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歳を取っていいこと。意外にあるので面白い④=若くしてデビューすることに憧れてはいけない? [映画業界物語]

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歳を取っていいこと。意外にあるので面白い④
=若くしてデビューすることに憧れてはいけない?

1970年代後半。アメリカではスピルバーグやルーカスが30歳前後で監督デビュー。大活躍した。その影響を受けて日本でも20代の監督が続々と登場。そもそも、日本の映画界では伝統的に大学を出て、映画会社に就職。助監督を10年勤めてからチャンスをもらい監督デビュー。早くても30代なのだ。それが助監督経験もなく、学生映画をやっていた人たちが、20代でデビュー。大森一樹、石井聰亙、長崎俊一、黒沢清、と多くの若手が活躍。

あとに続けと多くの学生たちが8ミリカメラを手にして、映画作りに励む。僕もそんな1人だった。さらに第2世代は僕と同世代の若者たち。だが、彼らの撮った8ミリ映画を見ると凄かった。学生レベルではない。膨大な制作費をかけた企業映画にはない魅力があった。そんな彼らも20代で次々にデビュー。遅れをとった僕らは羨望の目で見つめた。

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「あんな奴ら大したことない。俺が1億円あれば、凄い映画を作ってやるのに!」

と負け惜しみいう奴もいた。皆、20代でデビューということに憧れた。それは「俺は才能あるんだ!」という証にもなり、大人たちの注目を集めることになる。雑誌やテレビにも出る。映画監督というより、ミュージシャンやアイドルのような華やかな側面もあった。当時「ぴあ」という情報誌があり、そこが毎年フィルムフェスティバルを行なった。入賞するのがプロへの登竜門と言われ、みんな8ミリ映画作りに励んだ。

僕も3本の学生映画を作った。長編なので1本撮るのに1年かかる。最初は皆と同じように、20代のデビューに憧れたが、あるときに気づいた。

「もし、このまま監督デビューできたとして、運よく毎年1年に1本撮れたとして、80歳まで生きたら、あと60本近い映画を撮ることになる...」

と身の程知らずな、傲慢な想像をした。が、もし、それが現実になると、とんでもないことにも気づいていた。

「20歳までに3本の映画を作った。全て自分で書いたオリジナル脚本。今後もそうしたい。自分の脚本を監督したい。でも、3本でかなり厳しい。それらの作品は高校時代の経験をベースに書いた。それが5年でネタが尽きた。似たようものは書ける。でも、魅力的なネタは皆、使ってしまった」

そう、シナリオを書くのは経験が大事。漫画家の本宮ひろ志さんも言っていた。

「まず自分の経験をベースに描く。次に調べて描く。そうすると、それを超えたものが次第に描けるようになる」

彼の経験を書いたのが「男一匹ガキ大将」だ。その後、「男樹」「俺の空」「俺の空 刑事編」とヒットを飛ばし、今日も新作の連載を続けている人だ。その指摘に従えば、僕の経験は3年の高校生活しかない。次の5年は学生映画。それをネタにしても「映画を撮る映画」にしかならない。そのカードが使えるのは1回だけ。トリフォーが「アメリカ夜」を作る。元ホテルマンの森村誠一がホテルを舞台にしたミステリーを書くようなもの。何度も使えるネタではない。

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つまり、20歳の僕はもう人生のカードを使い果たしたことになる。超幸運で80歳まで映画が撮れても、シナリオを書き続けることはできないだろう。ただ、誰かの書いたシナリオや原作ものという手はある。それは嫌だった。オリジナル・シナリオで行きたい。そのためには映画界以外の経験をいかにするかだ。

しかし、映画界から離れると監督になるチャンスが掴めない。いろんな経験をしても、監督になれないと意味はない。厳しい選択だったが、経験を取った。そしてアメリカ留学を決めた。6年後に帰国した時は、こう言われた。

「あのまま学生映画を続けていれば、お前もVシネマくらいは監督できたかもしれないのになあ」

留学したからと監督になれる訳ではなく、アルバイトを続けながら脚本を書き続けた。結局、監督デビューするのは7年後。映画監督になれるのは、さらに8年後だ。物凄い遠回りをした。でも、それは無駄ではなかった。

あれからの映画界。20代で監督デビューした人たち。多くが1〜2本で消えて行った。最初は若さとみずみずしい感性で評価されたが、すぐに飽きられた。ヒットを撮ることもできなかった。

そして年月と共に、若手も30代、40代、50代になって行く。もう若さも瑞々しい感性もない。普通のおじさんだ。それも映画の世界しか知らない。何人かは今も頑張っているが、もうセンスでは勝負できない。


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別格の人もいるが、数人。結局、「一発屋」だった。お笑いでいうと、80年代に最初にブレイクした漫才師B&B。早口の漫才で大人気。でも、洋七さんはいう。

「大阪で修行して10年間かけて作ったネタ。東京に進出して1年で使い果たした」

舞台袖から見ていた島田紳助さんはこういう。

「洋七兄さん。もう、しゃべることが何もあらへん。せやから、いろんな言葉をいっぱい発しているだけ。意味がない。哀れや」

その話が僕には留学を決めた一つのきっかけにもなった。そして、帰国した時、羨んだ20代デビュー組はほとんどいなくなっていた。映画ファンにも

「デビュー作はよかったんだけどなあ」

と言われる。これも本宮ひろ志さんが言ってたことだが、

「最近の若手漫画家は漫画ばかり読んでて、自分の経験なしにデビューする。自分の好きな漫画の焼き直しを描く。感性はあるが、それだから長続きしない。デビュー作はヒットしても、後が続かない」

同じだ。当時は「若き才能」ともてはやされ、賞賛されたが、それはひと時のこと。過ぎてしまうと、それは美しい思い出にしかならない。でも、若い時代はそれが永遠に続くと思い込み、憧れる。僕もそんな1人だった。たまたま、80歳までやれるか?という傲慢な想像をしたことで、遠回りはしただけ。

ただ、言えるのは近作の「向日葵の丘」も「明日にかける橋」もいろんな経験があったからこそ作れた作品。とりあえず映画監督業は14年目であり、6本の映画を監督した。あの頃、もし20代でデビューしていたら、もう終わっていたかもしれない。

あと何本、オリジナル脚本で行けるか?と言われると、3−4本というところだ。ただ、経験だけでなく、取材して描くこともあるので何とかやれそうだが、別の理由で映画を撮り続けるのは難しい。不況でどの企業も金を出さないからだ。

それはさて置き、結論をいうと、今も若い人たちは20歳前後でのデビューを夢見る人は多いだろう。監督業でなくても、作家でも、音楽家でも、でも、焦る必要はない。クリエーターは遠回りした方がいい。これも長い年月を生きたから分かることの一つだ。


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