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「映画なんて宣伝効果はないんだよ!」と言うある地方の人。その言葉の裏から見えて来るもの?ー情報を鵜呑みにしては現実は見えない? [地方映画の力!]

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何年か前、ある町から映画による町興しについて相談されたことがある。現地を訪ね、映画によるPR効果や意義を説明させてもらった。ら、ある人がこんなことを言い出した。「映画でPRしようとした町のいくつかに連絡して聞いてみたんだけど、観光客は全く増えなかったってさー。映画なんて効果ないんだよあな」

んーーーその言葉だけで、彼はいくつもの誤解と思い違いをしていることが分かる。まず、映画のPR効果は大きい。最近の例でいえば、昨年の映画「君の名は」はアニメ映画にも関わらずモデルとなった町に聖地巡礼といって、映画を見た多くの人が訪れた。また「シンゴジラ」の劇中でゴジラが壊す東京駅内のホテル。予約がいっぱいという状態が続いた。ホテルに聞いてみると「ゴジラが壊した棟に泊まりたいというお客さんが多くて」とのことだった。

これは実際に効果があったということ。その当時もすでに大林宣彦監督作で尾道以外の町もアピールしていたし、山田洋次監督の時代劇ロケ地も観光地として盛況。その種の話はあれこれあったし、何より「聖地巡礼」なんて言葉が生まれたくらい。それが全てを物語っている。先の方はその辺の事情もご存知なく「効果なし」という話を信じてしまったようだ。

では「観光客が来ないと言われた」という彼の聞いた情報は間違いか? いや、間違いではない。検証してみる。情報というのは情報そのものを安易に信じてはいけない。誰が、いつ、どのような立場で発言したか? また、発言者の背景、考え方、職業によって情報は歪められたり、誇張されたりもする。友人であっても、安易に情報を鵜呑みにするのは危険。先の情報を精査してみよう。

今、全国各地で町興し映画は作られている。しかし、その多くは東京で上映されることなく、地元上映だけで終わる。というのも、かなりな低予算で製作。僕が何度もくり返し記事で書いているが、故郷の自画自賛物語であることが多い。そのために東京の映画館が上映してくれない。客が入らないと判断されるからだ。有名俳優が出ていればまだ興味を持つがそれもない。だから、上映されてもレイトショー。1週間。1日1回上映程度。都内の地元関係者が来るだけ。これでは宣伝効果がないのも当然。その映画を見た人がロケ地を訪れる以前に、映画館に来てくれないのだ。

おまけに地元の人たちは映画が完成すると「おー出来た!出来た!」と散開してしまう。東京で上映が決まっても宣伝をしない。宣伝費をどうするか?も考えてないことが多い。あとは映画館が上映して宣伝してくれると思い込む。そんな訳がなく、それ以前に映画館が上映を嫌がり、関係者が頼み込んで都内の小さな映画館で上映してもらうことになる。

でも、宣伝費はない。映画が上映されることを多くの人に伝えられない。結局、都内の地元関係者しか見に来ないー惨敗。東京以外はまず上映されない。全国の人が見る機会がない。当然、観光客が来る訳がない。そんな映画の関係者が「映画にPR効果がない」と言った可能性もある。それは映画が問題ではなく、その人たちのやり方が間違っていたということ。

そして「情報」は聞いた相手は誰か?が重要だ。自画自賛映画を作った関係者が自らの間違いに気付かず「何で観光客が来ないんだよ!」と反省も分析もない人であれば意味がない。或は、映画に関係していない人が「観光PRになるから映画撮ろうと言っていた奴らがいるけど、相変わらず客来ねえよなー」という傍観者の無責任な発言かも。そんな人たちからの情報をもとに、ものごとを判断していては現実は見えて来ない。

別の例を上げれば「100円ショップがブームだ。儲かると聞いたから始めたが全然ダメ。100円ショップは儲からない!」というのと同じ。店を出した場所。宣伝の仕方。店員の対応等、いろんな失敗要素があるはずなのに反省せずに「100円ショップはダメ」と結論付けるのと同じ。

つまり「君の名は」「シンゴジラ」が大きな宣伝効果を発揮したのは全国公開で多くの観客が見たから、映画自体が素晴らしかったからこそ、映画を見たあと現地に行ってみたくなったのである。自画自賛の「うちの町はこんなに素晴らしいんだぜ!」とPRする映画を作っても、観客が内容に感動できない。さらに全国の映画館で上映されない。宣伝もしない。だから「効果がなかった」と思い込んだのが、たぶん真相だろう。

では、本当に素敵な映画を作ればアピールするのか? というとそんな簡単なものではない。先にも説明したが宣伝費も大事。「シンゴジラ」等は当然、莫大な額の宣伝費を費やしている。それがあるので全国の映画館で上映されるという現実もある。つまり、映画を作るだけでなく、ある程度の宣伝をせねば映画自体を見てもらえないということ。企業映画レベルの宣伝費でなくても、効果は上がる。それらを無視して単に映画だけ作って「映画にPR効果がない!」という人たちの話を鵜呑みにしたのが、先の方だと思える。

小さな映画でもさまざまな効果がある。映画を作れば多くのメディアが取り上げ、全国に紹介してくれる。テレビ、新聞、雑誌、ネット。皆、タダで紹介してくれる。宣伝費払えなんて言われない。「***県ロケのこの映画は」と記事になる。俳優が番組やブログで地元のことを話してくれる。その対費用効果ー「本来は払うべき広告費を支払った場合はいくらか?」を試算したものだが、僕の映画レベルでも試算すると毎回1億円近くなる。

例えば5千万円で映画を作ったとして、その2倍の1億円分の宣伝効果があったことになる。もし、地元がその5千万円を新聞広告に投じていたら、都内版に数回大きな広告を掲載しておしまいという額。それが映画なら長期に渡り2倍以上の金額となり効果を上げる。

それだけではない。僕が一番大事にしている点だが、地元の人たちが地元の素晴らしさを再発見する機会にもなる。お金に換算できないメリットがたくさんある。今回のまとめはこれ。聞きかじった不正確な情報で、ものごとを判断してはいけない。やり方を考えれば僅かな予算でも、かなり大きな効果。思いがけない成果を上げることはできる。まずは正確な状況把握。その中で自分たちの出来ることを考えることが大切ではないか?



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映画作りと料理は似ている?② 映画制作とカレーライス作り? [映画業界物語]

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昨日の記事が好評だったので、映画作りと料理の共通点を具体的に上げてみる。まず、料理は何を作るか?決める。例えばカレーライス。それもインド風ではなく和風カレー。映画も同じ最初は何を作るか?決める。青春もの。それも女子高生の部活ドラマ。

次に料理ならレシピが必要。お料理ガイドを参考にするか、或は自己流でやる。映画はシナリオ。原作ものを探し脚色するか?自分でシナリオを書く。その次は材料選び。カレーライスなら人参、タマネギ、ジャガイモ、肉。豚肉か牛肉か?鳥もありだな。いや、肉なしも可能。隠し味でリンゴも入れるか? 映画ならキャスティング。主演は誰? 共演者は? ライバルの生徒は? 先生役は?

この材料選びとキャスティングは大きい。どんな名シェフでも、巨匠の監督でもダメなものを良くはできない。腐った魚をおいしく料理はできない。下手な役者は演技派としては使えない。まずいジャガイモを多少は美味しくすることは出来ても、超美味しいは無理。映画も料理もそこが大事。そして映画も料理もおいしい素材ばかりを集めてもダメ。イチゴが好きーと思ってもカレーには合わない。でも、同じ果物でもリンゴならOK。キャストも同じ。Aさん名優。Bさんベテラン。でも、2人が共演するとダメということがある。

そして料理。材料を切り、鍋にいれる。火の加減を気にしながらカレーの具を炊き込む。映画は撮影。俳優たちが演じてくれるのをカメラで撮る。最後は盛りつけ。カレーライスもトンカツを乗せてカツカレーとか、生卵の黄身を乗せる手もあり。お皿やごはんとの比率も大事。映画は編集。映像をつなぎ、音楽を入れる。どちらも良い素材をよりよくする作業。似ることで美味しくなる野菜。アクションをさせることで輝く俳優。それぞれに合った演出、料理が必要なのだ。

こうしていずれも長い時間をかけて調理、製作し完成。しかし、料理を食べるのも、映画を見るのも一瞬。あれだけ時間かけて作ったのに、お客は一瞬で平らげてしまう。そして「あーーーうまかった〜」「あーー感動したーー」という、その一言にシェフも映画人も生き甲斐を感じるのだ。その一言のために、もの凄い時間を費やして、身を削り、心を裂くような思いをしてでも完成までがんばってしまう。

そして、おいしい料理も素敵な映画も、日常に心疲れ切った人たちを感激させ、「よーし、明日からまたがんばるぞー」という元気も与えてくれる。そんな美味しい料理や感動できる映画を作るにはどうするか? それが昨日書いた記事「映画はみんなの意見を取り入れると駄作に成る?」である。

1人のシェフが監督が拘った食材、キャスト。全身全霊で挑む調理、撮影。そして仕上げ。料理に映画に愛を持つ人が人生賭けて挑むから感動する。愛も経験もないいろんな人があれこれ口を出してはどちらも、いいものはできない。料理も映画も、感動というのは愛と思いがもたらすもの。多くの意見の最大公約数ではなし得ないのである。どう、映画と料理は似ているでしょう? 



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ヒット曲作りと映画作りの意外な共通点?! ー歌謡曲が廃れた理由? [地方映画の力!]


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昨日掲載した「映画はみんなの意見を取り入れると駄作に成る?」ー意外にも好評だった。最近で一番の「いいね」を頂いた。むしろ批判が多いかも?とさえ思って書いた。ちょうど1年前、別のブログでにたような記事が書いたので、そちらも紹介する。なぜ、いろんな人の意見を取り入れてはいいものができないか? それを音楽作りを例に上げた記事である。

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 その昔、映画は作りはこうだった。シナリオは脚本家が書き、監督は現場で撮影に臨み、編集はエディターがする。それぞれのエキスパートが行う。それぞれに違った資質が必要。シナリオは繊細でクリエイティブ。そして物語を作る力。監督はスタッフを束ね、俳優とコミニュケーションをして、演技を引き出す力。編集は映像のセンスを駆使して、見せる力。でも、僕の場合は3つとも担当する。

 3つもできることを自慢したいのではなく、今の時代はそれが大切なのだ。歌の世界と同じ。昔の歌は作詞家の先生が作詞。作曲家の先生が作曲。それを歌手が歌い。バックでバンドが演奏する。そんなふうに歌謡曲は作られた。でも、今は、ローリングストーンズやビートルズと同じ。アーティストが作詞作曲して、自分で演奏して自分で歌う。日本の歌手も今は ほとんどが、そのパターン。何が違うのか?

いろんな人が作品作りに関わると「思い」が薄くなるのだ。作詞家の先生が素晴らしい歌詞を書いても、それを理解しない作曲家が曲を作るとメッセージが弱まる。それを歌手が理解しないと、さらに駄目になる。理解しても、50%60%では弱くなる。それをそもそも作ったクリエーターが全てを担当すれば、そのメッセージはダイレクトにリスナーに届き、感動を伝える。間に人が入ることで、弱くなるのだ。

だから、歌謡曲形式が衰退。バンドスタイルが人気を博している。映画も同じ。昔は脚本家の先生が書いたものを、現場の仕切りのうまい現場監督が演出し、センスのあるエディターが映像を編集して映画が作られた。が、それでは「思い」は寸断され伝わらない。

 1人のクリエーターが全てを担当することで、「思い」がダイレクトに伝わる。バンドと同じ。ハリウッド監督のルーカスも、スピルバーグも、キャメロンも、皆、自分たちで企画した映画を、自分でシナリオにし、演出、編集。完成させる。「思い」がダイレクトに伝わる。だから、彼らの映画は世界中で人気となった。

 僕の映画も同じスタイル(予算は全然違うが!)、僕自身が企画。原作はなくオリジナル・シナリオとして 、僕自身が書き、僕自身が現場で演出。僕自身が編集し、仕上げる。1年近く休みなしの作業になるが、そうすることで「思い」をダイレクトに観客に届けることができるのだ。

 ま、残念ながら、バンドでいう「歌う」=「演じる」はできないが、それをやってしまったのが、チャップリンだ。彼の映画が時代を超え、感動を伝えるのは彼の思いがダイレクトに届くからだと思える。



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映画作りと料理はとても似ているという話①専門店がなぜウケるか? [地方映画の力!]

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昨日掲載した「映画はみんなの意見を取り入れると駄作に成る?」ー好評だったのでもう少し書いてみる。映画表現の話だったので、大きな反響は期待していなかったのに、ここ最近で一番の「いいね」を頂いた。むしろ批判が多いかも?とさえ思って書いた記事なので意外だ。

というのも世間では「みんなで仲良く、いろんな人の意見を取り入れて進める」という考えこそが正しいという思いがある。政治ではそれが民主主義。会社でもワンマン社長より重役会を開き、みんなで意見を出して方針を決めるとか、学級会でも、みんなで話し合う。意見を出し合うというのが大事という考え方をする。

ワンマン社長は暴君と呼ばれたり、どこかの有名百貨店の社長のように放漫経営をして会社を潰したり、政治なら独裁政治と呼ばれたり、みんなが意見を出すことが大事というのが日本人の発想。以前に同じような記事を書いたときも、コメントで「松下電気は広く一般にアイディアを求め、大きな会社になったんですよ」と書き込んだ人がいた。

表現の世界はやはり理解し辛いのだと思ったが、今回は非常に好評。その理由を考えてみた。料理の話が分かりやすいというコメントを頂いたが、そこがキーだったのだろう。映画作りも料理作りも実はとても似ている。例えばレストランを作るとき、オーナーたちが集まり、何の料理にしようか?と話あっても、それぞれに趣味志向がありむずかしい。

「中華だ」「洋食だ」「和食だ」「トンカツ屋だ」「イタリアンだ」となかなか結論が出にくい。それをシェフが「じゃあ、それぞれの代表料理を出す店で...」とか説得してまわり、レストランを出す。結局それは1970年代にデパートの最上階にあった食堂と同じ。お子様ランチがあった店と同じで和食、洋食、中華。何でもあるレストラン。いろいろあるけど、それぞれはさほど美味しくない。そんな店は今、流行らない。それを映画界では今もやっているのだ。みんなの意見を取り入れるというのは、乱暴な言い方をすればそういうことになる。

今、人気のレストランというのは専門店。「洋食」「和食」というカテゴリーですらなく、例えばオムレツの専門店。そのシェフがオムレツ愛があり、徹底して研究し、卵やソースにこだわり調理する至福のオムレツ。そんな店が人気となる。料理をしたこともないオーナーたちが、あれこれいう意見をシェフがまとめて店の方針を決めるのではなく、シェフが愛してやまない料理を作る。そんな店を多くの人が支持する。

映画も同じ。企業があれこれ出してくる要望を監督がまとめて、どの企業からも文句が出ないようにして映画を作ると、デパートの食堂と同じような作品になる。観客は支持しない。先のオムレツのように監督自身が愛してやまない題材で作った作品に観客は心打たれるのである。つまり、今の時代はレストランも映画作りも出資者である企業やオーナーは自分たちの願望を押し付けるのではなく、監督やシェフの「思い」「愛」を応援してこそ、素敵な料理や映画ができる。映画と料理。とても似ているでしょう? 


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映画はみんなの意見を取り入れると駄作に成る? [地方映画の力!]

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先の記事を書いていたら、昔のことを思い出し、また怒りが込み上げて来た。編集に関しては本当に腹立たしい思い出がいっぱいある。二度と仕事をしないと決めた人たちが何人もいる。そんな経験を踏まえて、僕が監督する映画はシナリオ、キャスティング、演出、編集に関しては一切口出し無用という形を取らせてもらっている。意見は聞くが最終決定は僕がさせてもらう。

でも、考えたら作品を作るということは、作家の思いが前面に出てこそ、観客は感動する訳で、いろんな人がいろんなことを言ったのを監督がまとめて作品にして感想作が出来る訳がない。そんな例を紹介する。

よく「***製作委員会」というクレジットが入った映画があるが、いろんな会社が出資をして作られた映画。映像関係でない会社も多い。そんな各社があれこれ意見をいう。「主演は**がいい!」「音楽は今流行の***だね」「ロケ地はうちの会社のある**県」「共演にはうちのCMに出ている**」とか。それらを監督がとりまとめて、どこからも文句が出ない作品を作るのが制作委員会方式なのだ。だから、おもしろい映画は出来ない。

その種の映画をよく監督する友人がいるが、本当に我慢強い。みんなにいい顔せねばならない。自分がやりたいことを押さえて、ひたすら耐えて粘り強く仕事をする。ある意味で立派。でも、彼を知る友人がいうのは「自主映画時代の彼の作品は良かったんだけどなああ〜」という台詞。彼が監督したメジャー映画で評価されるものは1本もない。作家の思いが出ていない映画は観客の心を打つことはできない。

代わりに彼は高額のギャラをもらう。僕は製作費が赤字になり監督料を埋め合わせに使うことがあり、ノーギャラということによくなるが、一切、指示は受けず、好きにやらせてもらう。そして必ずそれなりのものを上げる。映画だけに関わらず、作品というのはそうしないと良質のものはできない。

分かりやすくいうと、料理をするとき。料理をしたこともない人たちが「私は人参が嫌いだ」「俺は豚肉が好きだ」「パクチーがマイブームだ」「中華であることがマストだ」「麺類はやめてくれ」「イタリアンがいいね」とかいう人たちの意見をまとめて料理を作って、おいしいものが出来る訳がない。映画は料理と似ている。作り手に強い愛があってこそ、感動が生まれるのだ。



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明日にかける橋ー編集日記 センスのないオジさんが映画を壊す? [「明日」編集]

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確認作業が続く、映像を通して見て、おかしなところがあると、編集機に戻り修正。間を延ばしたり、削ったり。別のカットと入れ替えたり。そしてまた本編映像の確認に戻る。

最初は果たして繋がるのか?と思えた動きーつまり、撮影中に同じ場面を別角度から何度も取るので、どうしても俳優の動きが違って来る。上がった映像を見ると引き絵と寄り絵の俳優の動き出すタイミングや位置が違ったりする。プロでも全く同じ動きが出来る人は少なくて、なかなか難しいところ。(ハリウッド映画でも編集で苦労する)

それを編集で直して行くのだが、動きを滑らかに繋ぐと、引き寄りがおかしな具合になる。引き寄りの演出を主にすると、俳優の動きが繋がらない。というところが何カ所かあった。が、それも何とかスムーズに見えるようにつなぎ。通してみると全く気にならないので、自身で驚いたりする。一時はどうなるか?と思えたシーンも問題がなくなる。(ま、それでも気になる部分もあるのだけど)

しかし、自由に編集できるというのは、本当にありがたい。昔は頭の古い年配のプロデュサーがあれこれ注文を付けて来て、そのたびに衝突!殴り合い寸前のことがよくあった。編集は「感性」であり、言葉で説明しづらいところが多い。あと1秒延ばした方がいいか? 1秒短くした方がいいか?はどちらが正しいではない。「感性」なのだ。

おまけに多くのプロデュサー。それも50歳を超えたオジさんに趣味のいい人は少ない。感性の鋭い人は稀。それを自覚せずに、あれこれ口を出す人が多かった。また感性なら「この人センスないから」と諦めも着くが、編集の基本が分かっていないプロデュサーもいた。転職したばかりとか、映画が本業でない人とか、経験値が低いのに、編集の常識を破るような指示をする。先の感性と違い、明らかな間違いなのだ。

それを説明するのに編集の基本、常識から話さなければならない。彼は見習いではなく、プロデュサー。編集中は神経質になり、ビビットになっているのに、なぜ、素人のような奴に基本のABCから説明せねばならないのか?また、その手の人は基本を説明しても「私はそうは思わない!」と言い出し、名作映画を見せて「このシーンも同じ手法でしょう?」と言ってみたり。

そんなど素人のために何時間も浪費せねばならないの?と思うことがよくあった。「2時間ドラマのような編集をしろ!」と言い続けたPもいた。だったら、映画やめてテレビの仕事して?と言いたいのだが、感性が古いので新しい編集の方法論が受け入れられないようだった。とにかく、オジさんたちは古い価値観を押し付けるのが好きで、大手の映画でも、そのために若い観客にそっぽ向かれた作品は数多くある。

まず身内と戦わなければならない、というのは本当に不幸なことで「一緒に素敵な映画を作ろう!」という仲間が真剣に映画をダメにすることに努力する。そんな構図は映画界ではよく起こるので、近年はその種の人々を小池発言以前から排除。理解ある人たちと仕事をしている。そして編集に関しては誰からの指示も受けないという姿勢を通している。

映画はいろんな人があれこれいう意見を取り入れて作ると、無難な作品になってしまう。作家の「これだー」という思いを前面に出してこそ、観客の心を打つ作品ができる。その辺が分からない人が業界にも多く、その種の人をいかに参加させないか?も大事なことなのである。




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明日にかける橋ー未公開写真①(再掲載) [キャスト]

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毎週末にこれまで未発表のスチール写真を公開している。第3弾まで来たので、以前のものも再掲載してみる。

写真は全て事務所から許可を頂いたもの。Facebook上でのシェアはOKだが、このシリーズに関わらず、写真を無許可で転載するのは違法行為なので、よろしく。

第1弾が板尾創路さんと岡村洋一さん。撮影終了後に撮った記念写真。第2弾が鈴木杏ちゃんたち、先週の第3弾が藤田朋子さん。撮影風景を中心に紹介している。さて今週末は誰の写真かな?


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明日にかける橋ー編集日記 最終確認すると問題点がぞろぞろ [「明日」編集]

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詰め編集が最後まで行ったので全編を書き出して、頭から見てみた。ら、あれほど時間をかけて詰め編集をやったのに、まだ詰められる場所が何カ所も見つかる。ま、いつも編集すると思うことだけど、かならず見逃すところがある。

ただ、それは単なるミスではなく、何度も同じ映像を見ていると、問題点に気付かなくなることがある。例えばあるカットを削除しても、それが残っているつもりで作業を進めたり、その逆もある。「あのカットは入れた」と思い込んでしまう。それを確認中に「あれ」と気づくことがある。

また、最初は繋ぐだけに集中して作業するし、次は詰めるのに集中する。だが、その作業を繰り返すと、余裕も出て来て「このカット、別の映像と入れ替えるとよくなるかも?」とか思えて来る。昨日、やってみたら非常によくなった。1つのカットを変えるだけでそのシーンがワンランク・アップすることもある。

さらに当初はシナリオ通りに映像を繋ぐが、何度も繰り返し見ている内に別の方法論はないか?とも思えて来る。よりテンポいい展開。余計な表現を短縮する。ま、これも遣り過ぎると「余韻」がなくなり、情緒が失われるので注意だが、その種のことにも気付く。

そして作業に余裕ができてたので、「あーここはこうしよう!」とか新しいアイディアも出て来る。やはり編集には長期間の時間だと痛感。本来シナリオにはない部分でも、ちょっとしたあるカットを加えることで、より分かりやすくなったり、物語が深くなったりする。

「もう、詰めるとのころはないだろう」と思っていたのに、詰める箇所がいくつもあったし、編集し直しのシーンがかなりあった。その作業で一段の全体的によくなる。当初はやはり、そのシーン。そのシーンを考えるのに精一杯だったが、今は全体を見る余裕がある。そうなると見えてくるものがあるのだ。

とはいえ、その作業も時間がかかる。全編映像を再生。見ていて気になったら止めて、編集機に戻り、その分を再編集。終わったら映像に戻り、本編スタート。昨日できたのは40分まで、あと1時間20分ほど確認作業。なのにもう週末だ。音楽家と打ち合わせ。素材を渡したらもう大きな変更はできない。今日明日が最後の編集作業になる。

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編集日記ー映画「マラソンマン」とローレンス・オリビエ [「明日」編集]

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昨日、一つ困ったことがあった。数日前から痛みだした虫歯。もう、我慢できないレベルになり、編集作業を中断。歯医者に行く。が、昨日は祝日で木曜。木曜は歯医者が休みの日。さらに祝日。どこも営業していない。

そもそも何で虫歯か? 僕は意外に歯が強く、ここ35年ほど虫歯になったことがない。それが数ヶ月前に昔昔治療した歯のかぶせた金属が取れてしまった。撮影前で忙しいので、そのまま、撮影後は編集で時間なし。「向日葵」のときは片目が見えなくなったのに、手術をせずに撮影したくらいだ。歯の1本なんてと考えた。

しかし、かぶせものが取れたことで、そこに食べ物が詰まりやすくなり、それが虫歯の原因となったのだ。おまけに編集中はめったに食べないお菓子を食べた。それが数ヶ月続いて、歯をどんどん溶かしていたのだ。冷たい水が染みるようになり、熱い御茶も染みるようになった。痛みが続くようになり、作業に集中できない。「医者行く!」と思ったら祝日で木曜だった。

が、なんとか営業中の店を見つけたが、診察してもらうと、かなり悪い状態で虫歯が神経にまで達していた。麻酔を打って治療したが、その痛いこと、痛いこと! まるで拷問。「私がやりました。全て話します」といいたくなるレベル。昔、ダスティン・ホフマン主演の映画で「マラソンマン」というのがあって、そこで悪党たちが歯医者を使い、歯の神経を刺激する拷問をするシーンがあったが、その再現。

その歯医者を演じたのが名優ローレンス・オリビエ。「風と共に去りぬ」の美女ビビアンリーと熱愛をした上で、彼女を捨てた人。その晩年の作品が「マラソンマン」。そのオリビエが死去したのが1989年。その話は「明日にかける橋」でもチラっと出て来る。話は戻るが、本当に痛かった。。。。。でも、歯の痛みは止まり、そのまま編集作業に戻る。

そんなことで時間を取られ、昨日は半分しか確認作業ができなかった。悔しい。。。でも、昨日、治療に行かないともっと痛い目に遭い、さらに過酷なマラソンマン体験をすることになっただろう。ああ、本当に痛かった。



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明日にかける橋ー編集日記 書き出して全編を確認。 [「明日」編集]

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詰め編集でラストまで作業。一度、全て書き出して1本の映像にする。一応仮の音楽も付けてあり、完成時に近い感じと成っているので、頭から通して見てみる。そのシーンだけ見ていると問題なくても、通してみると全体の流れを壊していることもある。さらに詰められる部分も見つかる。

ただ、ここまで来るとむずかしいのは、すでに各シーンを繰り返し見ており、感動シーンも何度も見ているので次第に感動できなくなって来る。その理由が何度も見たせいか? そのシーンを詰めたために感動できなくなったのか?が分からなくなって来るのだ。

これが一番怖い。最初に泣けたから...と、そのまま作業を進めてさらに編集。そのために泣けなくなることに気付かず。映画館で上映。観客の反応なし......なぜ? と思うが、最終の編集で感動を殺してしまったということなのだ。

だが、同じシーンを10回20回見ると、新鮮な感動がなくなる。そのときは最初の感動を信じて作業を続けるのだが、直しをするときに、この直しで感動が死んでないか?と気にかかる。映画館で見て反応ゼロと分かったときには手遅れ。これは本当に怖い。

シナリオを書くときに泣けて、撮影現場で俳優の芝居に泣けて、編集時に感動できれば、映画館で観客は涙を零す。これが「ここで恋人が死ねば、観客を泣かせることができる」とか考えてシナリオを書くとダメ。現場でも淡々と撮影できたり。編集で「んーーー音楽で盛り上げるか?」と思うならもうアウト。

経験上。上の3つが揃うと行ける。が、やはり編集で全てを台無しにすることもあるので怖い。通常の映画はラストにほろっとする程度でも「泣ける映画」と言われるが、太田組作品は1度2度どころか、3回も4回も泣ける。泣けるどころか嗚咽が上げるというファンがおり、毎回ハードルが上がる。

皆、前作以上の期待で見に来てくれる。毎回泣ける映画を撮る監督なんていない。いつかは泣けない作品も作ってしまう。その不安と毎回戦い。2時間ほどの書き出しが出来たので確認作業を開始。問題ある箇所の手直しをする。


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