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明日にかける橋ー編集日記  藤田朋子さんで思い出したこと [「明日」編集]

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先の記事で藤田朋子さんのことを書いて思い出した。先日、楽屋を訪ねたときに、「体は大丈夫?」と聞かれた。忘れていたが、前回「向日葵の丘」のときは本当に酷い体調で、いつ倒れてもおかしくない状態だった。というのも前々作の「朝日のあたる家」から切れ間なしに制作が続き、4年間休みなしで仕事をしていたのだ。医者からは「過労死するから休みなさい!!」と何度も言われていた。

さらに「向日葵の丘」の撮影では片目が見えなかった。白内障が進行して視力ゼロ。医者から「失明するかもしれない。早く手術を!」と言われながら2年間延期し映画制作を続けた。全く休みが取れない状態。手術するとその間、制作がストップしてしまう。監督とはそういう仕事。また、目が見ないことを公言すると皆が心配するので内緒にした。

が、片目しか見えないので、距離感が掴めず階段を踏み外したり、物を落としたり頻繁にした。それでも「「監督は変人だからなあ」と思われているので、撮影中に誰にもバレずにいた。ヘンに心配してもらうと心苦しい。仕事に専念してほしかった。

そうしたら、藤田さんだけはそれを見抜いていた。役者ならでは観察眼。凄い。「監督は変わりものだけど、何かヘン!」と思ったのだ。誰1人気付かないのに彼女だけ。その鋭い目があの演技に生かされているんだなと思える。で、事情を話したら凄く叱られた。「映画より体が大事でしょう!」と。

でも、僕には映画が大切。目は片方見えなくなっても、2つあるから大丈夫。チャンスはそのときに生かさねばならない。それで手術を2年延期して医者にも怒られたのだけど....。ちなみに目の方は撮影後に手術。何とか見えるようになった。それでも手術前にあれこれ検査があり、術後もいろいろ薬を投与。痛みで集中できず仕事ができない期間があった。やはり撮影前にしなくてよかった。

映画だけではない。本当に何かをしようと思ったら体が悪くなるのを気にしていられないところがある。血を流しながら戦わなければならないときがある。子育てと同じ。親が様々な犠牲や我慢をして、子供を育てる。例え貧しくて自分が食事を抜いても子供には食べさせる。体を壊すことより子供がしっかり育ってほしいと親は願う。映画も同じ。素晴らしい作品を作るために監督が身を削るのは当然。毎回、遺作と思ってやっている。全力投球。それでこそ観客を感動させる作品が育つのだ。






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明日にかける橋ー編集日記 インタビュー原稿が次々に上がって来る! [「明日」編集]

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編集作業が続く中、メール添付で原稿が届く。パンフレットに掲載される俳優インタビューの初稿である。僕が編集している間に映画ライターさんが俳優たちを訪ねてインタビュー。それを文字起こししたものを送ってくれる。

監督というのは映画自体に責任があるだけではなく、宣伝、ポスター作り、パンフレット制作にも責任がある。各担当者がそれぞれに行動しては映画のイメージがバラバラになるし、映画全体を一番把握しているのは監督。だから、全てを確認せねばならない。映画で描いていないテーマを宣伝でアピールしてはいけないし、事実でないことを告知しないためだ。

例えばインタビュー原稿でも、俳優が語った事実を確認する。俳優がロケ地の場所を勘違いして話したり、そのシーンでは共演していない人のことを語ったりすることがある。現場は戦場。俳優も記憶が曖昧になることがある。その辺を指摘。文章を直してもらう。また、時間軸もある。その出来事はクランクイン前で、撮影中の出来事ではないーという間違い。ロケ場所の固有名詞を取り違える。いろんなミスや勘違いがある。それらも直す。

というのも撮影現場の地名、関係者、撮影での出来事、これらを全て把握しているのは、やはり監督だけなのだ。俳優はロケした店の名前まで覚えていないし、スタッフだって誰が市民俳優か?まで完全に把握はしていない。演出部はその辺の理解はあるが、彼らはすでに別の仕事でがんばっている。結局、監督が確認、指摘、修正するしかない。

さて、そのインタビューだが、すでに宝田明さん他、数名の原稿が届いている。どれもかなり興味深い。というのも監督業をしていても、撮影現場は修羅場。余裕がない。俳優たちがどんな思いで撮影に挑んだのか? 演じるにどのようにアプローチしたか?は分からない。その辺をインタビューを通して知ると「なるほどなー」とか「へーーそうだったんだ〜」ということがあり、とても興味深い。

また、俳優たちのロケ地の印象。地元委員会の皆さんへの思いも語られている。そう言えば先日、藤田朋子さんを楽屋に訪ねたときに、ちょうど映画ライターさんが来て「これからインタビューです」と言われ、まずいときに来た。僕がいてはライターさんも藤田さんも話がしにくいだろう。監督の笑い話や失敗談も遠慮なく話してもらわねばならない。で、早々に退散。あとで聞くと、藤田さんからはかなり面白い話が聞けたとのこと。原稿が楽しみだ。


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明日にかける橋ー編集日記 作品は成熟する。それを見つけるのが編集? [「明日」編集]

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昨日もなかなか編集を始められなかったが、「編集の友」であるコーヒー、ガム、お菓子、いろんな手を使い自分を物語に送り込み、夕方頃にようやくスタートした。が、やはり重いシーンはダメ。とりあえずタイムラインに並べて、軽いシーンを進める。編集もむずかしくないシーンだ。

主人公の母・桐子(田中美里)が大人・みゆき(鈴木杏)と対面する場面。そこで祖母の話をする。そこを編集していて涙が零れた。泣けるシーンではない。にも関わらず2大女優の芝居が心に突き刺さる。美里さんの台詞がとても台詞に思えない。悩み続けた母がやっと見つけた答えを伝えようとしている。そんなふうにしか思えない重さがある。

シナリオを書くときには一応、見せ場として感動シーン。泣けるシーンというのを想定するが、撮影でその通りに撮れるとは限らない。俳優の芝居が今ひとつだったりとか、時間がなくバタバタと撮影を終わらねばならないときとか、もともとシナリオに問題があったときとか、いろんな理由で感動シーンにならないことがある。

そんなシーンを編集時に「盛り上がらないなあ」と劇的な編集をしたり、あとで感動的な音楽を付け盛り上げたりすることが多いのだが、結果としてうまく行かない。映画を見ていて「ここ感動シーンのはずなのに泣けないなあ」と思うことがあるだろう。その理由は上記。それを編集で盛り上げようとするので、余計にしらじらしくなり、大音量で音楽を流して、これも余計に観客が冷めてしまったりする。

逆に、感動シーンではないのに泣けるシーンになることもある。現場で俳優が盛り上がり素晴らしい演技をして、感動シーンではないのに感動シーンになることもある。これは偶然そうなるのではなく、俳優が芝居をしやすい環境を作ることが大事。そんなとき、まれに奇跡のシーンが生まれる。

でも、そのシーンをシナリオ通りに編集したのではダメ。「ここ感動シーンになりそうだ」と感じたら「その登場人物の気持ちをどうすれば表現できるか?」を考えて編集する。そんなとき編集作業は楽しい。作家が意図せぬところで物語が成熟して行っているということ。

それを見逃してシナリオ通りに編集してしまっては、感動シーンを潰してしまうことになる。大切なところである。


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明日にかける橋ー編集日記 編集作業の必要アイテム? [「明日」編集]

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先日のパンフレット会議は必要だったが、そこで「トーキングモード」に切り替わってしまったことで、「編集モード」に戻れないでいた。シナリオを書くときも、編集するときも同じなのだが、「やるぞ!」という気持ちはあるが、それだけではダメ。物語の世界に入り込むことが必要。そのためにいろいろ方法がある。

コーヒーを飲む。カフェインで神経が高ぶるからだろう。昔はタバコを吸うというのもあったが、自主映画時代はフィルムを使っていたので、燃えるといけない。編集時はタバコは吸わない。ガムを噛む。これも集中力を高める。噛むことで脳に刺激を与えるらだ。映画のイメージに近い映画音楽を聞く。これも効果的。ジムでトレーニングするときに「ロッキー」のテーマを聞くようなもの。

あと、お菓子をかじるというのもあるが、今回もいろいろ試してみるが、なかなか作業がスタートしない。「早くやらなければ」「前に進めなければ」「上映会に間に合わないと大変だ」と気持ちばかりが焦る。そんなときは「今日はもういい!」と開き直り、以前に作業したパートの直しとか、これから編集する素材を見たりする。すると、いつの間にか次のパートの編集をしていることに気付く。

「編集モード」が切れたときだけでなく、難しいシーンの編集のときも手が止まる。見せ場のシーンや主人公が苦悩するシーンは編集する方も力を入れねばならない。登場人物と同じように苦しまないと編集はできない。そのためにはかなりの気力と体力がいる。作業がかなり盛り上がっていないと立ち向かえない。シナリオを書くときも同じだが、その辺が編集が単なる映像を繋ぐ作業と違うところなのだ。

主人公が悩むところは一緒に悩み、苦しみ、葛藤してこそ、その思いが映像に溢れるのである。それを「お仕事」で繋いではやはり「思い」が観客には伝わらないのだ。


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