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映画作りは難しい。素人発想で作品をねじ曲げてはいけない?! [映画業界物語]

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僕が地方で映画を撮る方法を真似て、後輩監督のA君も地方で支援を集めて映画を撮っている。というのも、彼は以前、企業映画を撮っていたのだが、会社からあれこれ押し付けられて映画が歪められて、うんざりしていたからだ。

そんな後輩は「映画の内容は任せてください。必ず素晴らしい作品にします。町の魅力を発信する映画にします!」と宣言。キャスティングも役に相応しい俳優を優先する。若いのになかなかがんばっている。
ある町の市民グループから頼まれた映画。主演俳優は決定。以前に後輩と仕事をした若い人に人気のBさん。準備が進む。その後、ロケ地の役場が後援を表明、参加。その役場からこう言われた。

「うちの町出身のCさんを主演にしてください。その方が寄付を集めやすいので!」

後輩は驚愕する。すでに俳優のBさんを主演に依頼。承諾をもらい、彼に合わせてシナリオを書いた。多忙なスケジュールを割き出演してくれる。今さら断る訳にはいかない。それ以前になぜ、あとから参加した役場が主演を指示するのか? Cさんはその町の出身なので地元で人気がある。でも、物語の主人公とはイメージが違う。だが、役場の職員はいう。

「cさんでもこの役は出来ますよ!」

後輩は苛立つ。「映画製作をしたこともない職員に何が分かる? シナリオを読んだこともない。撮影に参加したこともない? 分かる訳ないだろう」と思ったが押さえて後輩は聞いた。

「cさんの映画で何が一番お好きですか?」

「は?彼の映画は見たことはありません。でも、本人はよく知っています」

後輩はあきれ果てた。彼らはCさんの芝居を見たこともないのに「この役は出来ますよ」「主演で!」という。単に支援を集めやすいというだけのことなのだ。シナリオを読むとき、この役は誰がいいか?想像するとき、100人が読めば100通りの俳優がイメージできる。でも、その中で誰が一番相応しいか?決めるのは本当に大変な作業。


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間違えば撮影現場でどんなに努力しても、ダメ映画しか作れない。的確なイメージを持つことは難しい。それにはまず、多くの役者を知っていること。その人たちの芝居を見ていること。演技力、キャラ、存在感等を把握し、その役を演じたらこうなる!という鋭い想像力が必要。それと長年の経験だ。

僕もよく映画が完成したあとにスタッフに言われる「あの俳優がこんな演技するなんて、想像しませんでした」まして、プロでない人たちが最終形をイメージすることは至難の業。映画ファンならまだしも、映画以外の分野で仕事をする方々がシナリオを読んでキャスティングするのは困難。そもそも、素人であり映画製作に関わったこともない彼らが、キャスティングに口を出し、俳優を指定すること自体がおかしいのだが...。

Cさんの芝居を見たこともない。リアリティを持って「出来る」と言っているのではなく「できんじゃないのー」という安易な想像をしているに過ぎない。料理をしたことない人がシェフに対して素材を指摘するようなものだ。と役場は「支援集めがやりやすくなる」ということしか考えていないようだ。

さらに考えてみる。もし、Cさんが出演ー完成した映画を市民が見たときにどう思うだろう? 地元出身の俳優が出てくれることで喜ぶ人もいるだろう。でも「何か違うな?」と感じる人は多いはず。物語にフィットしていなければ感動できない。作品クオリティが落ちてしまう。その街以外での反応は厳しいこと、覚悟せねばならない。素人発想で映画を作るとそうなってしまう。


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つまり、後輩が嫌う企業映画と同じ価値観に陥っていたのだ。「有名俳優が出れば出資が集るー客が来る」という安易な論理で、キャスティング。シナリオを無視して、俳優最優先で映画作りをしようとしたのだ。後輩は怒った。

「観客が感動する素敵な作品を作りたい。この町の人たちが感動。町の魅力が全国に広がる映画にしたい!」

なのに役場が邪魔する。ちなみに役場は一切出資はしていない。後援(要はがんばれーという姿勢のみ)するだけ。なのに、あれこれ口出し。主演俳優まで入れ替えようとしていた。そんな役場スタッフはこういう

「結局、監督は自分がよく知る俳優を使いたいだけだよ。Cさんで行くようにプロデュサーにも圧力かけておこう」

その話をあとで聞き、後輩は落胆した。彼はその町が大好きだった。なのに行政がそんなふうに汚い手を使って邪魔をする。だが、東京から連れて来たプロデュサーは役場側に付く。

「監督。Cさんで行った方がいいです。彼らの意向を受け入れた方が得。この町で映画作りがしやすくなります」

作品を無難に上げたいようだ。 映画界でもよくある話、何も知らないスポンサーがあれこれ言い出すのを製作会社はもみ手で応じてしまう。何でもいい。金を出してくれればいいという発想。多くの映画会社は素晴らしい作品を作ろうという思いは少ない。


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だが、餅屋は餅屋。他業種が口を出してよくなる訳がない。何より役場側が指摘する「監督がよく知っている俳優だから使いたい」は批判にならない。知っている俳優を使うことは、いい映画を作る上でとても大事なのだ。後輩は役場に対してこう宣言した。

「Cさんは役に合っていない。すでに決めた役者を降ろせというもおかしい。どうしても役者を変えというなら、監督を降りる。Cさんでは素晴らし作品はできない。ダメになるのが分かっていて続けることはできない。それは市民に対する裏切りだから」

そして、なぜ俳優のBさんがなぜいいのか?を延々と説明した。それを聞いた市民の多くが賛同。「監督の思う俳優で行くべきだ!」と声を上げてくれた。役場は何も言えなくなり、当初のBさんで撮影はスタート。映画は大ヒットした。多くの人が「感動した。泣けた!」と感想をくれた。何年かが経ち、当時を知る市民の1人はこういう。

「そういえば主演をCさんで!という話もあったけど、絶対にダメだったよね〜。今ではBさん以外考えられない〜」

役場のスタッフも悪い人たちではない。でも、キャスティング=シナリオを読んで俳優をイメージすることがどれだけ大変なことか?が分からず、安易に「**さんでも行けるよ」と判断。ゴリ押ししたのだ。映画作りの方法論は本当に分かり辛いが、一般の人はそれが分からなくても、あれこれ言い、映画を歪めることがある。

後輩監督のA君はそんな中でよくがんばった。僕なら大暴れしているだろう。だが、それを説明し、作品を守るのは監督の仕事。映画製作はなかなか理解されない。誤解。先入観で見る人も多い。後輩の話でそれを再確認した。

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プロの俳優のためのワークショップ第3回、無事終了!今回も白熱の5時間 [WS]

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[新月]プロの俳優のためのワークショップ第3回、無事終了![新月]

今回もブルース・スプリングスティーンに迫る(?)白熱の5時間。皆、超真剣に挑んだ。多くがそれなりの実力があるが、それぞれがいろんな問題を抱えている。それとどう取り組んで行くか?俳優自身には見えないことが多く。皆、七転八倒する。

ここ3回のワークショップで、それを探すことができていれば7年振りの開催に意味があったと思える。そして、この中から何とか新作に出られる人材がでれば嬉しい。ただ、いくら熱意があり、実力があっても、他にそれ以上の存在がいたり、相手役との相性もあるので、その本人の熱い思いを受け止められないことも多い。

そこが辛いところだが、多くの実力派に出会えたことは本当に大きなことだった。夏には撮影。そのあとは数ヶ月の編集があるので4回目は当分できないが、また機会は作りたい。

僕の新作映画のHPはこちら=>http://ffc2017.main.jp


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監督業だけやっていては、映画を乗っ取られる? ん、どういうこと? [映画業界物語]

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プロデュサーの仕事というのは大きく分けて3つある。

1、企画を立てる。

2、原作者や監督を口説き、人気俳優と交渉。実質的に映画を進める。

3、製作費を集める(これが一番大事)。

そう考えると、これまで作った映画は僕自身が企画し、製作費を調達。スタッフを集め、ときには直接キャストも口説いてきた。誰かプロデュサーがいて、全製作費を集めてくれて「さ、監督しろ!」というラッキーな展開は一度もない。その意味では映画監督のスタート時点から僕はプロデュサーでもあった。

が、初期の頃はこう考えた。企画し、製作費のほとんどを集め、脚本、監督、編集まで全部1人でやっているので、さらにプロデュサーという肩書きまで着けるのはどうか? スピルバーグがプロデュサーを兼ねているのは皆知っているが、新人監督がPというのは気が引けて、その肩書きはクレジットしなかった。

それが失敗。あるとき、仕事を頼んだPがこっそりと関係者にこんなことをアピールしていた。「監督は若くて経験もないので、私が何とかしますよ。任せてください。私がプロデュサーですから!」さらに自分が製作費を集めて、太田を監督として起用したかのような言動を繰り返し。シナリオや編集にあれこれ口を出し、自分の趣味を押しつけ、僕の意図とは違う方向に進めようとしたのだ(それが多くのPの手法であることをのちに知った......)

僕は雇われ監督と思われ、関係者の一部は「Pのいうことを聞くのが、監督の仕事だ!」と言い出す始末、(例え雇われ監督であっても、映画の中身の責任者は監督である。Pがあれこれ決めるのは本来間違ったことなのだ)Pは暴走。作品を徹底的にねじ曲げられそうになった。おまけに経緯を知らない友人は「太田は映画を撮らせてもらってラッキー。Pに感謝しろ!」と言い出すし。ま、通常はPが企画し、製作費を集めて、監督を雇う。僕のように監督が製作費を集めてPを雇うなんてことはないので、勘違いするのも当然なのだが....

「肩書き」とか「ブランド」とか、昔から嫌いで、こだわらないようにしていたのだが、多くの人はそれにこだわり「社長」だから偉い「部長」だから凄い!という捉え方をすることを痛感。「P」だから「製作費を集めた人」「監督を雇った人」と思い込む。つまり、何もしなくても肩書きを持てば、多くの人が信用し、言うことを聞くのである。

いや、Pだけではない。映画というと、いろんな人が集まって来て、自分に決定権があるかのように振る舞い。利益に繋げようとする。そんなことで映画を歪められては困る。だからこそ、スピルバーグは「監督」だけでなく「プロデュサー」としてもクレジットするのだ。以降、僕も「プロデュサー」という肩書きを必ずクレジットするようにした。

今では「P」とクレジットされるのは僕だけにしている。Pという肩書きを着けるとなぜか?勘違いして「自分は偉い」「決定権がある」と暴走する人が多いからだ。だから、作品における最高責任者が誰であるか? 知ってもらうため僕1人にしたのだ。作品が不出来でも、赤字になっても、全て責任は僕にあるということなのだ。その責任を負わない者を「P」と呼ぶことはできない。

にも関わらず、今回の現場でも「太田は監督。Pは***さん」と思っていた人たちがいて、苦情をその人にぶつけていたらしい。確かに「プロデュサー」は1人だが「アソシエイト・プロデュサー」や「アシスタント・プロデュサー」という人はいる。が、業界を知っていれば「アソシエイト」というのは、会社間で使う「友達」という意味で、協力プロデュサーという意味。実質的な決定権はない。という立場。「アシスタント」はその意味の通りプロデュサーをアシスタントする役目だ。

シナリオにもしっかりと役職はクレジットされている。なのに、それを理解出来なかった人たちがいた。そのことを映画界に詳しい友人に話すと「え、太田さんはプロデュサーなんですか?」と言われた。彼が間違うのなら、カタギの人が勘違いするのは当然だろう。今回は大きな事件にはならなかったが、アソシエイト・プロデュサーには申し訳なかったし、その辺のことをしっかりと周知させることは大切だと感じた。

過去には「太田は監督」と思われ、僕の知らないところで宣伝会議が行われていて、そんな方向にしたら宣伝戦略はぶち壊し!みたいなこともあった。関係者は「監督は編集で忙しいから、こちらで進めよう」みたいな気遣いだったらしい。

が、監督として、Pとして宣伝戦略会議に参加するのは当然のことなのだ。映画作りは宣伝も含めて映画作りだ。そこに監督の思いが入ってなければ伝わらない。以前は立場を利用する人がいて困惑したが、今は別の意味でむずかしい問題も出て来ている。あまり肩書きをたくさん並べるのは好きではないが、それは大事なことなのかもしれないと最近は思えている。



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