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【地方映画なのになぜ、方言が使われないことが多いのか?ーその疑問を解説】 [映画業界物語]

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「監督、映画の中で主人公が駅前の道をまっすぐ歩いて市役所に行きますが、あの道じゃ行けませんよ。嘘を描いちゃダメですよ」

この意見にはビックリ。こう説明した。映画の中の位置関係は実際とは違う。実際に市役所に行く道を撮影すると絵的に美しくない。だから、別の道で撮影。また「あんな早く駅には着きませんよ」と言う方もいるが、実際に30分かかるからと、30分かけて描いていては大変だし、わざわざ30分かかったという表現をすることが物語に意味がなければ描かない。そんな部分が多いほどに映画は退屈になるからだ。

観客にすれば映画を観て「この道を行けば市役所に行けるんだ」というふうには考えないし、実際の道より、物語に相応しい絵になる道の方が映画に入り込むことができる。このことは多くの方がすでにご存知かと思うが、実際に自分の町で撮影された映画を観て初めて気付くことも多い。同じことが「言葉=方言」にも言える。ロケ地の方からこう言われることがある。

「私たちは**弁を使っているから、映画でも当然、俳優さんは**弁で台詞を話すんですよね?」

これも自分の町で撮影がないと気付かないこと。でも、テレビドラマでも、地方が舞台でも登場人物は方言ではなく標準語で話すことが多い。もちろん、その地方の言葉が使われる作品もあるが、何が違うのだろうか?


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①俳優が演じるというのはもの凄い神経を使う。表情。動き。姿勢。歩き方。手の動かし方。その全てを計算する。その上に方言で話せと言われると、演技か?方言か?どちらかが疎かになる。どんなベテラン俳優だって、そう簡単に方言はマスターできない。そのことにエネルギーを使うなら、より素晴らしい演技をしてもらう方がプラス。

②方言を使うことのメリットは何か?地元の人はいう。「だって、私たちは方言使ってるんだから映画でも使うのが当然だ」でも、俳優たちがどんなに練習しても地元の人には「イントネーションが違うのよね〜」と批判される。方言はそんな簡単なものじゃない。それに他県の人からは「方言だから何言ってるか分からないんだよね〜」と不満がでる。方言を使っても誰も喜ばない。むしろ、マイナスが多い。だから、多くのドラマはどの地方が舞台でも登場人物は標準語で話す。

③では、なぜ、方言を使う映画があるのか? これは地元に根ざした物語である場合だ。例えば「仁義なき戦い」は広島が舞台。そこに大阪の巨大暴力団が攻めて来る抗争ドラマ。これは実話であり、広島ヤクザは巨大組織を追い返している。その熱い戦いを描くのには広島弁が効果的だった。(それでも広島の友人は「あの広島弁はおかしい。ヘタ!」と批判していた)

或は「横山やすし物語」という映画が作られたとして、やすし役を標準語でやっては台無しだ。関西弁のキャラとして認知されている漫才師が標準語で話すのはあり得ない。当然、彼のまわりの登場人物も関西弁でなければならない。でも、これが琉球時代の沖縄が舞台だと違う。実在の人物だとしても、沖縄の、それも当時の言葉で話すと多くの人が理解できない。

だが、「仁義」と同じ広島を舞台にした大林宣彦監督の「尾道シリーズ」は全て標準語(1人だけ尾道弁を話すキャラはいたが、メインキャラは全員標準語)なぜ、尾道弁ではないか? 方言だと観客に台詞が伝わりにくいからだ。それにこのシリーズで重要なのは「尾道ではこんな方言で話していますよ」ということではなく、青春映画。その舞台が尾道。方言が重要なキーである映画ではない。さらにテーマがあるのだが、それはあとで説明する。

④「スターウォーズ」のダースベーダーは英語で話す。遥か銀河の彼方の地球とは関係のない星の住人がなぜ英語なのか? 「クレオパトラ」や「ベンハー」という古代ローマを舞台にした映画も英語だ。当時の言葉を使わない。これも同じ背景。わざわざ宇宙語を作ってダースベーダーに話させるのはリアルだが、観客がそれで喜ぶか? ラテン語でクレオパトラが話しても意味がない。俳優が大変。観客も字幕スーパーが必要。それと日本映画で標準語を多様するのも同じ背景なのだ。


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僕はよく「PR映画にしてはいけない」という「この町の大根は最高だ!」というような台詞は書かない。それを映画館で他県の観客が見ると自我自賛にしか見えない。映画を見た観客は「入場料払って地方のPR見せられたら、たまらんなあ〜」となる。でも、地元の方にとっては「せっかくの映画なのだから、地元大根を宣伝したい!」という思いが強く「観客が映画を観たらどう思うか?」という発想を失い、地元から外部への一方通行の視点になりがち。位置関係や方言も同じ。「市役所はこの道じゃない」「**弁でいつも話している」というのは当然のことなのだから、当然、映画でもその通り描かれると思ってしまう。

しかし、それらを描くことで映画館の観客が喜ぶかというと、むしろマイナス。映画の中で市役所に行く道をリアルで描くこと。俳優が苦労して方言を話しても、映画館に来た観客を困らすだけで、何らプラスはない。町の記録のためだけのドラマなら方言の方がいいが、日本中の人に見せるというのが目的なら、観客がより観やすい形をとることが大事だ。

僕は師匠でもある大林監督の方法論を使う。というのも彼の映画を観て気付いたことがあるからだ。「時をかける少女」でも「転校生」でも尾道が舞台なのに、映画を観ている内に「これは僕の古里の物語だ」と感じた。尾道の物語ではなく、僕の記憶の中にある古里のイメージ。原田知世演じるヒロインが自分の初恋の人とダブった。


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が、もし、これが尾道弁だったら、あくまでも尾道の物語であり、他人の他県の物語になっただろう。標準語だからこそ、共感できた。僕と同じように思った人は多いはず。だから多くの人がロケ地巡りに行きたくなった。尾道が「心の古里」になったからだ。

僕も同じ表現で町を描く。地元の方言を使わず。標準語で台詞を書く。ハリウッド映画が世界で見られるのは英語という国際語を使うからだ。日本で多くの人に観てもらうには標準語を使うことが大事。観客が求めるものはまず感動物語であり、聞き取りやすい台詞。「俺たちはこんな言葉を使ってる」と言うことが映画のテーマではない。「観てもらう」という姿勢が大事。そこにその町ならではの美しい風景が背景になる町の人たちが出演することで十分町らしさは伝わる。

そして、大林映画のような表現なら「これは僕の町だ。心の古里だ!」と感じてくれて、その町に行きたくなる。町を好きになる。これまで撮ったどの町も同じ思いで撮り「この町は僕の古里」と思って取り組んだ。結果、多くの観客が「素敵な町ですね!」と言ってくれた。最新作もそんな作品になるようにがんばる。




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