天気の子ー二度目の映画館。また涙が溢れた。 よくできている。 世界より、人々より、大事なのは君。 そう言う話だ。 [映画感想]
公開中「ダウンス・ウイズ・ミー」の宝田明さん(ゴジラ)も 出演している日本版「バック・トウ・ザ・フューチャー」=>「明日にかける橋 1989年の想い出」! お近くのTSUTAYAでレンタル! [2019]
留学から帰国してもう30年。映画監督始めてまだ15年かあ?! [2019]
留学から帰国してもう30年。映画監督始めてまだ15年かあ?!
帰国した時はまだ20代。それがあと数年で60歳ということは、それだけの年月が経ったということだ。若い頃は「スピルバーグのように20代で監督デビュー」というのに憧れたが、ある時、それは意味がないことを知り、遠回り。でも、「あのとき留学せねばVシネマくらい撮れたかも?」と言われたりしたが、5年がかりで脚本家に、さらに2年後に監督デビュー。さらに8年がかかり映画監督デビューした。
その後、6本の映画を完成させたが、帰国から30年近くが経とうとしている。前半の15年は映画監督になるまでの年月。残りが監督として作品を作り続けた年月。15年で6本だから、2?3年に1本は撮っている。まあ実際は2年連続ということや、2本同時進行ということもあったので、割合を出してもあまり意味はないのだが。
例えば「明日にかける橋」は2017年撮影だが、準備は前年からスタートしている。公開は翌2018年。DVD発売は今年。そんな風に1本の映画を担当すると3年ほど拘束される。6本で[×]3年=18年。15年があっという間に過ぎるはずだ。
それが今年、6本目の作品。長編「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」を完成。「明日にかける橋」も並行して進めていたので3年間休みなし。そのために初夏に過労でダウン。にも関わらず良くなりかけた頃に北海道=沖縄と続く仕事があり、直後に講演会。風邪までひいて再びダウン。にも関わらず「れいわ」の応援にふらつきながら行って撮影。そしてこの猛暑。自宅入院生活に逆戻り。しかし、
しかしだ。もし、いま、新しい作品の依頼があったら、体力的にも厳しい。そしてまた、あれこれ映画以外のことをやる時間がなくなり、全力投球してしまう。この時期はもしかして大切なものではないか?と思える。2作目の「青い青い空」の後も半年間寝込んだ。そのために311を自宅で経験。原発事故報道をずっとテレビで見ていた。リハビリ期間に原発の勉強。それが3作目の「朝日のあたる家」につながる。
「朝日」をやったことで原発問題から政府のカラクリが見えてきた。それが分かっていたので「沖縄戦」で同じ構図があることを理解した。与えられた仕事をするだけでなく、それ以外のことを知り、学ぶことが後々、生きてくる。それと、時々立ち止まり、振り返ることの大切さも感じる。良く「終わったことを悔やんでも仕方がないから、過ぎたことは忘れて前向きに進もう」という人がいるが、あれは大間違い、友人でもいたが、彼は同じ失敗を繰り返してばかりいた。
振り返ることで、何が正解で何が間違っていたか? 何を得て、何を失ったか?を見つめる。悔やみ、反省し、どうするべきだったか?考えて、それを次に活かす。ただ、映画製作をしていると、そんな時間がなかなか取れない。でも、それが今なのだろう。30年の戦いを今一度、振り返ってみたい。
夏になると毎年聴くアルバム [2019]
夏になると毎年聴くアルバム
1982年の夏。今から37年前。僕は横浜に住み。映画学校に通っていた。が、授業は本当に詰まらなくて、学校には行かず、仲間と8ミリ映画を作っていた。その上映会をするために、日時をコピーしたものをチラシの裏に貼り付ける作業をしていた。
当時は4畳半一間。エアコンどころか扇風機もなかった。風も通らない部屋。まるで真夏のビニールハウス。そこで友人と2人で、チラシの裏に日時を書いた小さな紙をノリで貼り付ける作業をしていた。汗が滝のように溢れる。頭にタオルを巻いて作業。
ラジカセでテープをかけた。それが当時大人気だった「ナイアガラ・トライアングルVOL2」だった。特に「LOVE HER」が流れると、涼しい風が吹いたようだった。そう言うと、友人も顔を上げ「俺もそう思ったよ」と呟いた....。
それから37年。今年も大瀧詠一を聴いている....。