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明日にかける橋ー編集日記 ラストシーンはこだわれ! [「明日」編集]

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映画は終わりが肝心。「んーーーお見事!」と唸りたくなるエンディング。涙なしでは見れないラストシーン。やはり一番印象に残るのは映画のラストであることが多い。ラストが素晴らしいと思わず、映画館で頭を下げて「参りました!」といいたくなる。でも、ラストはお金をかければいいというものではない。やはりセンス。だから低予算映画でも素晴らしいラストは可能だ。

個人的に大好きなラストを思い出してみる。「ゴッドファーザーPARTⅡ」あのマイケル・コルレオーネの寂しい表情。兄を殺させた罪悪感。秋の風景。そしてニーノ・ロータの曲。本当に素晴らしい。新しいところでは「サイン」M・ナイト・シャマラン監督のスリラー映画。ラストシーンはワンカットの中で時世が変わる。台詞もないのにメル・ギブソン演じる主人公の新たな思いが伝わる。シャマラン監督、かなりセンスある。

そして「コクーン」はR・ハワード監督「ディア・ハンター」はM・チミノ監督。「アメリカン・グラフィティ」のG・ルーカス。「ロボコップ」P・バンホーベン。皆、ラストが本当に素晴らしい。

ちょっと意外かもしれないが「ダークナイト」シリーズもラストはかなり素敵だ。「ビギンンズ」「ダークナイト」「ライジング」とまず共通するのはドラマが終わったとたんにタイトルが出る。通常はオープニングだが、ノーラン監督はラストに持って来た。それもラストに出るからこそ意味のある使い方。

さらに、音楽と映像との調和が凄い。映像もフェードアウトではなく、いきなり黒みになる。そして音楽。おーーーという感じ。文章で表現しにくい。これもセンスだ。それでいえば日本の北野武監督も素晴らしい。「HANABI」のラストシーンは打ちのめされる。見事としかいいようがない。最後の銃声2発。でも、それを見せない。ラストカットは驚く少女の顔。そしてブラックアウトでテーマ音楽!凄い。

これも意外に言われなくて悔しいが「Brother」のラスト。主人公であるたけしではなく、黒人の俳優のアップで終わる。彼が映画で「ファックユー。ユーレアリィ・ファクキング・メン...」と毒づいたあとに「サンキュウ、サンキュウ・ソーマッチ...アニキ」と日本語でいい画面はブラック・アウト。

数秒の間を置いて久石譲のテーマ曲が流れる。その黒みの間が本当に凄い。そこで涙が溢れる。これは北野監督のセンスなのだろう。「ソナチネ」も「キッズリターン」もラストは素晴らしかった。えーーここで終わるのーーというのも、良く出来たラストシーンに多い。「スケアクロウ」がまさにそれ。「俺たちに明日はない」「明日に向かって撃て」も衝撃的。「ここで終わるか......」と打ちのめされた。そんな訳で名作と呼ばれる映画はラストシーンが素晴らしい。

なので僕もラストにはもの凄くこだわる。日本映画はよくフェードアウトで終わるが、「青い青い空」ではキャストたちが皆で手を上げたところでフリーズ。そしてブラックアウト(いきなり画面が暗くなる)を使い、次の瞬間にキャスト・クレジットをポン出した。フェードインではない。音楽は続けて流れ、そのままラストクレジット。「ここで終わるかーーー」という感じを出した。

「向日葵の丘」はシナリオでは映画館の中で終わるのだが、映画はその後、常盤貴子さんがバスに乗っているシーンが続く。その中で8ミリカメラを抱きしめたとたんにテーマ曲で、ここはフェードアウト。で、エンドロール。「朝日のあたる家」は先の2つと違い、俳優のショットで映画は終わらず、キャストたちが乗る車の後ろ窓に映る町の風景を延々と映す。そしてフェードアウトしてエンドロール。音楽は切らずに流れ続ける。

これらも文章で書くと想像できないと思うが、見てもらうと「うーーーーーーん」と唸るラストになり、観客の胸に突き刺さる。多くの人が僕の映画を褒めてくれるが、ラストがいい!と指摘してくれる人がなかなかいない。ま、ラストを含めての映画を評価してくれているのだけど、ラストは本当にこだわる。今回の「明日にかける橋」もシナリオ段階から映像と音楽を考えていた。

それを昨夜編集。かなりうまく行ったので、繰り返し4度も見た。今朝からも2回見た。夜見るといいが、昼見るとダメということもあるので、時間を置いて見た。が、これなら行ける。ぜひ、12月下旬の地元完成披露上映会で、そのラストを確かめてほしい。チケットは発売中。

詳しくはこちらの公式HP=>http://ffc2017.main.jp


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明日にかける橋ー編集日記 芸術家と不良の関係? [「明日」編集]

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ここ2ヶ月近く毎日、編集作業の進展を綴っている。その中で「電話をしないでほしい」「連絡を控えてほしい」という常識外れな要望を多くの関係者が受け止めてくれて本当にありがたい。ただ、今回初めてお仕事した方の中には困惑した人もいて「監督。電話しても出てくれないからなあ〜」とボヤいていると聞く。

本当に申し訳ない。携帯の電源を切っている。何度も書いたように編集作業とは霊を呼び出すような仕事。作業中に電話したり、人と話したりできない。そんなことをしたら数日間、作業がストップしてしまう。

ただ、常識でいえば仕事中に電話を受けるのは当然であり、同僚と話したり、上司から指示を聞いたりするのも仕事。なので「監督って、ちょっとおかしいんじゃないの?」と思われても仕方ない。ーというより、そう思っている人が多いけど。そんな際に業界外の人は「まあ、芸術家だからなあ〜」という形で理解してくれることがある。

ある授賞式に出たときも、僕はタキシードとかスーツとか持っていないので、Tシャツにジャケットという服装で出た。主催者に怒られるかと思ったら「監督は芸術家だから、それでいいよ」と理解された。ま、貧しくて、スーツって持ってないというだけのことなんだけど。「一般の人ってそう思うんだ.....」と再確認。芸能人を含め、その種の人たちの中には非常識な人が多い。その代わり人が書けない絵や小説を書く。芝居をする。歌を歌う。だから、変わっていても当然と考えるのだろう。

ある意味正解。めちゃめちゃな生活をしている画家とか、何ヶ月も髪を洗わない小説家とか、ゴッホなんて「耳がうまく描けない」と自分の耳を切ったことがある。結局、自殺。小説家でも自殺した人が結構いる。やはり、その種の人たちには変人が多い。でも、だからこそ素晴らしい作品が作れるのだ。まともな生活が送れる人に、感動の大河ロマンとか書けない。魂を揺るがす芝居はできない。

しかし、僕自身。自分が芸術家であるとは思えない。ごく普通の人生を歩んでいると考えていた。特別な能力もないから、努力するしかない。その上、タバコも博打もしないし、いたって真面目。吐くまで飲まないし、パチンコも麻雀もしない。が、この10年ばかり考えてみると、やはり「カタギ」ではないことに気づく。子供の頃から「変わっている」とよく言われていたのも思い出す。

そいう考えると「芸術家」はおこがましいが、「クリエーター」タイプではあるのかもしれない。「物を作る人」だ。映画や音楽でなくても、機械でも、楽器でも、その種のものを作る人はこだわりが激しい。仕事に夢中で家族を放りぱなし。食事もせずに仕事。常識を超えたことを言い出す。行動に移す。本田宗一郎らのエピソードにはそんな話がいっぱいある。

芸術家でなくても、その種のクリエーターたちも同じようなところがある。常識に縛られていたら、新しいものや素晴らしいものは作り出せない。集中し、真剣になれる環境作りも大切。人はどうしても流されてしまう。環境に影響もされる。ボクサーはタイトルマッチ前にジムに泊まり込むし、作家は締め切り前にホテルに缶詰(出版社が取ったホテルの部屋に泊まり込み原稿を書くことー編集者しか場所を知らないので、他からの連絡が入らず執筆に専念。食事もルークサービス。〆切に間に合わすためにそうする)になるというのも同じ発想だろう。

そう考えると、編集室にこもり連絡を絶ち、作業に専念する理由も理解しやすくなるのではないか? ただ、基本、映画人を含めた芸能関係、あるいは芸術関係の人たちは、やはり常識に縛られない人が多い。古い価値観を嫌い、まわりの顔色より自分の思いを優先させるので、波風をよく立てる。そんな意味では不良に近いのかもしれない。

もし、映画や音楽。絵や小説等の表現の仕事をしたい人がいるなら、自身を顧みてほしい。「かっこいいミュージシャンになりたい!」「映画界の巨匠になりたい!」とかいうのではダメだ。常識に従うことができず、自分を曲げない不良としてしか生きていけないというなら、きっとその道に合っていると思える。

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