地方のプライドとコンプレックス=結局、自分の首を絞めている? [地方映画の力!]
地方のプライドとコンプレックス=結局、自分の首を絞めている?
日本人の特性、地方の習慣のことを書いていて、思い出しこと。後輩の映画監督C君の話。彼は故郷愛が強く、その街の魅力を伝える映画を作ろうとした。有名な街でもないので企業は資金を出さない。で、地元で寄付を集めて製作しようと考えた。しかし、地元で顔役と呼ばれるオヤジにこう言われた。
「この街を捨てて出ていった奴がノコノコ帰って来て、金を出してくれなんて調子良過ぎんじゃないか?」
C君は高校卒業後、故郷を出て、東京の大学に行き、卒業後は東京の会社に製作会社に就職。その後、フリーになり映画監督になった。それをオヤジは「故郷を捨てて出ていった」というのだ。その話。ー意味不明と思えたが、C君が解説してくれた。
「そのオヤジさんは街で生まれ育って、地元で就職しています。街を出たことがない。都会ではなく、田んぼや畑ばかり。大学も街にはないので、若者は皆出て行きます。帰ってくる者はほとんどいません。町に残った人たちは故郷愛があるので、それを故郷を捨てて出て行った。というのです」
確かにそんな人もいるだろう。田舎に愛想を尽かして都会に行く。でも、地元に大学もなく、当然、多くの就職先もないのなら故郷愛があっても出て行かざるを得ない。それを「故郷を捨てる」と表現することに引っかかる。その上、C君は故郷愛があるからこそ映画を作ろうとしている。なのに「故郷を捨てた」と批判する。何か、おかしい。
「コンプレックスですよ。オヤジさんは都会で暮らしたこともない。家も貧しくて大学にも行けなかった。そう思うと惨めなので、あいつらは故郷を捨てて出て行った。でも、俺は愛があるから残ったと考える。だから、都会に出て行ったものを感情的に批判するんですよ」
なるほど、おかしな発言はそんなコンプレックスが背景となっていたのだ。しかし、同じ故郷愛がある同士。街の魅力を映画で伝えることで、街を良くしよう、街の魅力を伝えようという動きが大きくなれば地元にとってもプラスのはずだ。
「でも、彼は大学も行っていない。都会生活も経験していない。どこかでバカにされている、と感じています。渋谷で仕事しているというだけで、偉そうによーと言われます。自分が田舎者で、詰まらない存在だと思っている。だから、都会から帰って来た者をー故郷を捨てた奴=裏切り者ーというレッテルを貼り、バカにされないように、そして優位に立とうとするんです」
コンプレックスと無意味なプライド。そんなことでC君の純粋な思い、故郷愛を否定しているのだ。結局、資金はあまり集まらなかったが、地元で応援してくれる人たちもいてC君は映画を完成させた。が、その後、東京の大手映画会社が有名監督がその街で映画を撮影した。その時、オヤジは先頭に立って応援したという。C君はいう。
「地元の人間が戻ってくると故郷を捨てたと批判するけど、有名監督が来ると両手を上げて歓迎する。どちらも映画で街をアピールする。何が違うんですか? 」
その通りだ。要はそのオヤジのコンプレックスが強く、有名な人が好きで、その人を応援することで、コンプレックスを癒し、優越感に浸ろうとしている心理が見える。故郷愛より、自身のコンプレックスに支配され、他者を批判し、詰まらないプライドを守ろうとしている。
その街を愛し、その街の魅力を伝えようとしても、相手が無名なら、無視したり、邪魔したり、バカにしたりする。でも、それが有名人や大手企業だと手のひらを返したように、諂い、率先して応援する。
そして、その種の人は良く騙される。利用される。大手企業を盲目に信じてしまう。会社は自社の利益のために動く、口で綺麗事を言っても、街に対する愛なんてない。むしろ、C君のような存在が故郷をアピールする。
しかし、強いコンプレックスが邪魔をし、有名ブランドに飛びつき、バカを見る。そんな人たちを何人も知っている。愚かさを繰り返し、街の魅力を伝えることができない。そんなオヤジたち。どこの地方にも数多くいる。今、C君はこういう。
「僕は二度と故郷で映画は撮りません。故郷愛を履き違えている人たちとは何もできない。観光地の方が映画製作を応援してくれる。そんな街で今後は頑張ります」
映画の「音効」とは何か?どんな仕事なのか? [映画業界物語]
映画の「音効」とは何か?どんな仕事なのか?
昨日、音効さんと打ち合わせ。温厚というのは音響効果の略。劇映画の場合だと、パトカーのサイレンの音とか、銃声、爆発音とかが音響効果。というのも公道を走る時、劇用のパトカーがサイレンを鳴らしてはいけないのだ。本物と勘違いする人がいるから。だから、赤ランプだけ回して、サイレンの音は後で入れる。
銃声や爆発音も同じ。モデルガンも火薬を使っているのでパン!という音がして煙が出るが本物と音が違う。なので、激しい本物の音をスタジオで入れる。爆発も同じ。それだけではない。例えば撮影現場で音を録れない時がある。そんな時はアフレコをし、音は画面に見えるもの一つ一つに音をつける。それも音効さんの仕事。
「明日にかける橋」でいうと、高校生みゆきが二階で家での準備をしている時、一階のダイニングでは家族がテレビを見ながら食事をしている。そのテレビで「ニュースステーション」(?)を放送しているのだが、撮影時にそのニュース原稿をスタッフが読む。それにより俳優たちがニュースを聞き、テレビを見ている感を出した。
ということはスタッフが読む声が現場に流れる。それを録音すると当然、その声も入ってしまう。なので、後でその声を消して、久米宏?役を演じてくれた俳優さんのセリフに入れ替え(これは後日撮影したもの)さらに、ご飯を食べる時の茶碗や箸がぶつかる音を音効さんが作って、画面に合わせて入れてくれている。
映像の中で当然ある音が聞こえると観客は疑問を抱かない。当然だと感じ気づかない。が、その音がないと誰もが「あれ?」と思う。だから、一つ一つ、そんな音をつけていく。ケンタが立ち上がりコロッケを持ち去る部分なら、当然、椅子を引いて立ち上がる。その音も入れる。ダイニングから出て行く足音も入れる。音効さんの仕事は地道だが、本当に大変なものだ。
以上が劇映画の場合。では、ドキュメンタリーではどんな作業をするのか? それは僕の次回作「ドキュメンタリー沖縄戦」を見た時のお楽しみで。
映画の著作権って何? 映画って誰のもの? 地元映画の活用法 [地方映画の力!]
映画の著作権って何? 映画って誰のもの? 地元映画の活用法
地方の団体が作った映画。謂わゆる町おこし映画。ときどき、こんなことを言い出すオヤジがいる。
「ワシら金出して作った映画じゃ。あとはどうしようがワシらの勝手だ!」
困った人だ。田舎で生まれ育った方で、一代で会社を築き、町の顔役になった人なのだが、文化芸術のことをあまりご存知ではない。ま、学校でも教えてくれないし、テレビの情報バラエティでも紹介されないので、知らないのも仕方ないところがあるが、自分の知らない分野を自身の価値観だけで判断するのは危険である。
映画は総合芸術と呼ばれるように、様々な芸術の集合体。同じく権利もあれこれ絡み合っている。説明しよう。映画は基本、製作費を出したスポンサーが権利(著作権)を保有する。と言って、映画が完成した後に、映画の1場面を使って地元銘菓のCMを作ったり、映画のスチールで地元企業のポスターを作ることはできない。
地元の権利は映画=作品の所有であり、全ての権利を持つ訳ではない。例えば俳優の映像や写真は肖像権があり、それは俳優=所属事務所の所有物、映画として使用する以外の目的で使うには許諾(追加ギャラも)必要となる。
そして地元といえど、勝手に映画の一場面を使った写真が入ったもの、映画タイトルが記されているグッズを作ったり、キャラクター商品を作るのは違法。売れば犯罪になってしまう。
映画を絵本化や小説化する。あるいは地元で舞台として公演する場合は脚本家、監督の許諾が必要。俳優の映像は使わなくても、物語を使用する。物語は脚本家が作ったものであり、映画にするということでギャラを払い、使用しする。
支払いをしたからと物語が地元のものになるのではなく、権利を借用しているという形。権利を買い取った訳ではない。著作権の売買は基本できない。あくまでも借りているだけ。
さらに音楽は音楽家が著作権を持っている。これも他と同じで映画以外で許諾なしに、その音楽を使うことは違法行為となる。そして、それらをまとめ統括しているのが製作会社。もし、別の用途で使うのであれば、製作会社を通して本人サイドの許諾を取り、多くは別途料金を支払い使用する必要がある。
クリエティブなもの。音楽、物語。そして個人の肖像権。製作費を出したからと、それら全てを買い取ったのではなく、映画の中で使用する権利を取得したというのが正確なのである。それぞれは著作権という法律で守られており、約束以外の使用は違法行為となる。
それを先のオヤジさんはまるで、商品を買ったかのように「映画はワシらのものだ!」と思い込んでしまった訳だ。では、地元は何ができるのか? 一番の収入が期待できる映画として映画館公開、イベント上映を開催することができる。DVD化も地元が権利者だ。ただ、どうしても地方団体は業界に詳しくないので、それら展開は必ず製作会社や配給会社を通して、相談して行うことが大事。
それをせずに外部の会社と契約をしてしまうと、後で違法行為と訴えられることもあり得る。一般に問題ないと思っても、映画界では絶対に許されない。法的にも問題ということはいろいろある。それさえクリアできれば、映画は様々な展開が可能。全国へ。世界へ発信できる。何億円分もの宣伝効果が上がる。頑張ってほしい。
地元映画を生かす「明日かけ」の地元。でも、映画を生かせない街も多い? [地方映画の力!]
地元映画を生かす「明日かけ」の地元。でも、映画を生かせない街も多い?
昨日も「明日にかける橋」の地元実行委委員会の方から電話があり、今後の展開についての相談を受けた。彼女らは本当に勉強家で、疑問があると、あるいは新しい展開を思いつくと相談がある。映画を活用する上でとても大切なことだ。
というのも、映画を作った多くの町は地元で完成披露上映会をすると、あるいは映画館上映が終わると、「あーー終わった!終わった!」と解散し、何もしなくなることが多い。何のために映画を作ったの? 故郷をアピールするためでしょう? そこからが地元の皆さんの出番ですよ!というのに、そこで終わる。
一つには撮影は製作会社、公開は配給会社が中心に進む。地元はその協力をする。が、劇場公開が終わると、あとはイベント上映。これは地元が主となり計画し、推進する。が、その方法論が分からないのと、誰かが進めてくれないと動こうとしない地方の体質があるようだ。地方では問題が起こると「国が、県が、やるべきだ!」といい出す人が多い。自分たちで考えて動くこと。地方ではなかなかしようとしない。映画も同じ。その意味で今回の地元は本当に凄い。
地元映画のよくある展開。「何もしない」ともう一つある。やってはいけないことをどんどん進めてしまうこと。前回の記事に書いたが、映画は権利の集合体。その全てを地元が保有している訳ではないのに、映画を買い取ったかと勘違い、先の記事で書いたが、無断でグッズを作ったり、演劇にして上演したり、歌を作り演奏会をしたり、これらは違法行為となる。
それを指摘すると「知らなかった!」とショックを受けて、それ以降何もしなくなってしまう。それこそお蔵入り。当然、主なる権利を持つのは地元。他の会社やテレビ局が「うちで活用します」なんて言って来ない。いろんな活用法があるのに、全く地元PRにならない。そんな町も多い。
残念な話をよく聞くだけに、今回の地元は本当に頑張っていること。そして勉強家であること感じる。なぜ、映画を活用できないか? 動こうとしないか? それは知識がなく、勉強しないから。今回は撮影前から勉強会を何度もしている。そこが本当に凄い。
映画は寿命が長い!何年経っても上映できる。 [2019]
いろんな縁が交差する想い出の映画館ジャック&ベティ [映画業界物語]
「向日葵の丘」2015年、横浜シネマ・ジャック&ベティで上映してもらった時の写真。この映画館は学生時代に通った元・横浜名画座。10代の時に行った映画館で自分の監督作が上映されること。毎回、感動する。
ちなみに、この映画館が「向日葵の丘」に登場する映画館・かもめ座のモデル。どちらも2階建。階段を上がって受付に行く。さらに映画で津川雅彦さんが演じた梶原支配人の名前はこちらの支配人さんからお名前を頂いた。
その数年後「向日葵」の主演・常盤貴子さんの「誰かの木琴」という映画をこの劇場で上映した時。舞台挨拶があり、お祝いに向日葵の花束を届けた。
その時に支配人の名前の話をしたら常盤さんは「あーー本当だ!」と笑っていた。その時の映画「誰かの木琴」は東陽一監督。実は初めて僕が見学した撮影現場が東監督の映画!37年ぶりに監督にご挨拶した。
そして、僕の監督作「朝日のあたる家」も「明日にかける橋」もここで上映して頂いた。感謝!
俳優は超能力者?!=撮影のたびに驚愕する名女優たちとの思い出② [映画業界物語]
俳優は超能力者?!=撮影のたびに驚愕する名女優たちとの思い出
俳優っていうと、綺麗、可愛い、カッコいいという印象が最初に来がちだけど、一緒に仕事をしていて、いつも感じるんのは別のことだ。綺麗、可愛い、かっこいいならモデルさんだって同じ。でも、俳優たちはモデルとは違う魅力があり、存在感と凄さがある。
それって何なんだろう?と考えるが、「超能力」と言うのが相応しいのではないか? そういうとテレポートやサイコキネシスを使うの?と言われそうだが、それに近いものがある。例えばオリンピック選手と同じ。マラソンや水泳は誰でもある程度できるので、タイムやスピードの凄さは体感し辛く伝わりにくいが、アイススケートや平行棒など、やはり超能力としか言えない凄さがある。
俳優のそれも分かりにくいが、同等のものを感じる。他人の人生を演じて、自分が体験していない悲しみや喜びを表現してしまうのはやはり超能力だろう。そんなことを現場で何度も見ている。「向日葵の丘」の常盤貴子さんのクライマックのスピーチは、本人の言葉としか思えない。僕自身が書いた台詞なのだけど、聞いていて「いいこと言うなあ〜」と思ってしまった。
「明日にかける橋」の田中美里さんが娘とは知らず鈴木杏ちゃんに、娘に伝えなかった思いを食堂で語る場面も、母親である彼女が悩み考えて、言葉にしているとしか思えない切迫感があった。いずれのシーンも、5分前後の長い場面を台詞だけで引っ張って行く。撮影時はもちろんワンカット・ワンシーン。
力のない俳優や新人では絶対にできない表現力なのだ。僕は特に自分でシナリオを書くので感じるが、僕自身があれこれ考えて書いた台詞。それ自体はもちろん人生を刻み込んだ言葉なのだが、それだけでは人々を感動させることはできない。
でも、常盤貴子さんや田中美里さんが演じ、台詞を言葉にすると、誰が見ても分かり、感動する。別の言い方をすると、どんな素敵な歌詞があっても、それはポエムと同じで「いいね!」で終わることが多いが、力のある歌手が歌うと物凄い感動になる。それはある種の超能力だ。「明日にかける橋」は全国のTUTAYAでレンタル中。DVDで俳優陣の素晴らしい演技を確かめてほしい。
作曲家ミシェル・ルグランが、1月26日に86歳で死去 [2019]
作曲家ミシェル・ルグランが、1月26日に86歳で死去
フランスの作曲家ミシェル・ルグランが、1月26日に86歳で死去したとのニュースを少し前に聞いた。ミッシェル・ルグランはフランシス・レイと並ぶ映画音楽の大家で、70年代の映画ファンにはお馴染み。僕がビートルズやローリングストーンズを聴きだす前。はひたすら映画音楽を聴いており、FMで特集があると何日も前からカレンダーに丸をつけて、カセットに録音する準備をしていた。
映画音楽はいろんな曲を1枚のLPレコードに収録というのは、ポールモーリアのような楽団が演奏したものしかなく。サントラ盤ではなかった。メインテーマばかりというのはラジオから録音するのがベスト。そんなカセットを何本も作った。
その中で日本人好みの美しい曲というは、フランシス・レイとミッシェル・ルグランの2人が多かった。レイは「ある愛の詩」「白い恋人たち」「男と女 」「個人教授」 等が有名。ルグランは「シェルブールの雨傘 」「華麗なる賭け」「太陽が知っている」「 おもいでの夏 」「栄光のル・マン 」「愛と哀しみのボレロ」 等で有名。
80年代にポップスで「ユーミン」派と「みゆき」派というのがあった。それとよく似た構図で、それでいうと僕はルグラン派だった。あの「おもい出の夏」のテーマソング。美しすぎて怖いくらい。映画自体よりも音楽の方が良かったマックイーンの「華麗なる賭け」。「シエルブールの雨傘」は映画を見なくても、曲だけで泣いてしまう。
音楽の凄さを感じたものだ。当時は他にもジョン・ウイリアムス。ジェリー・ゴールドスミス。ニーノ・ロータ。モーリス・ジャール、バート・バカラック、バーナードハーマン、お馴染みの音楽家がいた。ジョン・ウイリアムスは今も健在。あの「スターウォーズ」の作曲家。「インディジョーンズ」も「スーパーマン」も「ET」も全部彼の作品だ。
日本映画はどうしても音楽を軽く見ているような気がして、実際、スタンダードになる映画音楽はほとんどない。海外の映画。特にアメリカ、フランス、イタリアは誰もが知るスタンダードナンバーがかなりあるのに、その違いは何だろう?やはり日本の監督たちは音楽を軽視しているのではないか?と思えたり。
タラのテーマ(風と共に去りぬ)、ゴッドファーザー愛のテーマ、ある愛の詩、と、誰もがどこかで聴いたことがあり、映画を離れて生き続ける曲の数々。やはり、映画作家たちが音楽の重要性を理解し、愛があったからではないか? 僕の先輩監督。ベテランのその人は、
「この場面は大事だから音楽なしで行きたい」
と言っているのを目にしたことがある。やはり、音楽は添え物的な位置ずけなんだろう。
「ここは間延びするから、音楽を入れて欲しい」
とか、映像や芝居の不味さを軽減するための材料のようなことをいう。そもそも、監督という人が音楽に興味ないことが多い。クラシックファン、ジャズファンの監督ってあまり聞かない。あ、黒澤明はクラシック好きだった。イーストウッドはジャズが好きで、「バード」という映画まで撮ってしまった。ミッシェル・ルグラン死去のニュースでそんなこと。いろいろ考えた。