SSブログ

俳優業等ー表現の仕事に大切な感受性について詳しく語ろう [映画業界物語]

42705385_2185692478171711_7068399421884465152_n.jpg

俳優、歌手、ミュージシャン、作家、画家、映画監督等々の「表現」の仕事をする人に大切なのは「鋭い感受性」であることを毎回、書いている。では、感受性とは何か? 簡単にいうと「感じる力」。美しいものを美しいと感じ。悲しいことを悲しめる。自身のことだけではない、他人の悲しみや苦しみも自分のことのように悲しみ苦しんでしまうのが鋭い感受性を持つ人の特徴。

多くの子供はそれを持っているが、大人になるに連れてそれが固まり、能力が低下していく。10年に渡る教育と日本人の考え方ー感情を押さえるのが大人ーと、現代社会、会社等の組織で仕事をする上では「感受性が豊か」であるより、無神経な方が楽という環境もある。

フレッシュな気持ちで入社した会社員も、勤続年数が増えるたびに感動や喜びがなくなり、与えられたことをひたすらこなすロボット社員のようになってしまう光景はどこでも見かける。夕陽を観て「あー美しい」雨の日に「雨音が綺麗」と感じたりする感性が失われて行くのだ。他人の不幸を見ても何も感じない。苦しむ同僚を見ても「バカな奴」としか考えない。感情が麻痺して行くのが現代社会であり、組織である。

そんな環境の中で、鋭い感受性を持つ人は本当に生き辛い。でも、そんな人こそアーティストと呼ばれる表現の仕事ができるのである。「サラリーマンは嫌だから、芸能界に転職して派手な人生を送りたい」という動機ではダメ。日常が生き辛い豊かな感受性こそがアーティストの条件なのである。

しかし、感受性が鋭ければ誰でも俳優や歌手になれる訳ではない。が、その前にもう少し「感受性」について説明する。僕はロスアンゼルスに6年住んでいた。カルフォルニアの青い空。雨は1年に7日くらい。ハリウッドがあるくらいの町だから晴れが多い。

最初は本当に快適だった。湿度も低く。梅雨もない。6月は毎日、傘をささねばならない。ジメジメする町で生活していた頃を思うと本当に快適だった。春秋でも天気がいいと暑い。ハワイほどではないが、冬でも晴れの日はプールで泳げる。日本から考えると本当に羨ましい気候。

だが、そんな町で何年も暮らしていると気付く。季節がほとんど変わらないこと。雨が降らないことがどんなに苦痛であるかということ。日本では暑い夏が続き、「あー早く秋になればいいのに〜涼しくなってくれよ〜」と思うが、実際に秋になり涼しくなると、夏の暑さが懐かしくなる。

汗を流しながら町を歩き、エアコンの効いた喫茶店に入ったときの快感。アイスコーヒーの冷たさ。そんな日々にもう一度戻ってみたいとさえ思う。冬は冬で「寒いの嫌だー」と思っても、春が来ると、その寒かった日々。白い息を吐きながらバイトに通った日々が懐かしく思える。

雨も同じだ。シトシトと降りしきる雨。傘の上で雨音が跳ねる。ハンバーガーショップに入り、雨が弱くなるのを待つ。窓から外を見ると色とりどりの傘をさした人たちが早足で歩いて行く。窓ガラスをつたう雨だれ。日本にいると1年中体験することであり、鬱陶しい記憶でしかない。しかし、雨の降らない町にいると、そんな経験がもの凄く懐かしく、同時に、それが日本人の感性を育てていたことに気付く。

移り行く季節。だからこそに悲しくも美しい。満開のサクラもやがて散る。積もった雪も最後は溶けてなくなる。夏の暑さも、冬の寒さも永遠ではない。そんな中で生活する日本人だからこそ、ものの哀れ、という考え方が生まれて来た。美しいものを愛でる、感じるという感性が育ったのだ。雨も、雪も、同じ。

それがロスアンゼルスにはない。雨も1年に7日ほど、雪は降らない。サクラもない。1年中ほぼ夏。言い方はよくないが、LAで育ったアメリカ人は少々無神経。フレンドリーともいえるが、単純発想の人が多いと思える。映画監督であり、俳優でもあるウッディ・アレンが「LAには住めない」とよく言うが、なるほどという気がする。

そのニューヨークは四季がある。冬はもの凄く寒い。雨も降る。その街で育った映画監督ーアレン以外だと、マーティン・スコッセッシがいる。ハリウッドの映画が単純明快なヒーローものが多いのに対して、ニューヨーク派は繊細であり、芸術タイプが多い。それも土地柄。つまり、気候風土が感受性を育てるのである。その意味で日本人は素晴らしい環境で生活している。のだが、教育と会社によって、その感受性を踏みにじる環境が同時に存在する。

感受性の話を続ける。分かりやすくいうと食べ物でもそれが分かる。多感な人は食べ物にこだわる。「何でもいい。食えりゃいいだよ」という人はやはり無神経なことが多い。その意味で食べることに拘る女性は男性より、多感な人が多いということだ。映画も食べ物に拘る。業界の先輩。演出部だが、その人が結婚式のパーティをするレストランを決めるのも大変だった。何軒もの店を訪ね、実際に食事して、数ヶ月かけて店を決めた。というのも、映画人は食うことにうるさい。

ある有名監督は「食べることに拘らない人はいい映画を作れない」という。そういえば伊丹十三監督は「食べる」というテーマで「タンポポ」という映画を作ってしまった。あれを見れば伊丹監督の「食べる」ことへの拘りがよく分かる。先輩も食べるに拘る。彼の仲間、それこそ先輩や監督、俳優らがパーティに来て、「えー**さん。こんな料理を出す店。選んだの?」と言われたくなかったのだ。それで先輩のセンスや志向が分かってしまう。「さすが、**先輩」という料理を出す店にしたかったのだ。

食べることへの拘りは食通ということではない。高くて美味しいのは当たり前。普通の値段でも、努力している店。手抜きをしている店がある。それを見抜くのも感受性なのだ。食事だけではない。店の内装や照明でも、その店の経営者のことがよく分かる。そこに趣味やセンスが現れるからだ。

それも感受性から来るもの。特に照明は気になる。日本という国は先にも書いたが、感受性を育てる素晴らしい環境があるのに、照明に限って言うと、本当に無神経。その原因は蛍光灯。スイッチひとつで部屋全体が明るくなる。もの凄く無神経な光だ。

僕も生まれたときから蛍光灯だったので気付かなかったが、アメリカ映画を見ていると部屋の灯りが違う。間接照明にしてある。蛍光灯ではなく、裸電球。それを複数のスタンドで部屋を照らし出す。だから、部屋の中に光と影があり、蛍光灯が白色なのに対して、裸電球はオレンジ色。その色合いが美しい。

なぜ、日本は蛍光灯になってしまったか?分からないが、電気代が安い。部屋が明るくて作業が能率的とかいうことがあるのだろうが、美しくない。経済性と利便性を取り、美的感覚を捨てたのだと思える。僕が住んでいたロスアンゼルスの安アパートでさえ、間接照明だった。だから、帰国して以来、僕の部屋は間接照明だ。今はLEDの赤い電球があるので電気代も安い。

話が逸れたが、生活する中にもいろいろと感受性が試されることがある。ファッション、音楽、演劇、映画、感受性が鋭い人はそれらを楽しむがそうでない人はそこそこ。しかし、それは日常レベル。そんな感受性のずば抜けた人が表現の仕事をするのに向いている。

感じる力ー美しい、悲しい、醜い、苦しい、せつない、儚い、等々、あらゆるものから感じ取る力がないと、表現することはできない。それらを感じてこそ、俳優なら悲しみ、苦しみ、喜び、妬み、を表現できるのである。作家や歌手、画家や映画監督も同じだ。

だが、感受性が鋭く、それらを感じることができるからと、すぐに表現が出来る訳ではない。以前に書いたアウトプット作業の熟練をしなければ素晴らしい表現はできない。

感受性が鋭ければ、「この俳優の悲しみの表現は見事だ」と見抜くことはできるが、いざ、自分がそれができるか?というと別。往々にして、その表現の素晴らしさ、未熟さを見抜ける人は、自分ならもっとうまくできると思いがち。そこが大きな間違い。鋭い感受性があった上で、表現の訓練をしないと、素晴らしい表現はできない。

ピアニストだって、バレリーナだって同じ。歌手も、俳優も、ミュージシャンも、作家も同じ。熟練した技術が求められる。感受性が鋭いからとピアノが弾ける訳ではない。まず、ピアノを弾く技術を学び、それを毎日、幼い頃から繰り返す。

その上で鋭い感受性がある人がやがて、名ピアニストとか呼ばれるようになるのだ。楽器は物理的に弾くという行為があるから分かりやすし、バレーやダンスも形が決まっているので練習が必要なことは理解しやすい。が、演劇の場合は何もしなくても、できそうに思う人が多い。それこそ「才能」があれば、とか考える。今回のテーマで言えば

「私は感受性が鋭い。食べ物も、ファッションも、拘りがある。演劇もよく見る。だから、できるはず」

とか思う。が、演劇もピアノやバイオリンと同じ。楽器を弾き、音を出す。音楽を奏でるという練習を繰り返しすることで、単に楽器を弾くだけでなく、その曲の美しさ、悲しさ、優雅さをも表現できるようになる。演劇も同じ。単に悲しい台詞を口にするだけでなく、その悲しみを観客に伝えるためには年月をかけた訓練と練習が必要なのだ。

これは文章でも同じ。僕は帰国してからバイトをしながら5年間。シナリオを書き続けた。書き上げては業界の先輩。友人。仲間に読んでもらった。が、最初の頃は不評。ま、SFドラマを書いていたので、年配の人たちには理解し辛いのだと思えた。今考えると、半分はその通りだが、半分は僕の文章力のなさだった。そして次第に分かってくるのは、僕はSFドラマが好きなのだけで、自分がそれを書くのは決して得意ではないということ。これは俳優に例えると、2つの側面がある。

1つ目は、表現力がないので、演じても評価されない。もう1つは演じる役が合ってないから評価されない。例えば70代にさわやかな二枚目青春スターとしてデビューし人気を誇った俳優Mさんがいる。が、その後、パッとせず、いろんな映画に出たが興行不振。それがあるとき時代劇に出演。好評だった。

その後、悪役を演じても好評。それらの役の方が彼の魅力が際立ったのである。同じように、僕もSFドラマではなく、青春ものを書いたとたんに、まわりの評価が上がった。さらに、好きだけど、書くのはなあ…と思っていたミステリーが好評。そのシナリオでプロデビューすることになった。

脚本家ならまず「書く力」を鍛える。俳優なら表現力。その次がスタイルなのだ。最初はどんな役でもやってみる。そこで感情表現を鍛える。その上で、スタイルを模索する。僕の場合だとSFより、青春ものやミステリーだった訳だ。

バレリーナやピアニストと同じである。ところが、その訓練というのが難しい。というのは、これはかなり僕の意見であるが、いくら演劇学校で練習しても、うまくならないということ。もちろん、少しはプラスになるが….、という程度だ。ワークショップだって、要は講師である監督がどんな人か? 気に入ってもらえるか? 何か新しい指摘をしてくれるか? というくらいのものだ。音楽家の宇崎竜童さん。以前こんなことを言っていた。

「100回スタジオで練習するより、ライブをして観客の前で演奏する方がうまくなる。その1回が100回に勝る」

本当にその通りだと思う。100回レッスンするより、1回舞台に立ち芝居をする。カメラの前に立つ。それがうまくなる早道。もちろん、そこまで行くのは大変なことだ。でも、有名な劇場や企業映画である必要はない。

最近はプロの俳優でも専門学校の実習に出演する。素人だと嘗めてはいけない。カメラの前に立ち、演じることは大いに意味ある。マイナー劇団の舞台でもいい。ちょい役でもいい。舞台に立ち。観客の前で演じること。それが一番勉強になる。

それをせずに、仕事もないのに事務所でレッスンを受けて自分はプロだと思ったり、業界の飲み会に参加してアピールしたり、映像関係を訪ねて営業したり、そんなことで仕事をもらえても、表現力が貧しければ結局は消えて行く。まずは表現力を養うこと。最初から名演技ができる人はいない。何度も場を踏むこと。それを忘れてはいけない。

脚本家志望だった友人も、いつまで経っても書こうとせず、「依頼があればいつでも書きますよ」というばかり。プライドが高く。実績もないのに依頼が来る訳もない。もし、依頼があったとしても彼には大したものは書けなかったはず。書く力を養うためには書き続けることが大事。それに書いたことがないから「俺が書けば凄いシナリオが書ける」と勘違いし続けることができたのだ。

僕が教えていた演劇学校の生徒も似たような子がいて、何かというと「俺、まだ本気でやってないですから」と言っていた。企業映画や大きな舞台の仕事が来たら本気出すというのだが、レッスンだけしてうぬぼれてる奴に依頼など来るはずもない。毎回本気を出さずして、ここぞという場で本気は出ないのだ。

というところで今回のまとめ。表現の仕事をするには「鋭い感受性」が必要。でも、それだけではダメ。感受性を駆使した表現力を鍛えること。技術を覚えること。熟練することが大事だ。もう分かってもらえたと思うが

「あの俳優さん凄い!才能あるからあんな演技ができるのね!」

というのは間違い。鋭い感受性がある人がもの凄い努力を何年も続けて自分なりの表現を模索した結果なのだ。その背景が分からないから多くに人は「才能」という言葉で理解しようとしてしまう。「才能」=「感受性」ではない=>「感受性」+「努力」+「何年もの模索」なのだ。

しかし、それだけではない。「経験値」というものも重要。これは武器にもなるし、勘違いの背景にもなる。それはまた別の機会に紹介する。


42779574_2189290307811928_8757752368847650816_n.jpg
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:映画

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。