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日本の映画監督は感覚とノリだけの人が多い?(上)=監督たちを分析してみた。 [映画業界物語]

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日本の映画監督は感覚とノリだけの人が多い?(上) 
=監督たちを分析してみた。

昔、ある製作会社で仕事をした時。Pでもある60代の社長に怒鳴られた。

「お前は監督じゃない。評論家だ!」

僕が編集意図を説明した時のことだ。当時は社長が理屈で反論できなくて逆上したのだと思っていた。が、それから年月が経ち、いろんな監督と接すると、理屈ではない人たちが多いと知る。そのシーンはなぜ、その演出になるか? そのシナリオはなぜ、そんな展開をするか?と聞いても明快な答えを言えない。

「そこは何か...そんな感じにしたくて...」

答えになってない。弁護すれば感覚的な問題で言葉では説明できない。が、その種のものを描きたいということだろう。中には口のうまい監督もいる。言っていることは分かるのだけど、よくよく考えると、何かはぐらされただけという気がする。その監督も感覚派だった。あとは武闘派でジャイアンのように強気なだけで現場を仕切る。このタイプも理屈ではなくノリで演出する。と書くと

「そうじゃないタイプもいるんだよ〜」

というコメントがよく来るが、今、書いているのは僕が出会った監督たちに多いタイプだ。思い出すのは80年代の邦画だ。当時、僕は20歳前後だったが、日本映画が嫌いだった。意味のないシーンが延々と続いたり、何か雰囲気だけで物語が展開したり、

「その場面いらないだろう!」

というものも多かった。アクション映画なのに無意味な台詞をダラダラ語るもの。そこから考えると日本映画の監督は理屈ではなく、感覚と趣味だけで演出する人が多いのではないか? 

対してシナリオライターと呼ばれる人と話すと、多くは理路整然と説明してくれる。各場面の意味。登場人物の理由。テーマ。メッセージ。監督とは違う。いろんな映画を観て、話題の小説も読んでいる。博学な人も多い。対して監督たちー僕が出会ったーは自分の趣味だけ、社会や政治に関心のない人が多い。口のうまい人は多いが、明快な主張やポリシーがないような?

そこから考えると、先の社長が言う「評論家」と言うより「脚本家」なのかもしれない。脚本家というのは書くだけでなく、物事を分析する力が問われる。政治が題材ならそれを分析し、物語に転換。再構築してドラマを作る。その意味では政治を解説する評論家というのも近い存在だ。だから社長はそんな発言をした。

その社長も理屈ではなくノリのタイプ。Pなので脚本家とは打ち合わせはするが、上がったシナリオが良ければ深く議論はしない。だが、監督とは細かな打ち合わせをせねばならない。彼と仕事をした監督たちも感覚派が多い。だから、理屈で意図を説明できない。社長はノリだけの人。議論にはなりづらい(双方共に理屈では話合えない)。そこに感覚派ではない理屈ぽく文句の多い僕が登場する。感覚派が相手であれば、社長は

「この場面はこうした方が!」

と自分の趣味を押し付けても、それで作品が歪む訳ではない。元々が感覚で撮っている「ああ、そうしましょう」と問題が起きない。が、僕の作品は全ての意味がある。部分的に趣味やノリを押し付けられては全体が壊れる。理屈で説明する。社長は戸惑う。反論できない。若いのに生意気だ。グダグダ理屈ばかり言いやがって.....

「お前は監督じゃない。評論家だ!」

となったのだろう。もし、理屈で整然と説明する監督が多ければそんな発言はでないはず。いつもは違うということだ。社長は20本近い映画を手がけている。やはり感覚とノリだけの監督が多いということだろう。長くなったので続きは次回に。



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