俳優業に必要な「感受性」とは何か?❻(最終回) 人々は「傷つきやすい感受性」のことを誤解して「才能」と呼ぶ? [映画業界物語]
俳優業に必要な「感受性」とは何か?❻(最終回) 人々は「傷つきやすい感受性」のことを誤解して「才能」と呼ぶ?
もう、気付いただろう。俳優や歌手やミュージシャン。小説家という表現者たちは、単に努力してなるものではない。一般の社会では生き辛い、鋭い感受性を持った人たちが、なるもの。
日常をまともに送れない。送り辛い人たちが演劇、音楽、小説、絵画、という武器を手にしたときに生まれるのが表現であり、芸術なのだ。
映画「XーMEN」で描かれる超能力者というのは、実はアーティストのことではないか?と思える。ずば抜けた能力があるから生きにくい人たちの物語だ。
しかし、鋭い感受性を持っていれば、皆がアーティストになれる訳ではない。また、鋭過ぎる感受性を持っているからこそ潰れる者も多い。彼ら彼女らを襲う業界のプレッシャーとストレス。それは一般社会以上だ。
激しい競争。戦い。残酷な業界。その中で生き残るのは、ほんの一握り。その世界では感受性以外の様々なものが必要とされる、感受性の欠片もない人々も君臨。力ある者を踏みつぶしす。
その中で生き残った者たちがアーティストと呼ばれ、ブレイクし、多くの人たちに支持されるのである。それが分からない人たちがその「感受性」のことを「才能」と呼ぶ。成功すれば「才能」しなければ「変人」と分別するのだ。
では、どのようにして豊かな感受性を持つ人たちが、それぞれの分野で戦い。アーティストとして大成するのだろうか? どんな努力が必要なのだろうか? それはまた別の機会に書きたい。
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