SSブログ

日本の映画監督は感覚とノリだけの人が多い?(下)= 監督業は脚本に自分の思いを加え、作品を歪める? [映画業界物語]

59734838_2657978137609807_8827297870873886720_n.jpg


日本の映画監督は感覚とノリだけの人が多い?(下)
= 監督業は脚本に自分の思いを加え、作品を歪める?

日本映画を長らく観てきて、周りの友人監督たちを観て感じたこと。日本の映画監督はノリと感覚タイプが多いのではないか? 理屈ではない。良く言えば芸術家だが、悪く言えば観客置き去りの独りよがりに陥りやすい。だから、面白い映画が少ない。もちろん、昔は名作がたくさんあった。が、70年代後半から80年代。多くがエンタテイメントになっていないのは、日本ではやはり映画は芸術という思いが強かったのだろう。

それは悪いことではない。ただ、徹底して突き詰めて言葉や理屈で説明できないことを映像化するのであればいい。が、安易な思いつきやノリだけで演出して、芸術という隠れ蓑で逃げようとする作品が多い。それを許してしまう業界の体質がある。学生時代はそこまで考えなかったが、僕は断然ハリウッド映画派であり、日本映画をバカにしていた。

僕はエンタテイメントでありたいと考える。ハラハラ、ドキドキ、笑って、泣いて感動できる。そんな映画を撮りたい。時々

「太田監督は自分が撮りたい映画を撮っているだけだよ!」

と批判されるが、僕が撮りたい映画は観客が喜んでくれる作品だ。先に挙げた人たちのように自分の趣味で、感覚で、ノリで、観客置き去りの映画ではない。

違うのは自身でシナリオを書くということ。彼らは書かれたシナリオを読んで、そこからイメージすることを映像化する。だから、脚本家が込めた意図とかメッセージを無視することもある。そこから脱線が始まる。彼らに撮って脚本は起爆剤でしかなく、そこからどうイメージするか?が主題。だから、物語に整合性がなくなったり、話が逸れたりするのは当然なのだ。

僕の場合。観客が喜んでくれる物語を作りたい。そんなストーリーを考えて、予算内で撮影できるものを書く。各段階でもうカメラアングル、ロケ地、編集はあらかた決めている。キャストも想定して書くことが多い。だから、撮影現場で

「さて、どうしようか?」

ということはない。あとは撮影するだけだ。そこで暴走するのは、俳優の芝居があまりにもいいので、長めに撮ったりということだけ。

全てのシーンに意味がある。ここは登場人物紹介。ここは事件の発端。ここは伏線。ここは時間経過と、無意味なシーンや本筋から外れたりしない。これでお分かり頂いたと思うが、多くの監督はシナリオをもらったところから始まり、撮影でそれを膨らませる(暴走させる?)僕はシナリオを書き上げた段階でほぼ完成。それを映像にするのが撮影なのだ。暴走する余地はない。自分が望むものは全て脚本の中にある。

対して他の監督は自分の趣味思考がシナリオ内にないことが多い。だから、自分らしさを追加して世界を作る。そのために脚本家が書いたテーマが疎かになったり、意味ある場面を軽くしたりする。観客からすると無意味な展開、必要な部分がない、ダラダラしている。脇道に逸れる!それが一昔前のつまらない日本映画の背景なのだろう。昔、「地獄の黙示録」の監督フランシス・コッポラはこういった。

「私は監督であるより、演出できるシナリオライターでありたい」

いい言葉だと思った。僕もそれでいきたいと考えた。当時は深く考えなかったが、無駄のない、ダラダラしない、観客が喜んでくれる映画を作るにはそれが最適だと気づいた。

先に挙げた監督たちも決して手抜きをしているわけではない。だからシナリオと自分の方向がピタリと合ったときに素晴らしいものができる。そんな機会はなかなかない。だから自分が共感できる部分のないシナリオは少し曲げてでも、自分の思いや趣味を込めようとするのだろう。



69576335_2931281203612831_2698133420675956736_n.jpg
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:映画

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。