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昨夜放送されたの再掲載ー「シン・ゴジラ」素晴らしかった! その魅力を分析。実はあの映画....】  [映画感想]

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【「シン・ゴジラ」素晴らしかった! その魅力を分析。実はあの映画....】 

期待をしながらも不安も大きかった。が、「終」の文字が出ると思わず拍手してしまった。今年の日本映画ではベスト1。「ゴジラ」映画でもトップクラスのクオリティと思える。その魅力とテーマを僕なりに分析した。

(以下、ネタバレ多数あり)

名作と言われる第1作の「ゴジラ」は水爆ー原爆。そして太平洋戦争の象徴がゴジラだった。街を破壊し、人々を恐怖に陥れる巨大な怪物。しかし、シリーズを追うごとにゴジラは正義の味方となってしまった。そのゴジラを悪役に戻しただけでなく、1作目で原爆や戦争の象徴として描いた怪物を今回は「原発事故」の象徴として描いている。ここが本当に凄い。映画界では原発事故はタブーだ。それを大ヒットシリーズである「ゴジラ」を使って描いてしまったのだ。

物語は東京湾に怪物が現れるところから始まる。そこからもう聞き慣れた311のときの台詞が次々に発せられる。「ただちに被害はありません」「想定外だ」「御用学者」そしてゴジラが津波のように東京に襲う。ここでもう津波ー原発事故を連想させる。あの福島の原発事故と同様、御用学者は何の役に立たず、自衛隊もゴジラには通用しない。ただ、都民は避難するだけ。そしてゴジラが移動したあとには放射能が検知。これは動く原発事故だ。

よくあの東宝がこの映画にゴーサインを出したものだと驚く。黒澤明監督の「夢」。あの映画では原発事故のエピソードがあるが故に製作費を出すのをしぶり、結果アメリカのワーナーブラーザースが出資と聞く。結果「夢」は日本映画ではなくアメリカ映画となった。その東宝がよくぞ!と思うほどに、「シン・ゴジラ」は原発事故映画なのである。そのことはゴジラとの最終決戦からも伝わる。



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第1作の「ゴジラ」はオキシジェン・デストロイヤーという新兵器で倒すのだが、今回は違う。新兵器ではなくゴジラを冷却するのだ。つまり、メルトダウンを冷温停止するという行動。ミサイル等を打ち込むのではなく、ゴジラの口から冷却液をクレーンで流し込むのである。

その行為は福島原発の原子炉を冷やすために水を流し込んだ巨大なクレーンを思い出させる。1作目の「ゴジラ」が単なる怪獣ものでなく名作となったのは単に怪獣が暴れるだけの物語ではなく、その背景に戦争や原爆の悲劇を描いたからである。同じように「シン・ゴジラ」は原発事故の悲劇を怪獣映画として描いている。

といって、社会派映画か?というとそうではない。特撮ファンが大喜びする場面が連続する。その前にこの映画一番の功労者は誰か?というと、やはり総監督の庵野秀明だ。「エヴァンゲリオン」の庵野だ。「シン・ゴジラ」は完全に彼の映画である。何より、ゴジラが最初、登場するところは使途かエヴァか?というルックス。さらに放射能光線を吐くときはもう巨神兵だ。そう宮崎駿監督の「風の谷のナウシカ」に登場する炎の巨人。あの動画は当時無名だった庵野が描いている。そんなふうに「シン・ゴジラ」では庵野ワールドが次々に登場する。

また、庵野監督は「ウルトラマン」好きでも知られる。「シン・ゴジラ」でも後半のストーリーは「帰って来たウルトラマン」のあるエピソードをベースにしていると思える(庵野監督が学生時代に作った自主映画「帰って来たウルトラマン」も同様のエピソードが下敷き)。パクリではない。あのエピソードが好きで溜まらないのだろう。実は僕も「ウルトラ」シリーズ屈指と思っている大好きな1編。そう「決戦! 怪獣対MAT」(脚本・上原正三)の回である。

グドンとツインテールが東京を襲う。ウルトラマンさえ歯が立たないので、MATの岸田長官(藤田進)はスパイナーという小型水爆と同じ破壊力のある爆弾で怪獣を退治しようとする。そんなことをしたら東京は死の街になる。

なのに都民を避難させてスパイナーを使うという。MAT隊員たちはその命令を待ってもらい2大怪獣に捨て身の攻撃をかける。もうお分かりだろう。「シン・ゴジラ」でアメリカがゴジラを核爆弾で攻撃するというのは、その話を踏襲している。「帰って来た」の名曲「ワンダバ」が流れるのではないか?!と思うほどだった。



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さらに最終決戦では「地球防衛軍」のマーチ等。以前の「ゴジラ」映画の名曲が次々に流れ、ファンとしては狂喜乱舞の連続。庵野監督の特撮マニア振り全開の展開となる。だが、単なる特撮ファンのための映画という訳ではない。後半戦。特別チームを編成してゴジラと戦う展開。ここにメッセージがある。

劇中の台詞でもあるように、縦割りで役所同士がいがみ合い争うから前に進めない。しかし、役所には優秀な人材がいる。プライベートを犠牲にしてがんばる人たちがいる。はみ出し者、嫌われ者、異端児、オタク。でも、優秀な人材を集めて、詰まらない枠を外して行動すればゴジラは倒せるという展開なのだが、これは原発事故にもいえる。英知を傾けて努力すれば福1も本当の意味で収束できる! そして、不況が続き未来が見えない社会にも「日本はまだまだ行ける。必ず困難を克服して前に進める。がんばれ!」という日本人への応援歌なのだ。

この部分が本当に素晴らしい。1作目の「ゴジラ」が戦争や原爆の恐怖を伝えたが、今回は原発事故の恐怖を伝えるだけでなく、希望を描き、日本人にエールを送る物語となっている。アメリカからいろんな横やりが入るが(核爆弾を使うとか内政干渉)それを撥ね除けて、各国に根回しを行けば、未来を掴めるという具体的なメッセージなのである。

だから、最終決戦の前。防護服を着た数多くの自衛隊員を前に主人公はスピーチをするが、隊員たちの顔や表情を見せない。なぜか? 本来なら彼らの決意の顔を見せるのが映画。でも、そうではない。この場面のスピーチは隊員たちより、この映画を見ている観客に向けてされたものだからだ。だから、隊員たちの顔を見せない。映画を見ている僕らへのメッセージなのだ。

「みんな死んでしまえ!」がキャッチコピーだった劇場版「エヴァンゲリオン」の1作目。その庵野監督が「希望」を語っているのだ。その変化は2作前の新劇場版「エヴァ」からも感じていたが、そのメッセージは今の日本に本当に必要なものだと思え、心から共感した。


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その「シンゴジラ」のラストシーン。どんな場所だか覚えているだろうか? ビルの屋上から冷温停止?したゴジラを見つめる主人公たち。あの場所。「太陽を盗んだ男」のクライマックスの場所。沢田研二と菅原文太が死闘を演じるあの屋上ではないか? 庵野監督あの映画が大好きなようで、2作前の新劇場版「エヴァ」でもそのテーマ音楽(山下警部のテーマ)をこっそり使っていた(「怪奇大作戦」の「京都買います」のテーマ。フェルナンド・ソルのあれも使われていた!)僕も「太陽を」は大好きなので、あのロケ地!あーーと思ってしまった。

では、なぜ、あのロケ地を使ったのか? 単に「太陽」ファンということではない。沢田研二扮する高校教師木戸は原爆を作る。それを爆発させまいと菅原文太演じる山下警部がその屋上で戦う。原爆を使う者、止める者の最終決戦の場だ。そこから原発=ゴジラが冷温停止した姿を、原発=ゴジラを止めた主人公たちが見つめる。その構図をダブらせたのだ。最後の最後まで庵野監督の趣味や世界観を生かした作品となっている。

そしてエンドロールの旧「ゴジラ」のテーマミュージック集。素晴らしい。アメリカ版「ゴジラ」を遥かに超える映画だ。スタッフ・キャストに大いなる拍手。贈りたい!




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明日にかける橋ー編集日記 何を考えながら編集するのか? [「明日」編集]

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明日にかける橋ー編集日記 何を考えながら編集するのか?

昨夜、編集した場面はまさにそれだった。撮影素材を観ると俳優たちがミスせずに、台詞を次々に発する。テニスのラリーを観ているようなリズムとスピード。台詞の間違いはなく、シナリオ通り。キャストは皆、しっかりと演じている。が、これをそのまま繋ぐと盛り上がらない。

現場にいて芝居を観ていると、何らおかしいところはないのだけど、映像にするとせわしなく、単なる日常になってしまう。ドラマティックがない。これを編集で変えて行く。話が少し逸れるが、今回、編集している自分の気持ちを確認、記録するようにしている。書いていて気付いたことがある。のは、撮影時に監督というのは主人公の視点で、あるいは監督の分身となるキャラの視点で物語を観る。つまり、その俳優の目線で撮影を見る。

ヒッチコックなら例えば主人公ーケーリー・グラント。彼の視点からグレースケリーを見つめる。多くの監督は主人公を通してヒロインに恋をする。だから、気持ちが伝わるのだ。だから、ヒッチコックはラブシーンでグラントに嫉妬したとも伝えられる。その意味でジョンフォードはジョンウェイン。黒澤明は三船敏郎に思いを託している。

ところが僕の映画では主人公は女性。彼女に恋する男性キャラがまわりにいないことが多い。僕の視点はどこにあるのか?自分で自分の気持ちを察するのもヘンだが、実は現場では三人称。特定の誰かのキャラの視点ではないようだ。何でそうなったか?というとたぶん、メイキングものを撮っていたからだ。

つまりドキュメンタリーは三人称。例えばライオンの家族を撮る。それは人間がライオンを見つめる視点。メイキングも現場で働くキャスト、スタッフを記録する。そんなスタイルが身についてしまったようだ。なので、僕は現場で役者にあれこれ言わない。ドキュメンタリーだから。好きにやってほしい。野生のライオンに演技指導してはいけない。ライオンはそもままでライオンなのだ。その手法に今回気付いたのが杏ちゃん。さすがです。インタビューでそのことに触れていて、あーやっぱり、俺はそうなんだあ。と再確認した(自分で気付いてなかった!)

しかし、編集になると、主人公の思いを考えて作業しようとするようだ。通常、監督は現場でその場面を一度観ているので、あーここがうまく行っていない。このカットはイメージと違うと感じるのだが、もちろん僕も感じるのだが、それ以上に主人公を通して物語を観るとこうなるのか!という新鮮なものを感じる。だから、自分でシナリオを書いているくせに「えーーどうなるんだろう?」とか思いながら編集する。

そうなると、「ここで主人公みゆきは・・・・****と感じているはずだ」と考える。杏ちゃんはしっかりとそんな演技をしてくれている。それをどうすれば観客に伝えられるか? もちろん表情や台詞では*****という思いが出ている。が、それだけでは弱い場合がある。だから編集で強調する。その際に有効なのが「間」なのだ。例えば小説ならこうだ。

「みゆきは思った。この家、この風景、全て見慣れたものだ。あの頃と何も変わっていない。いや、これはあの頃なのだ。高校時代を過ごしたあの実家なのだ。様々な思いがみゆきの脳裏を駆け巡る。入学式、夏休み、毎朝、親友の寛子が迎えに来てくれたこと。その全てが懐かしい。しかし、あの事件から、あの事件から全てが一変したのだ。それが......」

てな描写がある。だが、映画にはそれがない。また、現実ではそんな思いは一瞬。そして、それは第三者にも伝わらない。

それを映画は伝えなければならない。といってナレーションで説明してはダメ。昔のホームドラマはそれをしていたが、今はダサいと感じる古い手法だ。それを表現するのが間なのである。そうやって現実の時間を引き延ばして表現する。

ヘンな例だが、アニメの「巨人の星」主人公の飛雄馬が1球投げるのに、どれだけ時間をかけるか? ボールがバッターボックスの花形満に打たれるまでに、いろんな人がしゃべるし、飛雄馬のモノローグも入る。花形も「星君。勝負だ!」とか心の声で話す。テレビを見ているオヤジも「飛雄馬、いかん!」と叫ぶ。これも現実の時間を引き延ばして、主人公たちの気持ちを表現しているのだ。それによって物語が盛り上がる。これが現実のプロ野球中継だと、あっという間に球を投げて、バッターは打ち「ホームラン!」という展開となる。

ドラマはその当事者の気持ちを描かなければならない。といって「星君。勝負だ」とか心の声は使えないが、間でそれを伝えることができる。そうしないと観客には単なる日常風景としか伝わらない。てなことを、今までは考えずに編集していたのだが、実はそんなことを思いながら作業していたようだ。例えれば、まさに物語の世界に入り込み、現実に自分がいないような状態。ある意味でやはり霊が降りて来た状態。記憶がないのはそのせいなのだ。今更ながらそんなことに気付く。さあ、本日も編集をスタートする。


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明日にかける橋ー編集日記 編集中の記憶がないので記録しておく [「明日」編集]

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毎回、超真剣に入れ込んで編集すると、作業中に何を考えていたか?覚えていないことが多い。俳優が撮影中のことを覚えていないということがあるが、同じ感覚なのだろう。ただ、監督というのは撮影中のことはよく覚えている。以前、大先輩にあたる故・松林宗恵監督からお話を伺ったときに、何十年も前に監督された映画の撮影での出来事を昨日のように語っているのを聞き驚いた。

そういえば僕もデビュー作はもう12年間だが、撮影現場のことはかなり覚えている。監督というのはそういうところがあるのだ。対して俳優は現場のことをよく覚えていないことが多い。たくさんの仕事をするから?と思っていたが、役に入り込み演じると記憶が残らないのかも?と思えていた。それで気付いたのが僕も編集時に何を考えていたか?よく覚えていないということ。

毎回、映画制作時には監督日記をブログで連載する(あー5本とも書いたあ。今でも全部ネットで公開中)その中の「編集」の章を読み直したことがある。何をしたか?は書かれているが、何を考えていたか?が書かれていない。そして、何を考えていたか?が思い出せない。編集機に向かい、モニターを見つめ作業をしながら、何を考えていたか? 記憶にない。

一方で僕の映画の編集を評価してくれる人がいる。「編集がいい!」と指摘するのはかなりなツーだ。通常は「編集」とは気付かず「いい映画だ」と思う。ストーリーがいい。俳優がいい。ちょっとマニアだと演出がいい!と思う。しかし、編集がどれだけ大きな効果を上げているか?に気付く人は少ない。

そんな一人の発言を以前に紹介した。「間の取り方」を褒めてくれた。ーあだち充の「タッチ」のような間。と評してくれた。これは自身でも驚いたが、あの漫画は確かに間が魅力だ。あの間があるから感動したり、泣けたり、心に染みたりする。好きな漫画という訳ではないが、うまいなーと思え、当時は読んでいた。

それと同じ「間」があるというのは嬉しい評価。そして確かに間はいつも編集時に気にする。が、どんなふうに考え作業したか? 毎回、思い出せないので、今回はそれを日記に綴るように心がけている。



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明日にかける橋ー編集日記 編集作業の次も準備開始! [「明日」編集]

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本編集とはいえ、最初から最後まで作業して完成!ではない。何度も前に戻り、直しをする。全体を見直して、流れを見てさらに直す。その場面だけ見てよかっても前後の流れからするとヘンなこともあるので、それも直す。

とはいえ、まだ最後まで行っていない。現在は全体5ブロックの中で4ブロック目だ。かなり来たように思うが、5ブロック目はクライマックスの連続。カット割りも凄い。たぶん、他のブロックの倍以上の労力が必要だ。

とはいえ、折り返し地点を超えたので精神的にも少しだけ余裕ができる。昨日はカラコレ等の連絡。映画は編集が終われば完成ではない。そのあとに合成、映像処理、音処理、カラコレという作業がある。

今回の物語は1989年。当時の感じを出すために映像に映ってはいけないものもある。また、今はもう映せないので合成せねばならないところもある。僕は合成というのがあまり好きではないので、なるべくならしたくないが、実際に作るより安くできる場合は合成でも仕方ないと考える。

また、いろいろ問題のあるカットもある。エキストラの人が完全に見物人!という顔で映っているところ。必要なものが映っていないところ。経済的余裕があればCGで書き込んだり、消したりも出来るのだが、今回は無理なので、あれこれ工夫する。

そしてカラコレ。画面の色合いを揃えたりする。同じ日に同じカメラ2台で撮影しても、それぞれの映像は微妙に色が違う。まして、別のカメラで撮影した素材。別の場所で、別の日に撮影したものを1つにまとめると色合いが違う。そのまま編集するとカットごとに色や明るさが違い、見ていて落ち着かない。それも揃える。

また、意図的に色合いを変えることもある。画面は明るくて観やすいだけではダメ。その部屋の電球が裸電球ならオレンジ。蛍光灯なら白。月の光は青。夕方なら赤とか、いろんな色の光がある。それを意図的に使うこともある。

この台詞。夕陽の中で言えばぐっと来るけど、真昼にいうと恥ずかしいとかいうのもある。もちろん、シナリオ段階でもその辺を考えるが、撮影してみて、さらに違う展開ができることもあるのだ。

演技とカメラワーク。音楽と編集で物語の印象が変わるのは何度も書いたが、色合い、明るさでも、かなりイメージが変わる。「この役者。本当に台詞がダメだな」と思えても、カラコレで場面の色合いを変えると「意外に行けるなあ」となることもある。

そんなふうに編集後の作業も非常に重要。その連絡も始めた。これまで編集した映像を担当者に送り確認してもらう。どこで何を加えるか? 合成。修正。するか? 考え、準備してもらうためだ。その間に僕は4ブロック目の編集を進める!


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