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富野由悠季監督の描く「ガンダム」で登場するニュータイプとは何か? なぜ、エスパーではないのか? [映画業界物語]

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富野由悠季監督の描く「ガンダム」で登場するニュータイプとは何か? なぜ、エスパーではないのか?

それは「表現者」の素質ではないか?

と前回書いた。もう少し考えてみる。本来ならエスパーや超能力者でもいいのをなぜ、ニュータイプという定義を作ったのか? また、非常に曖昧なのはなぜか?

超能力者というと、

最初からずば抜けた能力があり、敵をバッタバッタとなぎ倒す力があるように思える。が、アムロは最初、苦戦の連続だ。が、これはよく言われる「才能」と同じ定義だろう。何度も書いているが「才能」なんてものは存在しない。年月をかけて「素質」を磨き、伸ばした実力が作品を作ったり、歌ったり、演じたり、絵を描いたり、演奏することで観客を感動させる。

だが、一般の人にその「年月をかけて磨き」という部分が理解できない。訓練したからと、とても出来るものではない。天才的な演奏。涙が溢れる名演技。心に刺さる歌声。胸を突く物語。努力でできるとは思えない。だから「才能」という言葉を作り「あの人は才能があるから、あんな演技が出来る」「あんな絵が描ける」と解釈しようとしたのだ。

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それが間違った伝わり方をして「才能があれば芝居ができる」「絵が描ける」と広まった。それでは過去の映画やドラマで描かれた超能力と同じ。例えばサイコキネシスやテレパシーは最初から備わっている。ある日突然、能力を持つというパターンが多い。それを訓練して伸ばすという超能力ドラマはあまり見ない。一般が考える「才能」と同じ発想。超能力があるから物を動かせる。心が読める。富野監督はそれを

「超能力=才能。そんなものはない!」

と考えたはず。素質ある者が、戦いの中で磨かれ伸び、開花する。それがまさにアムロなのだ。最初は内気なオタク少年。それが宇宙に出て、戦いを強要されことで磨かれ、開花し、常人を超えた能力を発揮する。

これは俳優でも、歌手でも、作家でも、表現者になら全て当てはまる。そしてシャアやララのような優れた表現者と出会うことで、さらに磨かれる。が、同時に、もう一般人の理解を超えた部分であり、ハヤトやフラウは着いて行けない。

だから、優れた能力を持つ者は孤独。

理解されない。分かり合えるのは同じ力を持った者同士だけ。そんな表現者の感性、人生をアムロという主人公で描いたのが「ガンダム」という物語。ニュータイプとは表現者になれる「素質」「資質」のことだと思える。



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