今、振り返る「やる奴」と「やらない奴」の意味?(下)表現をしなくては生きて行けない人と、しなくても生きて行ける人。 [映画業界物語]
今、振り返る「やる奴」と「やらない奴」の意味?(下)表現をしなくては生きて行けない人と、しなくても生きて行ける人。
振り返ってみる。学生映画の仲間も、俳優の卵たちも、皆、愛すべき連中だった。だが、敢えて厳しく言えば努力が足りない。金や時間の余裕があるときに映画を作ろうという発想。
卵たちもバイトがあるからオーディションに行けないと言う者もいた。でも、それが普通の若者。管理教育で縛られ去勢されてしまった日本人の典型なのだ。受験戦争から落ちこぼれ、あるいは拒否して夢を追うことを決めたのだが、家の中で飼われていた小鳥は野生では生きていけない。
僕はというとその管理教育を拒否し、はじき出された捻くれ者であり、「大学生になると学生運動ができる!」と楽しみにしていた変な小学生。与えられことはしないが、放って置かれるとあれこれ始める子供だった。そのことが幸いして、映画学校を登校拒否してからは、好きに走り続けることができたのかもしれない。だから逆に一般社会では生きていけなかったはず。
高校時代に夢を追う同級生はいなかった。だから、映画学校で出会った彼らには強い共感があり、初めて仲間と言える存在だった。が、教育に毒された彼らは足掻くこともなく、ただ現実に失望して堕ちて行った。俳優の卵たちも同じ。仲間の面影をダブらせて、今度こそは彼らを連れてプロの世界に行こう!そう思ったが、誰も連れて行くことなく。皆、消えて行った。
ただ、1人だけ映画の世界に辿り着いた。後ろめたさを感じながらも、そこで出会ったのは、天才としか言えない年若き女優たち。国宝級のベテラン俳優。天才たちが全力で努力する世界。スタッフも同じだ。その道のエキスパートが全力で映画を作る。そんな素晴らしい面々がいるので、毎回、僕は素敵な映画を作ることができる。どう考えればいいのか?
多分、これが表現の世界だということ。才能があるないではない。あの当時の仲間は教育のせいだけではなく、映画作りや俳優をしなくても生きていける世界にいたこともあると思える。表現をしなくては生きて行けない人と、しなくても生きて行ける人。
どちらが上とか下ではない。どちらが偉いではない。夢を追うとか破れるではない。どちらの世界が生きやすいか? どちらの世界の住人なのか? それが問われるように思える。また、あれこれ考えてみる...。(了)
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