐのである。
だから、疲れる。その人物が感じる哀しみや怒りを一緒に体験するのだから、疲労困憊になる。なので、力の入ったシーンはなかなか進まない。海に潜り続けると息が続かなくなるのと同じで、限界を超えてると前に進めなくなる。変な例でいえばイタコの霊を呼び、長々と霊が帰らないという状態。霊媒師は体がもたない。ただ、そんなふうに登場人物の気持ちに成り切り、その思いをダイレクトに表現する編集にするからこそ、主人公の気持ちが伝わり、観客は共感、感動し、涙が溢れるのである。
僕の作品が毎回泣けるという理由は、そこにあると思える。シナリオ通りに映像は繋ぐのは簡単。それを客観的に作業すれば編集はすぐ終わる。でも、それでは客も客観でしか物語を見れないということ。主人公に共感し、物語に入り込むためには、編集時に気持ちをリアルに描き出す編集が必要。また、そのためにはいろんなショットから撮影しておくことも大切なのだ。と、5本目にして自分の映画スタイルを分析。把握しようとしている。ははは。たぶん、多くの人には意味不明だろう。が、自分では納得。もう少し休憩したら、作業に戻る。