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「明日にかける橋」に影響を与えた映画「バック・トウ・フューチャー」と。もう一本。超意外なあの映画とは!? [9月ー2018]

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1985年。僕はLAに留学。USC(南カルフォルニア大学)の英語コースで学んでいた。そんなときに、新学期早々に見たのが「バック・トウ・ザ・フューチャー」だった。それもサンセット大通りにあるシネラマドームで観た。

これがもうメチャメチャ面白い映画で、場内は笑いと拍手の連続。大盛り上がり大会。映画として面白いだけでなく、タイムトラベルものとしてもエポックメイキングだった。これまでは遠い昔、例えば恐竜時代とか、第二次世界大戦時とか、あるいは未来にタイムマシンで行く、ジョージ・ウエルズの小説のような物語が多かったのに、「BTTF」では近過去。1955年。両親が若かった時代にタイムトラベルとするいう発想が新しかった。

これはやられたーと思った、そんな映画を作ったのはロバート・ゼメキス。スピルバーグの弟分的な存在で、その後、大ブレイクし「ロジャーラビット」「フォレストガンプ」等を作る人。同時に僕が学ぶUSCの映画科で学んだ監督。その映画科に僕も1年後に入学することになり、彼の後輩になるわけだが、まだそうとは知らず「やるな、ロバート!」と思っていた。

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それから30年ほどが経ち。僕の監督デビュー映画「ストロベリーフィールズ」の次回作としてタイムトラベルものを考えていた。過去に戻り、死んでしまった初恋の女子高生を助けに行くという物語だった。主人公は妻に愛想をつかされて離婚。娘には嫌われているダメ・サラリーマンの親父。だが、予算がかなりかかるので、とてもそんな額を出してくれるスポンサーはいなかった。

それから10数年。その物語をあれこれ考え続け、娘が両親に会いに過去に戻る話でできないか?と思えていた。そんなところに今回も、袋井市、磐田市、森町からの依頼。町は日本の原風景が残る素敵な町。また前作は「向日葵の丘」で1989年を舞台にした。次はバブル時代がいいかな?と考えていたので、それらを合わせて10年前の物語をできないだろうか?と思えた。

2016年秋。町をロケハン。タイムスリップするにふさわしい橋を見つけた!そこから一気にシナリオを書き「明日にかける橋」の物語が完成。町の花火大会をクライマックスに持ってくると、当初僕が考えていた以上の物語になった。というより、花火があるべきストーリーなのだ。ここまではマスコミ等の取材で答える「物語ができるまで」なのだが、もう一つの面がある。

「明日」を観たSF映画好きの何人かが「タイムスリップ映画のルール」を破っていると指摘した。その手の映画では歴史を変えてはいけない。自分に会ってはいけない等。幾つかのルールがあり、それを踏まえてストーリーを作らねばならない。「明日」はそれを完全に打ち破った物語にしてある。が、いくつかの理由がある。まず、その手のルールをなぜ、守る必要があるのか? 物語は自由。縛られる必要はない。何より「BTTF」がすでにそのルールを破っている。

推理小説でもルールがある。犯人は必ず物語に登場してなくてはならない。「犯人はあなただ!」と言われたとき、読者が知らない人物なのはルール違反。しかし、推理小説だって、松本清張の登場で犯人当てではない、社会派ミステリーが確立した。誰が犯人か?ではなく、事件を追うことで社会の暗部を切り裂いていくというもの。「砂の器」も誰が犯人か?で見せる物語ではない。

そんなふうにタイムスリップものといっても、従来のパターンと違う形で作りたかった。というのは、「BTTF」とは別にあの映画の手法に挑戦したい!という作品があったのだ。これは本邦初公開。実は「田園に死す」である。寺山修司監督の名作。あの映画では現代の主人公と過去の少年時代の主人公が対峙し、議論する。自分に批判され、なじられる。そのパターンを持ち込みたかった。

監督 脚本 原作 寺山修司
出演者 菅貫太郎 高野浩幸 原泉 八千草薫
配給 日本アート・シアター・ギルド
公開 1974年12月28日

ただ、寺山修司の映画はそれができる世界観があるが。通常の映画でそれをやると訳が分からなくなる可能性がある。そこでタイムスリップを使った。そうすれば過去の自分と会い、若き日の自分と話すことができる。皆さんはこんな経験はないだろうか? 昔書いた日記を読んで、あるいは小中校時代の作文を読んで、「私はこんなことを考えていたんだ」と驚いたり、若き日の情熱や憧れを思い起こしたりしたことはないだろうか?

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人は大人になるにつれ夢をなくし、現実に迎合し、世間に染まっていく。でも、若いころは純粋で、まっすぐで、反抗し、夢を実現しようとする。それがいつしか挫折し、悩み、厳しい壁にぶつかり、おとなしい、物分かりのいい大人になっていく。でも、作文や日記。何か当時のものを読むことで励まされたり、思い出したり、勇気付けられたりしたことはないだろうか?

寺山修司は「田園に死す」でそんな若き日の自分と、汚れきって希望をなくした自分を対峙させた物語を描いている。それをやりたい!と思った。そのために必要なのが、タイムスリップなのである。SFやファンタジーの世界なら観客が迷うことなく、自分VS自分の構図を見せることができる。現代の自分VS若き日の両親という構図を見つめることができる。

これは現代劇でも、時代劇でもできない形。SFというジャンルでないとできない。現代の自分と年老いた両親との対峙では見えてこない思いも、現代の自分と若き日の両親が対峙することで見えてくる。親子とは、家族とは、幸せとは?を考えるドラマができる。つまり、タイムスリップでハラハラどきどきする物語を作りたいだけでなく、その形を実現するためのタイムスリップなのだ。だからこそ、従来のルールに縛られることはなく、縛られていては、その構図と物語は描けないのである。

実はこの構図。前作の「向日葵の丘」でも、少しだけ試している。最後の映画館の場面だ。現代の自分(常磐貴子)と高校時代の自分(芳根京子)がすれ違う。その場面で常磐さんはすごく納得したふうに「寺山ですね?」と言った。その通り。さすがだ。今回の主演・鈴木杏さんも天井桟敷は好きなはず。そのことをきっと理解してくれていたに違いない。

その世界観を理解する俳優が演じるから、成立する。単なるSFと思われると、テーマが分からなくなる。そう、これでわかってもらえたと思うが、主人公・みゆきを多くの人が励ますが、最後の最後にエールを送るのは誰だったか? 映画を観た人なら分かるだろう。そう、自分こそが一番の応援団。記憶の中の若き日の自分の行動、言葉が今の自分を支えている。それを物語にしたのが「明日にかける橋」なのである。


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「明日にかける橋」はなぜ、1989年を舞台にしたか ? [9月ー2018]

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マスコミ取材では必ず訊かれたので、何十回も話したが、考えると文章にしていないので書いてみる。前作「向日葵の丘」は「1983年夏というタイトルの通り、1983年の物語である。バブル前夜とでもいうへき時代。日本はまだ経済大国ではなかったが、何か新しい時代が始まる予感がして、明るい未来を感じた時代だ。

僕は当時、6畳1間の下宿パートに住んでいた。トイレ共同。風呂なし。2万円の家賃。でも、それが平均的な学生だった。そこから日本はバブルに突入して行く訳だが、そんな時代を舞台に映画研究部の女子高生。その青春を描いた。バブル以降の日本は物質的には豊になった。が、日本人は大切なものを置き忘れて来たのではないか? では、その大切なものとは何か? 幸せって何なのか? それを描いた作品。クライマックスの常盤貴子さんの台詞いその思いを込めた。

そのテーマを別の角度から描いたのが今回の「明日にかける橋」である。バブル前夜の1983年から、今回はバブル最盛期の1989年に舞台を移した。それもバブルの恩恵を受けた都会ではなく、その波が届いた頃には終ってしまう地方を舞台にした。そんなふうにして、貧しかったが希望のあった1983年と対比。都会を追いかける地方。経済大国になりながら、そこで苦悶する人々。そしてバブル崩壊を見つめることで前作とは違った局面で、日本と日本人を描くことができる。

前作では描けなかったものが、見えて来るのではないか?と思えた。そう考えたとき、バブル経済の最盛期である1989年が相応しいと思えた。さらに、89年は平成元年でもある。大きく時代が変わった年だ。そのことも近代日本を見つめる上でプラス、そしてこれは意図してなかったが、その平成が今年で終る。そのことで「明日にかける橋」は日本人が平成という時代を振り返る物語にもなった。

大人たちは「あー、あったなこんなこと....」「オウム事件、阪神大震災、宮崎勤事件、ロックフェラーセンター買収、911....と時代を思い出し、子供たちは「これが噂に聞くバブルかあ〜」と感じる。いずれにしても30年を見つめることで、これからの30年。次の時代をどう生きるか? 反省と後悔の上に、次の時代の意味を意義を見つける。それが1989年という時代を選んだ理由である。


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「明日にかける橋」ついに横浜ジャック&ベティ公開。9/8(土)〜11:00回上映後、舞台挨拶 [9月ー2018]

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「明日にかける橋」東京、大阪、そして地元静岡で大ヒット。

ついに横浜ジャック&ベティ公開。

9/8(土)〜

初日11:00回上映後、太田隆文監督、ほかによる初日舞台挨拶開催!

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日本版『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は涙と感動の連続!

ぜひ、お越しください!

#明日にかける橋


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「明日にかける橋 1989年の想い出」 東京公開初日の舞台挨拶。有楽町スバル座。動画で紹介! [動画]





監督自ら司会進行。

俳優たちが撮影中の[マル秘]エピソードを披露する。

鈴木杏、板尾創路、田中美里、越後はる香、藤田朋子、太田隆文監督。



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映画レビューを見ると酷評が...。でも、それが映画ヒット中の証。それでいいのだ〜? [9月ー2018]

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映画が公開されると映画レビューや個人のブログ。評論家のHP等で映画の批評がアップされる。が、あれこれ見ていくと、かなり酷い批判や否定がときどきある。「レベルが低い!」「シナリオがダメ!」映画というのはいろんな感想があっていいもの。皆が絶賛するのはありえない。だから、どんなところが不満だったのか? そうした批評も読む。

また映画というのは賞賛ばかりより、賛否両論の方が大ヒットすることが多い。「2001年宇宙の旅」や「地獄の黙示録」は当時「最高の作品」「いやいや、最低の駄作だ」という両方の声があった。そんな批評を見て「本当はどうなんだ?」と多くの人が映画館に行き、ヒットに繋がった。

が、残念ながら(?)「明日にかける橋」はほとんどが「感動した」「泣けた〜」「最高でした!」という感想。賛否両論ではない。ただ先に上げた「2001年」等と違い難解な物語ではなく、まさに感動作として幅広い層に見てほしい作品なので、それらの評価はうれしい。

そして、極々一部だが厳しい批判も出て来た。実はこれは大切なこと。「批判されてムカつく」ということはあるだろうが、批判する声が出て来たということは、より広い層、より多くの人、いろんなタイプの人が映画を見てくれたという証なのだ。つまり、絶賛絶賛だと関係者しか見ていない。ファンや支持者しか見ていないということにも繋がる。

これまで僕の映画を観たことの無い人。ロケ地と関わりのない人。この映画を応援していない人。そんな人たちも見てくれたということだ。どんな人なのか?批評の中身を見ると分かる。例えば「シナリオがダメ」という声があった。理由は「タイムスリップして過去に行ったのに、現在のお金で買い物をしている。あり得ない!」というもの。笑える。その辺のことを調べずにシナリオを書く訳がない。

説明しよう。1989年と現在まで。紙幣が変更されたのは1万円札だけだ。それも比較してみないと分からない程度の変更。どちらも福沢諭吉。あとの紙幣。コインは全て同じ。問題は製造年だけ。でも、買い物するときに店員さんがコインや紙幣のひとつひとつの年号を調べて受けとるということはない。だから、主人公たちが買い物をすることはできる。

1万円札が聖徳太子から福沢諭吉に変更になったのも、500円玉が登場したのも1980年代前半。映画の舞台となる1989年には聖徳太子札も岩倉具視札(500円札)もない。だから、現代の貨幣で買い物してもバレない。つまり「買い物できない」と批判を書いた人はその知識がなかった。「昔と今はお札が違うはずだよなあ〜」という不確かな思い込みで調べもせずに「シナリオがおかしい」と批判しているのだ。

さらにいうと、お金の部分は「シナリオ」というより「設定」にあたる。「シナリオ」というのはストーリー部分を主に指す。もっと厳しく言えば、よく「シナリオがいい」という人がいるが、その人はシナリオを読んではない。映画を見てストーリーがいいと感じただけだ。さらに言えば、本来のシナリオと撮影されたものは多少違う。シナリオに書かれてあった部分がいいのか? 撮影現場で俳優がアドリブで言った台詞がいいのか? シナリオ協会と違う結末もある。映画を観ただけでは判断はできない。

なのに「シナリオがいい」という人が多い。そんな表現をするのはたいてい映画ファンと呼ばれる人たち。映画ファンはピンキリ。本当によく映画を見ている人から、ミーハーなだけのファンまでいる。その種の安易な思い込みで批判するのは初級映画ファン。中には1989年には生まれていないのに「現代のお金で買い物はできない!」という批判する人もいた。とにかく、そんな若い人たちも「明日」を見てくれたということなのだ。

他にも笑ってしまうような批判もいくつかあった。面白いのは映画を見ていて「あれ?」と思ったとき「自分に理解する力がなかったのか?」とは思わず「映画の説明が下手だから分からなかったのだ」と演出が問題だと解釈する人が近年増えている。「突っ込みどころが満載」という批評もときどき見るが、その手の表現をする人のほとんどは「あんたに見る力がないんとちゃうの?」といいたくなる。

映画はただボーと見ていて分かるものもあるが、考えながら見ないと複雑な設定を理解できないもの。表面と裏側のテーマが違うもの。いろいろある。映画はテレビドラマのようにご飯を食べながら見て分かるように作ってはおらず、暗闇の中で集中して見ることで分かる演出や構成がされている。また、全ては説明されず、映画は様々な部分が省略される。省略の芸術と呼ばれるほど。そこは想像で補う。それが映画だ。

なので「あれ?」「なんで?」と若い人が思ったとき、「あれはどういう意味だったのか?」と考えず「シナリオがダメ」「突っ込みどころ満載!」とか、自分は完璧。映画がダメなのだと判断してしまう。その背景を考えると、僕が書くいつもの「教育問題」に繋がる。与えられることをこなすだけの教育で大人になったので、考える力が不足しているのだ。が、また長くなるので別の機会にしたい。その種の映画ファン、安易な分かりやすい映画しか見ない若い人たちも、「明日」を見てくれたということが、その種の批評から分かる。

シナリオというのはプロが書き、監督がそれを把握する。そして演出部が読み込み。「矛盾点がないか? 設定に間違いがないか?」徹底して考える、美術部が当時を勉強。必要な物を探し、或は作る。撮影部がそれを撮る。時代に合わないものや当時あるはずのないものは選別。その辺はプロのスタッフ。プライドがあるので徹底している。毎回、「そこまでやるか?」というほど調べる。当然、監督は突っ込まれないように、必死に勉強をする。僕の場合、「青い空」では書道。最終的に書道協会で講演までさせて頂いた。「朝日のあたる家」では原発。徹底的に勉強した。

今回なら1989年。それだけで何時間もしゃべれるほど勉強。おまけに当時を経験している。だから、若い映画ファンが「あれ?これおかしいよ〜」なんて思っても、本人の知識不足、思い込みであることが多い。が、映画ファンの一部は努力しないのに「俺は鋭い!」と思っている人が多く、調べないでその種の批判を平気で書き込む。話が逸れたが、そんな映画ファンも「明日」を見てくれているほど、観客層が広がって来たということだ。

また、映画ファンというより映画マニアという人には世間で評判のいい映画をけなしたい。否定したいという輩がいる。とにかく否定する。「何か恨みあるの?」という感想をブログやレビューにアップする。その手の批評が出てくるのも、かなり評判がいいという証でもある。評判がいいから「否定してやれ!」とブログを書くのだ。そんなふうな批判や否定を見ると関係者は気分が悪くなるが、多くの人に見られて来たという証。その意味で「明日」はいい線行っている。

そんな人たちを集めて、疑問に答える会というのをしたい。いろいろ批判を読んだけど「なるほどーそれは気付かなかったなあ〜」というものはない。ほとんどが勘違い、知識不足。揚げ足取り。自分の趣味でない映画を「レベルが低い」と表現。レベルではなく趣味でないだけ。というものが多いので、その辺を解説してあげたい。

ただ、貧乏暇なしで、そんな余裕もないので、機会あれば「明日」の背景、設定、物語、テーマについてこのFacebookやブログで解説したい。映画公開前にそれをする訳には行かないが、静岡公開の大ヒットでさらに多くの方々が見てくれているので、もう少しすればOKかと思っている。






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悪意のない人たちのために時間が奪われる。どうすればいいのか?反省と分析で同じ過ちを止めたい。 [映画業界物語]

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おかげさまで「明日にかける橋」地元静岡県で大ヒット!この映画の最大のイベントとなる舞台挨拶ツアーも終えた。残るは横浜公開の舞台挨拶だけ。これでようやく通常の生活に戻れる。

が、めでたし、めでたし!ではない。「明日」のテーマでもあるが、僕は振り返る。常に振り返って反省をする。あの 問題は なぜ起きたのか? 何がいけなかったのか? 誰に責任があるのか? もちろん、映画の最終責任は全て監督だ。しかし、責任転嫁をするのではなくなぜ、あんな結果になったか?の過程を検証し、何が、誰が問題だったのか?を把握することは大切だ。

そういうと、ある先輩は「愚痴をいうな!」と怒った。が、愚痴ではない反省であり、問題の再検証なのだ。調べると=>ぐち【愚痴・愚癡】  言ってもしかたがないことを言って嘆くこと=なのだ。僕がいうのは反省なのだが、先輩はそれを愚痴と指摘する。「いつまでもグチグチ言わずに、さっぱり忘れて前向きにいけよ」という友人もいた。が、友人も先輩も毎回同じ失敗を繰り返し目標を達成したことがない。「俺は愚痴を言わない。前向きに行くといいながら、要は反省いないので同じ失敗をするのだ。反省し、分析し、検証し、次に同じ失敗を繰り返さないルールや体制を作ることが大事。

現段階で一番の反省は、やはりメイキング。地元の方々が放送を見て大感動してくれたので、やった意味はあり「無理!」と断らなくてよかったと思える。が、実際、その期間にするべきだった仕事ができていない。そのために2ヶ月近くの時間を奪われた。本来、まともな素材なら1ヶ月もかからない作業である。

そのあとに編集した宣伝用の素材も最悪で、普通は数時間でできるものを4日もかかった。2つの恐怖の素材を編集していると、なぜ、手抜きやマヌケな失敗を取り戻すために、通常の何倍もの時間や労力を使わなければならないか?自問自答してしまう...。

その時間があれば、もっと映画宣伝をする。録画したニュース番組を見る。次の仕事をすることができたのだ。もう、数ヶ月。新聞もテレビも観ていない。DVDレコーダーで録画してあるが、ディスクがいっぱいで7月頃で録画が止まっている。作家として時代を把握することはとても大切。スポーツ選手が毎日ランニングするようなもの。それが全くできていない。

また、大阪公開で映画を観てほしい友人たちに連絡することもできなかった。ネットをやっていない人。年配の人には手紙を出すしかない。が、その時間がなかった。宣伝だけでも忙しいのに、あのメイキングを編集したために、さらに余裕がなく、過去にお世話になった方々に知らせることもできなかった...。彼らの多くは「明日」を見ていない...。幸い、大阪での続映が決まった。が、それでめでたし...ではない。

編集はものすごい集中力が必要。通常は電話もメールも止めて作業する。が、今回は静岡公開、大阪公開、アメリカの映画祭があり、配給会社からもバンバン連絡が来る。必要で電話してきた関係者にイライラが頂点で怒鳴ってしまったこともある。また、そんなときに限ってFacebookに「静岡市での上映は何時からですか?」とコメントしてくる奴もいた。「自分で調べろーーー!」と思える。編集時は精神状態が普通ではない。おまけにあのメイキング作業時は毎日、怒り心頭。睡眠時間を削り、長時間の作業。体も心もボロボロになっていた。

そして、その間にも、いろんな人からメールやメッセンジャーが来る。が、返事を出す余裕がない。嬉しい連絡もあるが、いちいち言ってくれるなというのもが多い。最近はFacebookで無神経なコメントがほとんどなくなり「友達」たちにはとても感謝している。が、ときどき、新規の「友達」はそれを理解しておらず、無神経なことを書いて来る。先日もとても失礼なコメントがあった。本人は言葉使いを知らなかっただけだが、第三者が見れば誤解を招くもの。悪意があれば無視するが、実際に会っているし、いい奴なのだ...。

なのでイライラが頂点の中。怒りを押さえて長い説教文を書いてメールした。そんなことに時間を使える余裕は本来ないのだ。また言わなくていいことをわざわざ連絡してくる関係者もいて、これで何回目か!あまりに頭にきたので「友達」から削除してやった。先のメイキングと同じで、悪意はなくても、深く考えずにコメントする人たち。余計なことを伝えてくる輩。そんな連中ためになぜ、時間を費さねばならないのか? 

もっと作品をよくしたい。もっと映画の宣伝をしたい。ニュースや新聞も見ないと時代から遅れて行くなのに、その種の対応に時間を奪われる。しかし、こんなこともあった。あまりにバカなことを言ってくる奴を「友達」から削除したら「監督に切り捨てられた! 応援しているのに!」と被害者気取りであちこちのFacebookに書き込みをされたこともある。事情を知らない人は「それは酷いなあ!」と何人もが賛同し僕を批判してきた。

Twitterを見ているとよくいるが、デマに乗せられて「それは許せない!」と相手を攻撃する人たちがいる。尻馬に乗って批判する人たちも多い。その情報が本当なのか? デマなのか? 考えずに反応する。ネット社会だけではない。そんな人たちを今回の「明日にかける橋」でも描いた。金持ちの大豪寺に言われると疑うこともなく信じ込み、弟を救おうとする主人公たちの邪魔をする。純粋無垢な人たちが結果として、弟の死を推し進めている...。

話を戻して、あれこれコメントをくれる人も、メールして来る人も、悪意のある人はほとんどいない。でも、だからこそ大変で。メイキングの学生君やプロとは思えないカメラマンもそうだが、そんな人たちが悪意なく、行なうこと、コメントすることで、結果として多くの時間を取られる。すでに別の作業が2ヶ月も遅れている。何が問題だったのか? あのとき、どうするべきだったのか? と言って、これがいい!という方法論はなかった。でも、それを考えて、同じ悪夢を繰り返さないようにしたい...。


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