「才能があればやっていける!」と断言していた友人の結末?③ [映画業界物語]
「才能があればやっていける!」と断言していた友人の結末?③
(2014年の記事から)
映画監督を目指し、10代から仲間たちと何本かの学生映画(8ミリ)を作っていて、気づいた。僕が物語を作るバックボーンは高校生活の記憶からだ。それは3年間の経験でしかない。
小説「悪名」(勝新太郎主演で映画化もされた)で有名な作家の今東光は作品は糞だという。食べて消化されて出たものと同じということ。その通りだと思えた。ウンコを出すためには食べなければならない。人と違う糞をするには人とは違った物を食べねばならない。つまり経験をせねばならない。
が、高校卒業以来、僕は学生映画をやっていたので、学生映画の世界と高校時代しか経験値がない。実際、学生映画では学生映画の世界を描くものが多かったが、そんなものを何本も作ることはできない。すぐにネタが尽きる。若くして映画監督になったとしても、手持ちのカードがすぐなくなり、作品を作れなくなる。同じ夢を目指す友人にどう思うか? 訊いた。彼はいう。
「才能があればやっていけるんじゃないか? 手塚治虫だって、若くしてデビューしたけど、あれだけ多くの作品を書いたんだ。俺にもそんな才能があるということを信じるしかないんじゃないか? そう、才能があればやっていけるはずだ!」
しかし、僕にそんな「才能」があるのか? 何の経験がなくても面白い物語が思いついたり。何の努力も経験もなく、ハラハラドキドキする映画が作れるのか?
今は分かるが、血のにじむような努力や様々な経験がないと、音楽でも、小説でも、映画でも、何でも作ることはできない。その努力を知らない人が、自分にはできない作品を作ったのを見たとき「あの人は才能がある」といって理解しようとする。そのための便利な言葉が「才能」。つまり存在しないものなのだ。
ただ、当時は「才能」なんて存在しない!というほどの確信はなかった。大人からも、先輩たちからもよく言われた。
「お前、才能あるのか? 才能がないと映画監督にはなれないぞ!」
(つづく)
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