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背負った十字架が重く、苦しい者こそが名優となる。監督業はそれを解明する分析官? [映画業界物語]

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背負った十字架が重く、苦しい者こそが名優となる。
監督業はそれを解明する分析官でもある。

作家は真理を求めて作品を書き続ける。「幸せとは何か?」「家族とは何か?」「親子とは何か?」「平和とは何なのか?」他の表現者たちも同じ。苦しくてもそれを作品の中で探し続けることが、読み手の、観客の心を揺さぶることになる。

俳優業もほぼ同じだ。私って何だろう? 僕って何者なのか? それを探す旅だ。俳優となり成功する人たちは、才能があるとかいうことではなく、心が病んでいる、悲痛な経験をしている人が多い。単にかっこいい。有名になりたい。という思いだけで俳優を目指しても、その座に登りつくことはほとんどない。

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傷だらけの心を見つめ、自分が抱える十字架が何なのか?を知ろうとするのが俳優業なのだ。幼い頃の悲しい体験。若き日の屈辱。親との葛藤。貧しさ。そんなことで歪められた心を、あるいは心の金庫に仕舞い込み開けられなくなった扉を開けようとする作業が演劇なのだ。

ただ、多くの俳優はそれを意識していない。が、深層心理でそれをやらずにはいられない。それは努力ではなく、足掻かずにいられない十字架。それがない人たちがどんなに努力しても、そんな人たちには敵わない。芸能界に在日の人たちや貧しい人たちが多いのはそのせい。自分を蝕んだものと対峙しようとする運命的な戦いをするからだ。

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それは俳優だけでなく、音楽でも、絵画でも、漫画でも、小説でも同じ。表現とはそんな醜い、情けない、悲しい自分を探し出す作業でもある。その意味で芸術と犯罪は似ている。特に猟奇的な犯罪。アメリカのテレビドラマ「マインドハンター」で描かれる実在の犯罪者たち。エドワード・ケンパー、チャールズ・マンソンら。彼らが酷い犯罪を犯したのと、芸術家たちが作品を作るのは同じ構図。

どちらも自身が意識しないくても、自分の背負った十字架の影響下に存在する。その意味で映画監督は心理分析官にも近い。そんな十字架を背負った俳優たちの心の闇を見抜き、それを引き出す仕事なのだ。
心理学の有名な例だが、手を洗わずにいられない女性がいる。理由が本人にも分からない。しかし、過去に遡り、少女時代の記憶を手繰ることでその理由が解明する。それが分かると手を洗わなくても平気になる。過去の亡霊から解き放たれたのだ。

俳優業とはそんな作業をする患者でもあり、その理由を見抜き、解き放つのが監督業であるとも思える。つまり、より重い十字架を背負い、簡単に解き放たれないものこそが、名優と呼ばれる存在になるということなのだ。



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