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多くのトラブルの背景にあるのは、自身の価値観を押し付けようとすること?=捕鯨問題と同じ? [映画業界物語]

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多くのトラブルの背景にあるのは、自身の価値観を押し付けようとすること?=捕鯨問題と同じ?

アメリカ人の友人がこんな話をしたのを思い出した。

「日本人は何を考えているか分からない。本当に嬉しいのか? 悲しいのか? 顔に出さない。ロボットのように無表情、信用できない…」

よく言われることだが、ビジネスで日本人と接してそう感じることが多いという。が、別のアメリカ人はこういう。

「私たちは人と会ったら、笑顔で握手をしてフレンドリーに接する。それが我々の礼儀。でも、日本人は違う。頭を下げて礼。一歩引いて丁寧に相手と接する。それが日本の礼儀。どちらが正しいんじゃない。それぞれの習慣なのよ」
そう言われて、なるほどと思った。ちなみにその人はいろんな国籍の人に英語を教えるUCLAの女性教師だ。彼女のいうことが正解。だが、多くのアメリカ人は1人目の友人と同じ発想の人が多い。

「日本人には感情がない。喜びも、悲しみも表現しない。だから、神風アタックができたんだ。朝から晩まで働いて、小さな家に住んでいる。まるでアリのようだ」

日本人は人前で泣いたり、大笑いしたりすることは恥ずかしいという習慣がある。以前に書いた「鋭い感受性」の話でも触れたが、感性豊かな人は暮らしにくい社会。アメリカ人は頻繁に、笑い、怒り、ときには涙する。日本人から見ると幼く見えるくらいだ。

ただ、僕も6年アメリカで生活して、日本人とアメリカ人、どちらが人間らしいのかと考えた。感情を見せないことが、大人として大切なのだろうか? それより悲しいときに泣き、面白ければ大声で笑うアメリカ人の方が人間的かも?と思えたりする。でも、それは習慣や価値観から来るもの。その延長線上で考える。

映画業界と一般社会もかなり違う。映画の世界では夜会っても「おはようございます」と挨拶。「え、夜だよ?」と思うが、朝でも、昼でも、深夜でも挨拶は「おはようございます」なのだ。賃金の考え方も違う。アルバイトは時間いくらで働く。サラリーマンは月給+残業手当。どちらも働いた時間、日数に対して報酬をもらう。

が、映画人は基本(映画)1本いくらだ。撮影期間が1ヶ月でも、2ヶ月でも1本いくら。撮影が2−3日延びても額は変わらない。そしてスケジュールがタイトになってくると、早朝から夜明け(?)まで撮影する。1日20時間労働ということもある。でも、残業代は付かない。時給で換算すると100円なんてこともある。

それでもスタッフのほとんどは、基本1時間ある昼飯タイムでもロケ弁を掻き込むように、5分ほどで食べて撮影現場に戻る。飯くらいゆっくり食べればいいのに〜と、僕さえ思うのだが、スタッフは早々に現場に戻る。本当に凄い。

特に太田組に参加してくれるスタッフは本当に申し訳ないが毎回ギャラが安い。なのに全力で仕事をしてくれる。だが、他の組ではギャラが安いから「それなりに仕事する」というスタッフも多い。だとしても、映画スタッフというのは本当によく働く。それに対して、カタギの友人から聞いた話。

「とにかく100%の力は出さない。いつもは60%かな? 納期前には80%くらいの力でやるけど、めったにない。100%は絶対にない。大事なのは家庭。家に帰って子供と遊ぶエネルギーがないほどに、仕事をしても意味ないしね」

ある役所で働く人の話もしよう。

「大きな声では言えないけど、忙しく仕事している風に見せることが大事。張り切ってバンバン片付けると、上から『じゃあ、次、これやって』と言われる。がんばっても仕事が増えるだけ。その気になれば1時間で出来る仕事を、何日かけてやるか?が大事なんだ。がんばっても給料上がらないしね」

まあ、そんな人ばかりではないだろうが、そういうタイプもいるだろう。

「なるべくゆっくり仕事して、残業時間に持ち込めば残業手当がもらえる」

友人たちでもそうだが、とにかく苦労せずに、全力出さずに仕事をして、時給、月給はしっかりもらう。給料以上の仕事はしない!ということが大事なようだ。そんな時代を反映したように、映画の専門学校で講師をすると、必ず訊かれるのはこれ。

「監督って1ヶ月にいくらもらえるんですか?」「映画監督って食えますか?」

本当のことをいうと、その生徒は確実に監督志望をやめると思える。食えるのは業界で5人ほどだ。あとは皆、副業をしている。それ以前に1本の映画を監督するということは、ものすごく大変なこと。食える食えない以前に映画を監督すること自体が難しい。その生徒はいう。

「食えないのは嫌だなあ。生活が安定しないのも嫌だ。でも、映画監督になりたいんですよ…」

公務員になれ!といつもいうのだが、今時の学生は安定を求める。同時に夢や希望を求める。それはどちらかにしないと!でも、若い人がそういうの根性がなく、甘えているのではなく、教育や社会の反映なのだ。

撮影現場にはインターンという制度がある。そんな呼び方をするのは最近で、本来は「見習い」という。ノーギャラでスタッフとして参加。助手として学びながら仕事をする。現場は学校で学ぶ何倍もの勉強になる。実習の何十倍もの経験になる。プロの俳優とも接するし、プロの現場を体験できる。なのだが、そのことをブログに書くとこんなコメントが入った。

「ギャラも払わずに若者を働かせるなんて酷い。搾取だ。利用しているだけだ。そんなことをしているから映画界は衰退し、誰も映画を見なくなったんだ。そんな業界は潰れた方がいい!」

これ書いた人。たぶん、若い人だろう。バイト感覚なのだ。1時間働くと900円もらう。バイはそんなシステム。それがインターンは無給。「若い人を利用している。俺たちは奴隷じゃないんだ。働いたらなりの賃金を払うのが当然だ!」という憤りなのだろう。

だが、彼に抜け落ちている発想がある。アルバイトというのはちょっと教えられれば誰でもできる作業しか与えられない。だから、最初から1時間いくらという賃金が出る。それに対して映画は技能職だ。技術を持っていない人は現場にいても何の役にも立たない。むしろ邪魔になる。カメラをまわせる。照明機材を扱える。俳優の出し入れが出来る。メイクができる。衣裳を担当できる。そんな知識と技術のある人たちを集めて、映画を作る。

その技術を持たない人は現場に呼ばれない。しかし、新人を育てるためにインターンを置くことがある。当然、スタッフの足でまといになる。失敗することもある。トラブルを起こせば撮影が遅れ、何十万円も失うことになる。1日撮影が中止になれば少なくても100万円の赤字。そんなリスクを背負いながら、若い人に学ぶ機会を作っているのだ。

そしてインターン には撮影中の食事が出る。ロケバスにも乗せる。インターンだけ現地集合なんてことなない。地方ロケなら宿舎に泊まれる。が、まだ技術がないのでギャラは出ない。最近は5万とか、安くてもギャラが出ることもある。そんなことを知らずに先の若い人(推定)は「ギャラも払わずに若者を働かせるなんて酷い。搾取だ。利用しているだけだ!」と批判するのだ。彼の中では「バイト=「インターン」と考えている。

しかし、考えてみよう。もし、映画撮影を体験、学ぶなら、本来は映画学校に通う。授業料は安くない。大学と変わらない額だ。何百万もする。なのに、その授業料を払わずに、学校よりもプラスになる体験が出来て、現役のプロが指導してくれる。その上、飯が出て、宿舎にも泊まれる。これはノーギャラというより参加料を払ってもいいだけの経験だ。タダで学校以上の勉強になる。なのに「酷い。搾取だ。利用しているだけだ」と批判している訳だ。

映画業界だけではない。板前の世界も、最初は見習いから。技術の世界はそんな昔ながらの修行からスタートするところは多い。最近は板前さんでも専門学校に行き習うが、授業料を払って学ぶか? 賃金なしで見習いをするか? 映画も同じ。ただ、専門学校に通っても、仕事には繋がらないが、現場でインターンをすれば、スタッフと知り合えて仕事に繋がる。もちろん、認められればだが。

つまり、批判する若い人は映画業界や職人のあり方を知らず、大学=>バイト=>就職=>サラリーマンという、一般的な社会のあり方。価値観で知らない業界を批判しているのだ。知らない世界のことを「そんな業界潰れてしまえ」と攻撃的に否定する。

また、そんな彼が撮影現場を見れば、どれだけスタッフが真剣に、熱く、仕事をしているか?に驚くだろう。残業手当もなく、ボーナスもない、時給1000円以下になることもある。なのに手を抜かない(太田組ではみなさんそうです)。

「少しでもいい仕事をしたい。素晴らしい作品にしたい」

と努力する姿を見ればカルチャーショックを受けるのではないか? それとも「時給1000円でもそこまでやらねえよ」と言うのだろうか? さらに後輩の監督。僕と同じように地方映画をよく撮る彼からも近い話を聞いた。

「その町の委員会が寄付を集め、僕が監督する。そんなスタイルで何本か映画を作りました。地元の方はよくやってくれます。でも、次第にいろんなことを言い出すようになりました。前作に出た若い女優さん。いい子だったので次も出して上げようよ。とか。失敗続きだった助監督のサード君。何度も叱られていたけど、次はがんばると思うから呼んであげてよ…でもねえ….」

なるほど。町の人たちは後輩にとってスポンサーだ。依頼人でもある。ただ、素人だ。俳優の選定とかスタッフのことまで、あれこれいうのはどうか? それは監督に任せるべきだ。後輩は頷く。

「そうなんですよ。この役者を出してほしいなら分かります。が、いい子だからまた呼んでほしいとか、そんなことでリクエストされても叶わないんです。助監督にしてもサード君は本当にダメな奴で、先輩たちからボロクソに言われて、あいつのためにどれだけ撮影が遅れたか……悪い奴じゃないけど、映画の仕事に向いてないんですよ。なのに可哀想だから次も呼んでほしいって…」

もちろん、地元の方々は希望を述べているだけだとは思う。が、彼らの意見の背景が問題だ。映画作りは素晴らしい作品を作るためにすること。そのためには優秀なスタッフ、キャストを集め撮影する。後輩がいうように、仕事ができない。ミスが多い。そんな者たちを呼ぶことはマイナス。なぜ=次も呼んであげて=になるのか? それはサークル活動の発想。あるいは仲良しクラブ的な考え方だ。

僕が学生映画をしていた頃も同じことがあった。撮影の集合時間に遅れる大学生の友人がいる。30分経っても来ない。置いて行こうとすると必ず「待って上げようよ」という奴がいる。撮影時間が短くなるから行こうとすると「酷い!」「かわいそうだ!」と批判する。それに同調するものも出てくる。結局1時間遅れで来た。

そのために撮影時間が足りなくなり、翌日も撮影しなければならなくなる。また全員が交通費を払い、その場所に集まり、撮影をせねばならない。1人の遅刻が全員の負担になる。でも、彼らはいう「日が沈んだんだから仕方ないよ」—違う。遅刻した奴がいたので撮り切れなかったのだ。仕方ないことではない。

でも、大学生の友達にはそれが理解できない。映画撮影より友達付き合いが大事なのだ。友情であり、優しさだと考える。全体を見つめることなく、目の前の事実だけで「可哀想」とか言って、大局を見逃してしまう。そのマイナスが全員に降りかかる。

後輩の支援者も同じ。映画の出来とか、完成度ではなく、現場で毎日叱られていたサード君が可哀想。応援したい。だから次の呼んであげてという。目の前の事実しか見ていない。若い女優さんいい子だったから呼んであげて。いずれも近所付き合いの論理。サークル活動の考え方。大学生の友人たちと同じだ。優しさと言えるかもしれないが、後輩の使命は素晴らしい映画を作ることで、サークル活動ではない。プロの現場であり、ダメなものは置いて行かれるのだ。

「そうなんです。その若い女優も期待はずれで芝居できなくて。次の撮影ではサード君も女優も呼びませんでした。そうしたら支援者の人から批判されて、酷い。なぜ呼ばないの?失望したと言われたんです」

後輩の決断は正しい。でも、そんなことで揉めたり、信頼を失うのもおかしな話だ。その話を先輩にしてみた。映画業界のベテランだ。こう説明してくれた。

「シビアにいうけど、監督って、お前の後輩。俺も知っているけど、まあ問題ある。が、それでも監督だ。撮影隊の責任者であり、リーダーだ。会社で言えば社長だよ。その人にいくらスポンサーかもしれないが、あれこれ人選について言うのがおかしい。素人なんだから。可哀想とか、いい子だからとか、何だそれ。撮影は仕事なんだよ。自動車会社の社長に、あの従業員クビにしないで可哀想だからなんて進言するか?

でも、一般って映画はお祭りとか趣味の延長とか、そんなものだと思っている。仕事って感覚がないんだよ。だから、そんなことを言い出す。一般の人なら、そんな意見無視すればいいんだけど、スポンサーだからそうもいかない。つまり、お前の後輩が悪い。素人にスタッフやキャストの起用についてあれこれ言わせる環境を作ったからだ。だから、その人たちは自分が知らない世界のことをあれこれ、自分たちの価値観で批判するようなったんだ」

その通りかもしれない。後輩は監督らしくなく謙虚で、真面目で、おとなしい。頼りないところもあり、応援したくなることがある。そんなところが支持されて、その町で映画を撮ることになった。だから、町の人たち。皆、彼より年上の、それなりの立場の人たち。彼を応援し、親しく話をする。そのために、あれこれ言う環境ができてしまったのだ。

そして先に例をあげたアメリカ人と日本人。インターン問題と同じ。自分がいる世界の価値観で、自分の知らない世界のあり方を批判してしまう。自分たが正しい、優しさがあると思って批判。相手が酷い事をしていると思い込む。

言い換えればクジラ問題と同じ。アメリカは「クジラは哺乳類。賢い動物。それを捕獲して殺し食べるのは野蛮。可哀想」と日本の食文化であるクジラ漁を批判する。圧力をかけ制限する。そのくせ自分たちは牛や豚を食べている。自分たちの文化にないものは「可哀想」「許せない」「酷い」と否定する。それと同じではないか?

撮影現場で失敗の多いサード君も、地元から見ると、一生懸命、毎日怒鳴られて可哀想。応援したい存在。芝居のできない女優も、いい子だった。がんばってほしい。次も呼んでほしいと感じるのだ。人として考えるなら、ダメな子でも応援する。同情する。それはいいことだ。

が、映画製作からすると、マイナスでしかない。それぞれに正しい。しかし、監督にそれを要求する地元の人の言動は間違っている。彼の使命は「ダメな子を育てること」「下手な俳優を鍛えること」ではなく「素敵な映画を作ること」なのだ。

こうして見ていくと、いろんなトラブルは互いの価値観。それぞれの世界の習慣、ルール。それを尊重せず、批判したり、否定したりすることで起きていることが分かる。しかし、多くの人はそれに気づかず、自分たちが絶対に正しいと信じ、自分の世界の価値観で別の世界を批判してしまう。後輩にそんな話をすると、彼はこう答えた。

「最近、思うんですけど、違う世界の人同士って理解し合えないじゃないかって? 僕はあの街の人に支援されて何本か映画撮った。感謝しています。だから、要望もなるべく聞くようにしているんですけど。最近は細かなことまで、あれこれ言われて作品が歪んでくるし…もちろん、みんないい人たちなんですよ。けど、一線を引いて付き合うことも大事かなって、映画人と一般の人は、分かり合えない…..そう思えています…太田さんの現場。全然、そんな話聞かないし、羨ましいですよ」

その理由は簡単だ。地元の人たちが映画製作を事前に勉強。撮影現場で俳優に話かけない。写真を撮らない。サインを求めない。演出やシナリオにあれこれ言わない。プロに任せるとか、いろんなルールを決めて、スタッフ&キャストを尊重してくれたからだ。

他にも様々な部分で映画製作のあり方を理解してくれた。だから、うまく行った。それに対して後輩の街は映画の方法論を知ろうとせず、自分たちの日常にある価値観を映画製作に押し付けようとした。それではうまく行くはずがない。大事なのは、その世界を自分たちの価値観で批判しないこと。その業界の価値観やルール尊重すること。何事もクジラ問題と共通するものがあるように思える。


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